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第十二章 第三節

 次の日から、またカレンダーは順調に塗り潰された。取り乱したのはその一晩だけだった。努力の甲斐あって、ローガンは最終日の最後の時まで、平静を保ったまま辿り着くことが出来た。

「これで、終わりなのですね……」

 教科書としていた本を閉じて、シェイラがそう呟いた。

 ローガンは気を引き締めた。なんとか、今日のここまで来ることが出来た。これから彼女を失った後の明日まで、生きて辿り着かなければならないのだ。

「今日は午後から荷造りが大変ですね。あまり進んでいるように見えませんが?」

 ローガンはわざと茶化すように、笑いながら言った。

「わたしの荷物なんて、少ししかありませんから。半日あれば十分です」

 少女は憂鬱そうに言うと、身体を横に向けて、隣にいるローガンを見上げた。深緑色の瞳が潤んで、眼の縁はうっすらと薄紅色に充血していた。その姿が視界を埋めると同時に、シェイラは一瞬でローガンの心に入り込んだ。この期に及んでは、彼女の存在を頭から追い払うことなどは、出来るはずもなかった。

 見つめ合ううちに、シェイラは泣き出しそうな顔になり、そして両手のこぶしを膝の上で握りしめて、意を決したという風に話し始めた。

「わたし……、わたし本当は試験を受けた後、落ちれば良いのに、って願ってしまいました。いけないことだって分かっているけど、学校に入れなくなったら、これからもあなたと一緒にいられるでしょ?」

「だから編入が第二学年なのですか? 年齢でいえば第三学年になるはずなのに」

 動悸が高鳴るのも、胸の痛みも無視して、ローガンはあくまで明るく応えた。

「違います! 試験は本気で受けました。第二学年なのは単にわたしの出来が悪かったからです」

「今まで通り頑張れば、あなたなら学校に入ってから追いつくことが出来ますよ。とにかく不合格にならなくてよかった」

「あなたはそう思うのですか? 不合格にならなくて良かった、って」

「もちろんですよ。それが私の仕事ですから」

 ローガンが微笑むと、シェイラは口を少し開けたまま、茫然としたような顔になった。ローガンは助けを求めて、壁際の長椅子に目をやった。そこにいるはずのメアリーはいつの間にかいなくなっていた。

「メアリーさんはいません。お願いして、少しの間どこかよそに行ってもらったのです。もう最後だから、二人きりにして欲しいって、お願いしたのです」

「バラノフさんにそんな風に言ったのですか?」

「ええ」

 シェイラは恥ずかしそうに頷いた。ローガンはメアリーが馬鹿ではないことを知っているので、彼女は今まさに扉の向こうに張り付いて、聞き耳を立てているに違いないと思った。シェイラは華奢な身体を小さく震わせながら、また話し始めた。

「わたし不安で……、このままじゃ寄宿学校へなんかとても行けません。もうこれきり……あなたと会えなくなってしまうんじゃないか、って……」

「シェイラ様、わたしが今、何を考えているか分かりますか?」

「いいえ、分かりません」

「あなたの未来を考えています」

「どういうことですか?」

「あなたは明日から寄宿学校に入り、好きな勉強を思う存分なさるでしょう。良い友人に恵まれて、今まで学校に行けなかった分を取り返すくらい、楽しい学園生活を送るでしょう。そして大人になり、丁度良い時期が来たら、お父上と侍従長殿があなたに似合う男性を紹介してくださるでしょう。一生、何不自由なく暮らせるだけの十分な財産と、それなりの身分を持つ素敵な男性です。あなたはその紳士にこの上もなく愛されて、周囲に祝福され、幸せな結婚をするでしょう。そして生涯、ずっと幸せに暮らすのです」

