第十章 第八節
しかし、レイチェルは注意深く記憶を探り、一つだけ望みがあったことを思い出した。
呪いの魔術は存在しないとした魔術師協同組合が、例外として、呪いの「効果あり」と認めた方法があったのだ。
それは古より魔術師界に伝わる方法で、それが解説された魔術書は他の魔術書と同様に、一般書の販売ルートからは入手できない。しかし、実際のところその方法というのは、魔術でもなんでもない。その気さえあれば誰でもできる技術なのである。
厳密には魔術ではない「呪いの魔術」の解説書は、「邪魔な相手を合法的に消す方法」というタイトルの本だった。レイチェルは実家の書斎からこの本を探し出した。期日の二週間目には王宮から迎えの馬車がやって来た。レイチェルは呪いの本とともに王宮に戻った。
後になって思えば、この二週間の隙に誰かに相談していれば、その後の苦しみはずっと軽かったのかもしれない。けれど、その時のレイチェルは思いもしなかった。王妃の恐ろしい依頼を断るどころか、なんとかしてこの仕事を成功させれば、自分の格が上がると考えていたのだから。あのフランシス妃に貸しを作れば、自分の王宮での立場はそれ以上になり、もう怖いものは何もなくなると、その時は本気で思っていたのである。
しかし拍子抜けしたことに、呪いの魔術の出番はすぐには来なかった。フランシス妃は自身の出産準備に忙しく、それどころではなかったのである。二週間ほどがたち、王妃は女の子を出産した。王宮の広場には王女の誕生を祝福する市民たちがその姿を一目見ようと押し寄せた。国王と共にバルコニーに現れたフランシス妃は赤ん坊を抱き、幸福そのものの笑顔で市民の歓声に応えた。
さらに一月ほどが経ち、産後の身体が回復する頃になると、フランシス妃はエミリアのことを思い出した。もちろん赤ん坊はまだ手が離せない時期なのだが、乳母が三人付いていたので、王妃は特にしなければならないことがあるわけでもなく、暇だったのである。彼女はレイチェルを呼び出し、呪いの魔術の件を尋ねた。レイチェルは説明した。
現実に効果がある呪いの魔術の正体とは、相手を精神的に追い詰め、最後には自殺させてしまう対人技術のことだった。想像していた魔術とは大分違ったようだけれど、フランシス妃は納得してくれた。それどころか、彼女は解説書を読むと、レイチェルが予想した以上の興味を示した。新しい遊びを思いついた子供のように、早くやってみたくてうずうずしているようだった。彼女はレイチェルの呪いの魔術に、全面的に協力すると言った。
解説書によると、魔術は死んでほしい相手に親切にして仲良くなり、完全に信頼させるところから始まる。幸いなことに、ここまでは既に完了していたから、次の段階から始めることにした。フランシス妃とレイチェルは解説書を精読して、その教えに従い、徐々にエミリアに冷たくし始めた。
レイチェルは、あらためてフランシス妃の才能に恐れ入った。そのいじめの巧妙な事と言ったら……! 解説書に例示があるとはいえ、レイチェルなどには思いつくことも出来ないやり方を、彼女は平気で、むしろ楽しんでやるのである。一方レイチェルは苦労した。当たり前だが女優ではないので、フランシス妃の考えた台本通りに動くときに、それが演技であるとばれるのではないかと、冷や冷やしてしまうのだ。どの魔術師よりも、王妃の方がよほど呪いの魔術が上手いに違いないと、レイチェルは心の中で何度も毒づいた。
最初は、エミリアが話したことを、わざと聞こえないふりをしたり、何かをした時にわざと溜息を漏らしたりするという、微妙なところから始める。次には、エミリアがちょっとした失敗をした時に、わざと苛立って見せる。次には、わざと失敗をするような用事をしなければならないように仕向けて、失敗させるという具合に、徐々に段階を上げて行く。急には進めない。フランシス妃は怒って険悪になったかと思えば、翌日にはご機嫌になり、昨日はごめんなさいなどと言って仲良しに戻る。そんなことを繰り返して、徐々にエミリアの精神を疲弊させ、自信を奪い、疑心暗鬼を生じさせていった。
やがて周囲の人間もフランシス妃がエミリアをいじめていることに気が付き始め、不思議な現象が起こった。呪いの魔術のことを知っているのは王妃とレイチェルだけなのに、まるで口裏を合わせているかのように、皆が競って王妃に同調したのだ。
こうなると、計画は雪崩をうつように進捗した。いじめはあっという間に苛烈になった。それも、解説書に言わせれば当然なのかもしれない。エミリアの環境は解説書が理想的とする条件を揃えていた。それは王宮から全く出ずに生活していたことや、相談できる本当の味方がいないことや、周囲から軽蔑されていたことや、性格が真面目な上に感受性が豊かだったことなどである。
国王陛下はこのころ王宮にあまりいず、いたとしても、王妃との寝室にもエミリアの部屋にも寄り付かなかった。公務が忙しいためだと本人も王妃も言っていたが、レイチェルは、正妻と愛人の仲が悪くなったのを察知して、面倒に巻き込まれないように逃げているのだろうと思っていた。
いつの間にか、王宮内でエミリアは娼婦ということにされていた。本人のいないところで、フランシス妃が徐々に嘘の噂を流したのである。昔からいる者はそれが真実ではないと分かっていたけれど、王妃の微妙な嘘を指摘したりはせず、新顔は奇妙に思いながらもそれを信じた。そしてエミリア本人も、抵抗しても無駄だと思ったのか、あまりにも自明な間違いを一生懸命に間違いであると主張することが屈辱的に思えたのか、理由は分からないが、誤解されるがまま放っていた。
レイチェルは、ターゲットの味方であるふりをする、という役どころを担っていた。フランシス妃や他の誰かが彼女をいじめている時には見て見ぬふりをするのだが、エミリアと二人きりになれば友達のような顔をして、助けてあげられないことを謝ったり、頑張れと励ましたりするのである。そして、相談を持ち掛けられれば、解説書の指南に従い、王妃様が冷たくされるのはあなたの態度に問題があるからだと言って叱責したり、王妃様のお慈悲で王宮に住まわせてもらっているのだからもっと感謝をして、尽くさなければならないと言って諭したりした。始めのうちは、エミリアはレイチェルの前で感情もあらわに泣きべそをかき、なぜこんなことになったのか分からない、などと心中を吐露していたが、次第にそれもなくなっていった。不信感を抱いているのだと思ったが、それすらも解説書の通りだった。レイチェルは味方のふりを継続し、エミリアも今までと同じのふりで、話し掛けられれば会話に応じた。けれど、レイチェルが何を言っても、エミリアの表情には笑顔はもちろん、何の感情も表れることはなくなった。




