第十一章 第三節
あっという間に、サイモンとメアリーとクリスが出発する運びとなった。メアリーは自棄になるのと怒りとが混じったような妙な興奮状態に陥っていて、残される二人を気遣う余裕はないようだった。ただ去り際にローガンを見て、怒っているような口調でこう言った。
「そういうわけですので、すみませんが後はお願いします。シェイラ様を連れて帰ってくださいね」
メアリーが行き、クリスが手短に挨拶をして後に続いた。サイモンが最後に残り、シェイラとローガンに突然帰る非礼を詫びた。彼の目は言葉とは裏腹に、この事態になる前よりも生き生きとしていた。
サイモンはいつの間にか封筒らしきものを手にしていて、それをシェイラに差し出した。
「これはやっぱり君が持っていた方が良いと思う。受け取って」
シェイラは無表情に、白い封筒に目を落としていたが、やがて何も言わずに受け取った。
サイモンは、今度はローガンに話しかけた。
「この後の予定というのは?」
「十一時にライアン家の馬車が迎えに来る手筈になっています」
「そうか、じゃあそれまで楽しんで。シェイラのことは頼んだよ。それじゃあ、また」
ローガンとシェイラは競い合うように今日の招待とさまざまな取り計らいに対する礼を言って、サイモンと別れた。サイモンは足早にメアリーたちを追って行き、すぐに見えなくなった。
二人きりになって、先に口を開いたのはシェイラの方だった。
「メアリーさんのお母さん、逮捕だなんてビックリしたけど、きっと新しい薬が効いて良くなりますよね? 私も行こうかと思ったのですけど、かえって足手まといになるだけかと思って……。心配だけど、本当にハートさんがいてくれて良かった。もし私だけだったら、きっとどうしたら良いか分からなくて、パニックになっていたと思う」
自分も一緒に行こうなどと毛頭考えなかったローガンだが、不安そうなシェイラに合わせようと、自分もメアリーを心配する気持ちになって答えた。
「バラノフさんも、かなりショックのようでしたね。ハートさんの計画通りに上手くいくことを祈ります。けれど、わたしも本当に驚きました。バラノフさんのお母さんの病気が、精神の病だとは知らなかったですしね。ハートさんは前に、彼女から何か相談を受けていたのでしょうか?」
「そのような感じでしたね、はっきりとは知りませんが……。ハートさんは薬とか病気に詳しいので、相談したのだと思います」
「あなたは、バラノフ夫人の精神病のことは知っていたのですか?」
数瞬の間があった後に、シェイラは答えた。
「わたしは知っていました」
シェイラは思い詰めたような表情でゆっくりと元のテーブルに戻り、椅子に手を掛けたが、そこで動きが止まった。彼女はローガンを振り返った。今にも泣き出しそうな顔だった。
「ナイトリー先生、場所を変えてもいいですか? 静かな所で頭の中を整理したいのです。色々な話を聞いて、頭の中がごちゃごちゃなんです」
その表情に胸を打たれて、ローガンは一瞬、彼女の言う言葉が頭に入らなかった。
「分かりました、行きましょう」
やがて理解してそう言うと、ローガンは右腕を差し出した。驚くほど自然に、シェイラはその腕を掴んだ。弱々しいけれど確かに感じる手の感触に、身震いした。
二人は会場を後にし、コートを羽織ってホテルのロビーに移動した。運良く炉辺のソファーが空いていたので、ローガンは一番暖かい席をシェイラに勧めて、自分は向かい合うように置かれた椅子に目をやりながらも、結局、彼女のすぐ隣に腰を下ろした。ロビーは一般の宿泊客もいれば舞踏会を抜けてきた他の男女もいて、完全に静かとはいかなかった。しかし会場の音楽や喧噪は遠ざかり、ローガンにはシェイラがついた溜息の音がはっきりと聞き取れた。丸テーブルに置かれた燭台の炎が、少女の横顔を照らしていた。
「落ち着きましたか?」
優しく問いかけると、シェイラは弱々しく「はい」と答えて、また溜息をついた。そして不安げな面持ちでローガンを見上げて、こう言った。
「ナイトリー先生、王妃様はわたしのことがお嫌いなのでしょうか?」
まだその話なのか。
ある程度予想はしていたのに、ローガンは微かな苛立ちを覚えた。嫌いに決まっているでしょう、と言いそうになるのを抑えて、論理的な人間のふりをしてみた。
「それは、わたしに分かることではありません」
シェイラは馬鹿なことを聞いてしまったという風にさっと目を逸らし、何も答えなかった。これでは会話が終わってしまうと気がついて、ローガンは後を続けた。
「……ただ、その可能性は高いと思います。普通に考えて、正妻が愛人の子を好きになれますか?」
「高貴なお方でも、ですか?」
「関係ありませんよ。わたしの僅かながらの人生経験から申し上げても、関係ありません。それにドノヴァン嬢の話を覚えているでしょう? 王妃は人格者のように見えるが、本当は二重人格だと。……少なくとも十一年前は」
「わたしに優しくしてくださったのは『裏切る前の下準備』だったのだと考えるのが自然なのでしょうか?」
「残念ながら……」
ローガンは重々しく頷いて見せた。内心では、早く納得してくれればいいのにと願っていた。望みが薄いことは分かっていたが、早くシェイラが納得して気持ちを整理し、ひとまず王妃の件もメアリーの狂った母親の事も忘れて、今夜の舞踏会を楽しもうという気持ちになってくれればいいのにと、願わずにはいられなかった。大広間からの音楽が、まだここまで聞こえてくる。今ならまだ、ダンスが間に合うのである。