 シェイラは言い終わる前からもう首を横に振り続けていた。

「わたしは財産なんかなくても、わたしが一番好きな人と結婚したい!」

「お金で苦労しながら育ったあなたが言う言葉ではないですよ、しっかりしてください!」

 ローガンは明るく励ますようにそう言った。シェイラは目を赤くしながら必死に涙をこらえていたが、不意に瞼を閉じ、唇を引き結んだまま、はらはらと涙を流した。そしてそのまま俯き、しばらく肩を震わせていたが、また懸命に顔を上げて、こう言った。

「わたし、要するに、振られちゃったってことなの……?」

「そうではありません。あなたのことがとても大切だから、幸せになって欲しいのです。どうか一時の感情で大切な人生を棒に振ってしまわないで。あなたなら解るでしょう? ……お母さんのことを思い出してください」

 シェイラは暫く沈黙した。母のことをバカだと言ったことを、思い出したのかもしれなかった。彼女はまた口を開いた。

「け、結婚して欲しいだなんて言うつもりはありません。わたしのことを嫌いでないのなら、また会えるって言ってください。お願い、また会いましょうって、言ってください!」

「いいえ、もう会うことはありません。ここでお別れしましょう。私があなたに本気だから、ここで別れなければならないのです。……どうか解ってください」

 シェイラは駄々をこねて泣く子供のように、口を結んで首を横に振った。ローガンはさっと立ち上がった。

「今まで、本当にありがとう。さようなら」

 はっとして目を見張るシェイラを置き去りにして、ローガンは急いで立ち去った。

「嫌だ!」

 シェイラの手が腰の辺りを掴もうとして、一瞬触ったのが分かった。ローガンは構わずに、そのまま部屋を出た。

 背後から嗚咽が聞こえる。身体中にしびれが走り、ローガンは一瞬動けなくなった。けれど、彼は意識して息を吸い、懸命に足を動かして、再び歩き出した。

 いつの間にか、メアリーが隣にいた。

「ナイトリーさん、あなた、大丈夫なの?」

 ローガンがあまりに速く歩くので、メアリーは小走りになりながら話し掛けた。玄関ホールまで来たところで、彼は立ち止った。

「あなたは全部聞いていたのですね?」

「そりゃあね……聞きますよ。心配だもの」

 メアリーは少しばつが悪そうに答えた。ローガンはなぜだか虚しい気持ちが込み上げ、片手で顔を覆うと、力なく自嘲の笑みを漏らした。メアリーは続けた。

「でもあなたが馬鹿なことを考えていなくて良かった。シェイラ様の方は、駆け落ちでもしそうな勢いでしたから」

「彼女と何か話しましたか?」

「いいえ、特には。わたしは仲を裂こうとする悪者だと思われているから、きっと。でも大人になれば、彼女も理解してくれるはずですよね」

 ローガンは気持ちを落ち着けるために、上を向いて一つ大きく息を吸い込んだ。

「バラノフさんとも、今日で最後ですね」

「そうね、色々とありがとう」

「こちらこそ。どうぞお元気で」

 二人は握手をして別れた。

 ライアン邸を後にすると、十歩ほど行く間に心が折れた。泣き崩れないようにするには、歯を食いしばり、身体中に力を入れて懸命に歩くしかなかった。すれ違った人には怪訝な目で見られた。泣くのを我慢しているというよりは、怒っていると思われたかもしれない。

 それから一週間くらいは、自分を憎むという悪い癖が猛威を振るって、激しく落ち込んだ。それでも周囲から見れば、話しかけても返事をしないことがあるとか、何もせずにぼうっとしていることがある、といった程度の変化だっただろう。内心は、気絶するまで壁に頭を打ち付けるとか、馬車の前に飛び出すといった、自傷の妄想に取り憑かれていた。

 自己嫌悪が極まって、自分を殺したいとか自分を消したいという欲求に駆られるのはなぜなのか。それは大切な女性を傷つけた男を殺してやりたいという復讐心のせいであり、また、貧乏で地位も身分もない奴隷出身者などは生きる価値もないという信念のせいでもある気がした。


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