第十三章 第一節 後日談
ローガンは現実的な仕事をこしらえてそれに集中するよう努力した。例の妄想に誘惑されても、それを衝動的に実行することがあってはいけないと思う理性は残っていたのである。どんなに辛いことがあっても生きている以上、必ず時は過ぎ去るということを、ローガンは経験から知っていた。そして現に、二週間ほどが過ぎたある午前に、彼は家庭教師の給料を受け取るため再びライアン邸を訪れていた。
執事のゴードン氏に案内されて居間に通されると、ライアン侍従長はモーニングコート姿でソファーにどっかりと腰を下ろし、コーヒーを片手に新聞を読んでいた。
「何か用かな?」
彼はローガンに気づくと、コーヒーを置いて見上げた。
「おくつろぎのところを申し訳ありません。さきほど家庭教師の給金をゴードン殿よりいただいたのですが、本来の金額とは別に、百パンド分の紙幣が入っていました」
「それは特別手当だ。シェイラが学校に入れたから成功報酬だよ。受け取りたまえ」
「いえ、特別手当など契約にはありませんし、金額が大きすぎます。給料だけで十分ですので、これはお返ししたいと思いまして」
ローガンは上着のポケットから札束を取り出した。
「遠慮せんでもいいよ、ほんの感謝の気持ちだ。雇われ神官の給料じゃあ生活も大変だろうから、少しでも足しにすれば良い」
「いいえやはり、こんな大金は受け取れません」
「大袈裟だな、それぐらいが大金かね?」
「私にとってはそうです。それにもう既に、給料以外でたくさん良い思いをさせていただきました。お茶やお菓子や、昼食も何度かご馳走になりました。これ以上は心苦しいので、せっかくですが辞退させてください」
「ふうん……」
ライアン侍従長はまじまじとローガンを見て、立ち上がり近づくと、その手からいきなりひったくるようにして札束を奪った。そして後ろに控えていたゴードン氏にそれを渡し、ローガンにこう言った。
「愚かだな、受け取っておけば良いものを。プライドなんか何の役にも立たんぞ」
瞬間的に頭に血が昇ったが、すぐに平静に戻った。そして、この感情が彼の言う役に立たないプライドなのだと、ローガンは思った。
「まあいい。少し時間があるから、こっちに来い。一緒に庭を歩こうじゃないか」
ライアン侍従長は肉厚の大きな手でローガンの肩を二度叩き、中庭に促した。
二人は回廊から降りて、庭の中央を横断する敷石の道をゆっくりと歩いた。空は曇っていたが、木々に新緑が芽吹き、マーガレットやチューリップや、その他名前を知らない色とりどりの花が咲いていた。
「私は庭園に凝る方ではないから、ここは屋敷を買った当時のままだ。ご覧のとおり雑然としているから、たぶん庭としての評価はあったもんじゃないのだろうけど、その辺の田舎の裏山みたいな雰囲気が結構好きでな。木は庭師が適当に手入れしているし、花はカプラン夫人が好きなものを植えているらしい」
「そうなのですね。わたしもこの雰囲気は好きです」
ただの時間潰しなのか、何か意図があるのか判らない。中高年によくある、とにかく若者と話をして刺激を受けたいという発想なのだろうかと、ローガンは訝りながら付いて行った。ライアン侍従長は話を続けた。
「こうして土の臭いを嗅ぐと、わたしは子供の頃を思い出す。時々、この屋敷に住んでいることが不思議に思えてくるのだよ。察しはつくと思うが、わたしが生まれた家というのは、物凄く貧しかったからね」
「はい……」
回廊の向こう側に続く敷石の道は、中央に小さな古代神殿風の東屋が設えてあった。ライアン侍従長はそこまで来て足を止めた。
「そうだ、確かこの話は君にしたと思うが、知り合いの地主の令嬢が、家庭教師と駆け落ちをしたという話、覚えているか?」
「あ、はい、覚えています」
