第九章 第四節
ローガンはこの日を境にシェイラと王宮の関わりも終わるだろうと思っていたが、そうはならなかった。この日の午後、シェイラは再び王妃のサロンに呼び出された。王妃はライアン侍従長が言うとおりに、午前中はシェイラを呼ばないことにしたらしい。翌朝、シェイラはとても嬉しそうに、こう報告した。
「ナイトリー先生、王妃様は昨日、わたしが勉強することに賛成してくださいました!」
そもそも反対する権利が王妃にあるのかと、ローガンはまた首を傾げそうになったが、ここは細かいことは気にせずに、シェイラの話に付き合うことにした。
「それは良かったですね」
そう言って微笑むと、シェイラは眩しいくらいの笑顔を見せて、こう言った。
「王妃様は身分の低い者が教育を受けることに反対ではないそうです。そういったことに反対する人たちもいるそうなのですけど、王妃様は反対ではないと仰っていました。本当に良かったです!」
ローガンは苦笑いしてしまったが、シェイラの喜びには一点の曇りもないようだった。メアリーは、王妃が犬猿の仲であるライアン侍従長の言ったことにあっさり従うのは意外だと話していた。期待した一悶着がなくてガッカリしたのだろう。ちなみに、その日も午後から王宮に呼ばれているとのことだった。
この時点で嫌な予感はしていたが、事態は案の定、困った方向に進んだ。その日から毎日、王妃は午後からシェイラを呼び出したのだ。シェイラは授業中は以前と変わらず熱心に取り組んでいたが、目に見えて宿題の完成度が下がってしまった。午後から夜にかけて外出しているせいで、宿題をする時間が取れないのだと想像できた。
学校に通わなかった時間を取り戻すために、その何倍もの速さで進めている上、進むにつれて難しくなり、覚えることは山のようにある。宿題なしでは成り立たない。量を抑えることは出来ればしたくなかった。
シェイラは宿題が不出来なことを自覚していて、授業中にそれが露見した時には、罪悪感でいっぱいというような顔をして弱々しく謝った。
このままではシェイラに負担をかけてしまう。ローガンは理不尽ではあったが、宿題を減らすことにした。翌日は、宿題は完成するものの、シェイラはとても疲れているようだった。
ローガンが算数の文章問題を分かりやすく説明しようと、図を描くのに一生懸命になっていると、不意に隣でバタという音がした。さっきまで説明を聞いていたシェイラが、机に突っ伏して眠っていた。
ローガンはあっけにとられ、そして少し笑いそうになりながら、とりあえずメアリーの方を振り向いた。すると、メアリーも壁際の長椅子で背もたれに仰向けに寄り掛りながら、どうやら眠っているのである。ローガンは音を立てないように注意しながら立ち上がり、忍び足でメアリーに近づいた。メアリーは気配を感じたのか、はっと目を覚ました。そしてローガンが見つめているのに気が付くと、悪びれる様子もなく、
「どうしました?」
と訊いた。
ローガンは彼女に近づき、小さな声で、
「シェイラ様が寝ています」
と言った。
メアリーはローガンの横から顔を出して、それを確認した。
「昨日、帰るのが遅かったからですわ」
「何時ですか?」
「十二時ぐらいと言ってましたわ」
「十二時? 夜の十二時ですよね? どうしてそんなに遅いのですか!」
ローガンの語気が強かったので、メアリーは少し気圧された感じになり、しかしすぐに突き放すように言った。
「知りませんわ! 私は王宮まで付き添って行くだけで、部屋には入れて貰えないし。それに昨日は十時で帰りましたから」
「え、ちょっと待ってください。シェイラ様をおいて、あなただけ十時で帰ったというのですか?」
「そうですよ。昨日は実家に帰る日ですから」
メアリーはぐいと胸を張ってそう言った。
ローガンは何か言おうと口を開けたが言葉を迷ってしまい、そのままただ首を横に振った。
「だって、私がいたってしょうがないじゃないですか。どうせシェイラ様と一緒にはいれないのです。職員の事務所で知り合いと喋ったりして、時間を潰しているだけなんですよ!」
メアリーは立ち上がりながらそう言った。
「分かりました。ではシェイラ様が王妃の部屋で何をしていて、そんなに遅くなるのかは分からないのですね」
ローガンは努めて落ち着いた調子で話した。
「詳しくは分かりませんけど、最近は刺繍をしているらしいです」
「ししゅう……」
「刺繍です」
メアリーは、ピンと来ない顔をしているローガンに針を動かす仕草をして見せて、こう続けた。
「フランシス妃はけっこう好きみたいですよ」
「刺繍ですか。そんなことで夜中の十二時まで?」
「よく分かりませんわ。……と、言うより本人に訊いてみれば宜しいのでは?」
メアリーがいつもの調子を取り戻して、からかうように言った。
「ええ、そうしましょう、彼女が起きたら」
シェイラは机に突っ伏したまま寝息を立てている。それを見つめているローガンを見て、メアリーが溜息をついた。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。先生は王宮を伏魔殿のように思ってらっしゃるようだけど、慣れてしまえばどうってことないし、シェイラ様のことはライアン家の馬車が何時まででも待っていて、最後はちゃんとお乗せして、ここへ帰ってくるのですから」
メアリーはまた長椅子に座り、ローガンもその隣に腰を下ろした。
「確かに、わたしは平均よりも心配性な方ですが、油断していると悪いことが起きるものなので……」
はは、と、メアリーが力なく笑った。メアリーの方も疲れているように感じていたローガンは、何とはなしに尋ねた。
「お母様の調子はどうですか? 実家と行ったり来たりするのも大変ですよね」
「え、私の母ですか?」
メアリーは意外そうな顔をして、なぜか自嘲するような調子でケラケラと笑った。ローガンは意味が分からなかったが、その表情からはかつてなくハッキリと疲労が読み取れた。
「お気遣いありがとうございます、神官様! 調子が良いとは言えませんが、大丈夫ですわ!」
いつもの明るく魅力的な声音で、メアリーがそう言った。その明るさが、ローガンをそれ以上訊いてはいけないという気にさせた。折よく廊下からお茶が運ばれる気配がして、メアリーはすぐに手伝いに出て行った。




