第九章 第八節
「それよりも、さっきライアン侍従長に会って、あなたの学習のことでお話がありましたよ」
ローガンはそこで反応を窺おうと、話を止めてシェイラを見つめた。彼女ははたと無表情になってローガンの方を見た。
なんて美しいのだろう。ローガンはこの時、シェイラの姿の上に、それしか認識できなかった。初めて会った時の病的な印象は完全になくなった。相変わらず細く華奢だけれど、健康でしなやかな身体だ。日焼けが消えた肌は白く透き通り、深緑色の瞳が照り映えるようである。
話をするより、ずっと見ていたいという気持ちに、身体中が占領されていくのが分かった。今日の彼女は髪を下ろしていた。少しクセのある茶色の髪の、艶やかな毛先が首元に遊んでいる。髪の長い部分はさらに下へと波打って伸び、胸の膨らみを縁どるような形に巻いて垂れ下がっていた。
ローガンは立ち上がり、彼女が視界に入らないよう窓の方を見た。
「確かに、王宮に出入りすることは良い面もあるのだと思います。行儀作法という面で、あなたは以前より優美になられた。その、王妃に貰ったという服も、良く似合っておられます」
ローガンは顔に血が集まる感覚に襲われながら、そう言った。
「本当ですか? 嬉しい! 行儀作法は王妃様に何度も注意されたので、頑張って直したのです」
「ええ、ですから、全く王宮に行くなとは言いませんし、私にそんな権利はないのです。フランシス妃がなぜあなたを毎日呼ぶのかは、私の与り知らぬところです。あなたがなぜ、もっと早い時間に帰って来られないのかも、私には分からない。そして、それをあなたに問い詰めることに意味はないという気がするのです」
シェイラは何も応えなかった。
ローガンはまた長椅子に座り、彼女を見た。自分でも挙動不審だと思ったが、背を向けて話し続けるわけにはいかなかった。大事な話なのである。
「あなたが本当に、王宮にいるのが楽しくて、自分の意志でそこにいるのなら、私がとやかく言う問題ではないのでしょうね。ライアン侍従長ならともかく、私は何も言えないでしょう。けれどもし、あなたが本当は帰りたいのに帰れない事情があるのなら、ぜひ私に相談してほしいのです。あなたは、帰りが遅いのは自分が悪いからだと言ったけれど、もしそれが、誰かが何か言うから、とか、誰かが何かするから、とかいう理由のためにそうなっているのなら、それも含めて私に教えてください。『お前は何も出来ないだろ』って思うかもしれないけど、一緒に対処法を考えるぐらいは出来ますから」
シェイラは不思議そうな顔をしていたが、しばらく考えた後にこう言った。
「あの……、ナイトリー先生はライアン様に何か言われたのですか? ライアン様はわたしの帰りが遅いことをご存じなのでしょうか」
ローガンはなんだか悲しい気分になった。
「ええ、そのことはご存知ですし、実は、門限を設けようかと考えておいでです」
「門限!」
シェイラが頓狂な声を上げた。
「まだ検討しているだけです。これからも帰りが遅いようなら……、ということです」
「門限って、何時なのでしょうか? 十時とか? まさか、六時なんてことになったらどうしましょう!」
「何時なのかは、まだわかりません。というより……」
結局のところ、あなたは早く帰ろうという気はないのですね。そう出かけた言葉を飲み込んで、ローガンは少女の瞳を覗き込んだ。シェイラは居心地が悪そうに表情を硬くしている。気まずいと思っているようでもあるし、次に何を言われるかと怯えているようでもある。知りたいという想いに任せて問い詰めたら、傷つけてしまうだけに終わるとバカでも判る状況だと、ローガンは思った。
するとなぜか、自分が認めたくなかっただけなのだ、という考えが閃いて、急に全て理解したような気持ちになった。ライアン侍従長が正しいのだ。シェイラは王宮の享楽に毒されてしまったというだけのことなのだ。そう思うと、ローガンは悲しいけれど、清々した気分になった。
「王宮は、楽しいですか?」
一呼吸入れてから、ローガンは出来る限り明るい声でそう言った。
「はい……最初は色々と不安で、怖かったりもしたのですけど、皆さん優しく接してくださるので、少しは慣れることが出来ました」
「王宮に少しは慣れたのですね、それは良かった。よく考えれば、あなたはもともと王宮生まれだから、本来の場所に戻っただけとも言えますね」
シェイラは激しくかぶりを振った。
「いいえ、いいえ違います。このライアン様のお屋敷もそうなのですけれど、王宮や王妃様のお部屋はそれ以上に、本当に美しくて、人も物もこの世の美しさを全部集めたような世界です。わたしがこれまでいた所とは、全然違うのです。わたしは小さい時に王宮にいた頃のことは、ほとんど覚えていません」
「そうですね。私も自分は貧乏だけど、こうして家庭教師をしたりして上流階級の世界を覗いているから分かります。あなたは急激に環境が変わって、上流階級の世界を知って、驚かれることが多かったでしょう?」
「ええ、本当に。驚くも何も、全く別世界なのです。信じられないことに、メレノイから出ていないのですよ! 同じメレノイの中に、私が住んでいた場所と空間が繋がっている所に、全くの別世界があったのです! わたし、今でもこれが現実のことと思えないのです」
作文練習も読書量もまだまだ不十分なのに、表現豊かに伝えようとしてくれるのだなと、ローガンは思わず微笑した。シェイラは存外深刻な顔つきだった。




