第二章 第二節
シェイラは顔を上げて、横目で彼を見ながら言った。
「先生は……、先生は……もしかして一人なのですか? 家族はいらっしゃらないのですか?」
ローガンはすぐさま答えた。
「そうですよ。十二歳で奴隷に売られて以来、家族はいません。今もずっと一人暮らしです」
むしろ明るいぐらいの調子で言ったのだが、その時、シェイラの表情が曇った。すでにやつれて痛ましい少女が、さらに痛ましそうな顔をして、かすれた声で言った。
「では、わたしと同じです。わたしも母が亡くなって、他に家族もいなくて、一人になってしまったのです」
「そうですね。あなたにはお父上が生きているけれど……、まあ同じようなものかもしれません」
「ずっと一人で寂しくはないですか?」
これには、返答に詰まってしまった。予想していない問いだった。
「もう慣れました」
「慣れたら寂しくなくなるものですか?」
ローガンは、彼女が何故そんなことを聞くのかがようやく見えてきた。
「あなたも慣れますよ。いつかね」
これには、彼女は答えなかった。
シェイラがまた黙って俯いてしまったので、ローガンは自分の返答の拙さに頭を抱えたくなった。けれど言ってしまったものはもう戻しようがなかった。
「私は奴隷出身で身分が低いし、今もとても貧乏なんです。お金がなくて、家族もいなくて一人ぼっちですが、なんとか今まで生きてきました。あなたも必ず、なんとかなりますよ」
少しでも元気づけることが出来るかもしれないと思い、ローガンは明るくそう言った。シェイラは俯いたまま、何度か頷いた。
それから話題を変えて、今後どういう勉強が必要かという事などを話していると、時計が正午を打ち、最初の授業を終えることとなった。挨拶をしていると、壁際に控えていたメアリーがやってきた。
メアリーはローガンを、ライアン家の執事の部屋へ案内すると言った。二人で部屋を出ていくときに、シェイラは立ち上がり深々とお辞儀をして見送っていた。
ローガンはメアリーに訊きたいことがあったので、屋敷の中を歩いて執事の部屋に着くまでに質問しなければと意気込んでいた。しかし歩き始めると、すぐにメアリーの方から話しかけてきた。
「どうでした? 驚かれたんじゃないですか?」
何に対して、とローガンは思った。
「ええ、驚きました」
とりあえずそう答えると、メアリーは続けた。
「そうですよね。わたしも最初は驚きました。国王陛下の姫君が、妾腹とはいえですよ、まさか学校にも行けないような生活をしていたなんて、驚きますよね。しかも田舎ではなくて、王宮があるメレノイで、ですよ」
ローガンはメアリーの無防備さに驚いた。この屋敷に初めて来たローガンと違って彼女は慣れているからなのだろうが、それにしても本人と別れて一分と経っていない内にこのような噂話を始めるとは、軽率すぎないかと思った。
「確かに驚きましたが、私が今日驚いたのは別のことですよ。フォースター嬢は酷く衰弱しているように見えましたが、大丈夫なのですか? すごく痩せているし、顔色も悪い。食事はちゃんと食べているのですか? 医者には診させましたか?」
矢継ぎ早に質問したので、メアリーは少し面食らったようだった。
「あれで大丈夫みたいですよ。ずっとあんな調子ですもの。食事も食べていますし。まあ、少しですけど。お母様が亡くなられて、よほどショックだったのでしょう。もう三か月経ちますけど、まだ落ち込んでいるのでしょうね。もともと暗い性格なのかもしれませんが。けれど、普段はもう少しお話しなさいますよ。今日は緊張されていたのでしょう」
「普段はもっと話されるのですか? それは良かった。……けれどやはり、私は健康面が心配です。あの痩せ方と顔色の悪さは本当に大丈夫なのでしょうか。正直言って勉強などできるような体調に見えないのですが。もう暫く静養なさった方が良いのじゃないかと思いましたよ」
「勉強を始めることは侍従長殿が決めたことですから。けれど、そんなに身体が悪そうに見えましたか? わたしにはそこまで悪いようには見えないのですけど。ずっと一緒にいるせいで慣れてしまって、分からなくなっているのかもしれませんね」
「きっとそうですよ」
ローガンがきっぱりと言うと、メアリーは返事に困ったようで、黙ってしまった。ローガンはしまったと思い、こう切り出した。
「バラノフさんはフォースター嬢といつも一緒にいるのですか? もともとこのお屋敷にお勤めだったのですか?」
メアリーはライアン家の使用人のお仕着せを着ていなかったので、ローガンは疑問に思っていた。案の定、彼女は使用人ではなく、元は王宮で働いていたということだった。ライアン侍従長を長とする、王宮で消費する物品を管理する部門にいたということだから、王宮で給仕や洗濯をしていたわけではなさそうだ。それが突然、ライアン侍従長に呼び出され、シェイラの事情を教えられて、彼女の身の回りの世話や話し相手をして欲しいと命じられた。それからライアン邸に半ば住み込みで仕事にあたっている。シェイラの部屋の隣に寝室を与えられて、週の半分はそこに泊まり、あとの半分は夜中に実家に帰る。ライアン邸にいる間は、寝る時を除いてほとんどシェイラから離れることはないという。
ローガンは、メアリーが一日中シェイラと一緒にいて、何をして過ごし、どんな会話をしているのかが気になった。
「それだけずっと一緒にいたら、フォースター嬢とも親しくなれますね?」
そう尋ねると、メアリーは苦笑いして答えた。
「どうでしょうか。そうだといいのですけれど」
二人は階段を降り、中庭に面した廊下を歩いていた。中庭は樹木で視界が邪魔されるものの、部分的に向こう側まで見通すことが出来て、反対側の廊下を身なりの良い少女が二人と、幼児の男の子が連れ立って歩いてくるのが見えた。一行はこちらを見ていて、ローガンは一番背の高い少女と一瞬目が合ったような気がしたが、三人は何をするでもなく廊下の角を曲がり、向こうへ行ってしまった。ローガンはライアン侍従長の話に、彼の娘が登場したことを思い出した。
「ライアン侍従長のお嬢様とお坊ちゃまですわ。あちらの棟は侍従長のご家族の住居です。こちらの棟とは、一階は廊下が繋がっていますけど、別の建物なのです」
メアリーがそう説明してくれた。
二人は執事の部屋に到着し、メアリーとはここで別れた。執事のゴードン氏と契約書を取り交わしたのち、ローガンは別の使用人に案内されて、ライアン邸を後にした。