当たり前だ、覚えているに決まっている。一日だって忘れたことがあるものかと、ローガンは心の中で叫んだ。
「その後、二人はどうなったと思う?」
「わかりません」
「結婚したんだよ」
「えっ!」
「仕方なく両親が結婚を許したんだ」
「そうなんですか……」
ローガンは心の中に、怒りが生まれるのを感じた。
「二人を捜しだした時にはもう結婚していたし、ご両親は娘さんを可愛がっておられたからな。仕方がなかったのだろう」
「そうですか……。けれどその娘さんは、家庭教師をしている神官などと結婚して、随分と生活が落ちてしまったのでは?」
「はは、そんなわけがない!」
ライアン侍従長は人をバカにしたように笑った。
「どうしてですか?」
「父親が娘さんに、持参金として財産をたっぷりと分けてやったからな。父親としては、婿のことが気に入らなくても、可愛い一人娘に苦労させるわけにはいかないから、そうせざるを得ない。その婿はもう、神官職も辞めてしまったそうだ」
「なるほど……」
「上手いことやりよるもんだよ。まあ昔からある常套手段だがな。金のない男が成り上がるために、上流階級の令嬢を誘惑して駆け落ちするというのは」
「そういうものなんですね」
ローガンは一瞬驚いたが、以前にもどこかで同じような話を聞いたことがあったことを思い出した。上を目指すのに女性を利用する男が存在するのは、驚くほどのことではないのに、今の今まで忘れていた。ライアン侍従長が最初の日に警告したのは、単に教え子と恋愛関係になるなというよりは、利用するために誘惑するな、という意味だったのだろうか。
そんなことを考えながら暫く沈黙していると、ライアン侍従長はまた話を始めた。
「わたしも昔、似たようなことをした。ただし、わたしの場合は金が目当てだったわけじゃないぞ。妻の家柄が目当てだった。ライアン姓は妻の姓なんだ。ライアン家は古い家系の、いわゆる名家だったが金がなくて困っていた。私の方は、金はあるが出自が悪い。お互い利害が一致して結婚したのだよ」
「そうだったんですね」
世の中にはこのような話を抵抗なく人に暴露できる人間もいる。彼の場合、本当は違うのだけど冗談として言っている、というわけでもない。心の底から、目的を達成するために当然取るべき賢い手段、という程度にしか思っていないのだ。そのために誰かに嘘をついたとしても、罪悪感などあろうはずもない。
「その結婚の甲斐もあって、今ではこのとおりだ。フォルセット州の屋敷はここの三倍は大きいぞ!」
ライアン侍従長は両腕を広げてそう言った。ローガンは何と応えて良いか分からなかった。
そろそろ外出する時間だと言って、ライアン侍従長は回廊の向こう側に向かって再び歩き出した。ローガンは、シェイラのことを聞くなら今しかないと思った。
彼女が発ってから二週間が経つ。もしや、後見人であるライアン侍従長に近況を知らせる手紙が届いているのではないかと、ローガンは考えていた。
しかし、これを口にするのには思い切りが必要だった。シェイラとの間にあったことがメアリーから伝わっているのかどうかが、全く分からないのだ。メアリーが話していなければ違和感のない質問だろうが、もし話していれば、その質問をすることをきっかけにして、酷い侮辱を受けるかもしれないことが恐ろしかった。
「フォースター様は今頃どうされているでしょうか。手紙などは届いているのですか?」
声が震えそうだったが、最後まで言い切った。
「いや、まだ何か来たという話は聞かないな」
それが答えだった。
ローガンは諦めきれずに、ライアン邸を出る際にゴードン氏にも訊いてみたが、答えは同じだった。その日は、ライアン邸で起こった出来事について色々と考えを巡らせた。しかし、なぜライアン侍従長が中庭に誘ってまであのような話をしたのかという、その意図については、よく分からなかった。




