第五章 第一節 ライアン家の子供たち
翌朝、ローガンは思いのほか清々しい気持ちでライアン邸を訪れていた。昨日は散々落ち込み、悩んだが、その結果彼は、根本的に考え方を改めることに決めた。
シェイラに元気になって欲しいなんて、望むことがそもそも間違っている。
若くして母親を亡くす悲しみは本人にしか解らない。ローガンは実の母親とは奴隷に売られた時に生き別れており、今はどうしているか知らない。彼女と同じ経験はしていないから、所詮解らないことなのだ。悲しみは一生癒えないかもしれないし、そうではないかもしれない。それを、三か月経ったからとか、一年経ったからとか勝手な理由を付けられて、そろそろちょっとくらい元気になって欲しいだなどと他人に望まれるのは、迷惑千万な話だろう。
そう考えると、シェイラの暗い顔を目の当たりにしても、気持ちの余裕が昨日までとは違った。ローガンは心の中で、彼女に優しく語りかけた。
(シェイラ、あなたは気の済むまで好きなだけ悲しんでいいのです)
ローガンは、メアリーがシェイラを元気づけるのに協力的でない気がして、彼女のことを薄情とも無神経とも感じていたが、それは単に彼女の方がシェイラと出会うのが早かった分、この境地に至る時期も早かったというだけのことなのかもしれない。そう思うと、メアリーに対して申し訳ない気持ちになった。
そして、特に何事もなく三日間が過ぎた。ローガンは、油断をするとすぐにシェイラを励まそうと努力してしまっている自分に、幾度も気付かされた。そういう時、彼は「他人に何かを望むな」と自分に言い聞かせて、自らの言動を改めるのだった。
金曜日になった。ローガンがいつものようにライアン邸に着くと、玄関ホールに入るなり、待ち構えていたようにメアリーが飛び出してきた。
「ナイトリー先生、ご相談したいことがあります」
メアリーは神妙な顔つきで、ローガンを廊下の突き当りまで引っ張っていった。さらに、周囲に人がいないことを念入りに確認してから、こう切り出した。
「昨夜、ちょっとした事件があったのです」
メアリーのただならぬ様子に、ローガンはすでに鼓動が速くなっていた。メアリーは続けた。
「わたしは木曜日の晩は、普段なら実家に帰るのですが、昨日はたまたまここにいました。母が病気で、雇っている看護人と夜の看護を日替わりでしていて、そのために実家に帰るという話は以前しましたよね。木曜日はわたしの当番なんですけど、看護人が今週だけ曜日を替わって欲しいというので、金曜日と交代したのです。それで昨日の夜はシェイラ様と一緒に部屋にいました」
メアリーの話は次のように続いた。
昨夜十時ごろ、シェイラは部屋で勉強をし、メアリーは同じ部屋で本を読んでいた。
シェイラの部屋とその隣のメアリーの部屋は、本来は来客用で、夜になるととても静かだった。同じ棟の同じ階には来客用の部屋しかなく、今は誰も使っていない。ライアン家の家族の部屋は別の棟にあり、もちろん使用人部屋も別の棟である。一階は応接室と、催しの時に使う広間しかなく、三階も空き部屋らしい。別の棟にいる誰かがたてる大声や笑い声が、時々遠くから聞こえてくることや、表の通りを馬車が通ることもあったが、それも頻繁ではない。
二人は無言でそれぞれの作業に集中していた。聞こえるのは、シェイラが石盤に石筆を走らせる音と、メアリーが頁を捲る音だけだった。
そこへ廊下の向こうから、何人かの若い女性が、きゃあきゃあと騒ぐ声が聞こえた。じゃれ合うような足音と、笑いながら何かを話す声が、だんだん近づいてくる。
メアリーは驚いて顔を上げ、シェイラを見た。シェイラは石筆を持つ手がぴたりと止まってはいたが、メアリーを見ようとはせず、全く動かなかった。その様子は、彼女がこれから起こることを既に知っているということを、示しているようだった。
メアリーは扉の向こうに耳を澄ませた。最初は若い女中が騒いでいるのかと思ったが、声をよく聞くとそうではなかった。まだ確信はなかったが、どうやらそれはライアン侍従長の三人の子供たち、十四歳の長女シャーロット、十二歳の次女ルーシー、そして五歳の長男ジョージのようだった。笑い声と足音はシェイラの部屋の前まで来て止まり、静かになった。
メアリーは慌てた。ライアン家の子女を部屋に迎える準備など何もしていない。本を閉じて立ち上がったものの、咄嗟にどうしていいか分からず立ち尽くしながら、彼女たちがそのまま廊下を通り過ぎて行けばいいのに、と祈った。
「フォースターさん、シェイラ・フォースターさん、起きていらっしゃるかしら?」
長女シャーロットが、扉に向かって声を張り上げた。同時に、次女ルーシーと幼いジョージが我慢できないといったように吹き出して笑い始める。
「私たちが書いた手紙、読んでくれたかしら? 読んでないよね……。私たち、あなたが字を読めないって、知らなかったの」
いつの間にお嬢様たちからシェイラに手紙が来ていたのか、メアリーには全く分からなかった。そこで、メアリーは気が付いた。お嬢様たちは、今シェイラが一人でいると思っているのかもしれない。このような無礼な行いは、子供しかいないと思っているから出来ることなのだ。
メアリーは知らず知らず息をひそめ、物音を立てないように身体を強張らせた。自分がいない夜に、シェイラの部屋で何が起きるのかを見届けなければならない。
「ほんとにいるの?」
今度はルーシーの声である。
「いるわよ。返事をしないだけ」
シャーロットがきつい調子で妹に答えた。
「いるよ! ランプがついてるもん! なか、すっごく明るいよ!」
五歳のジョージが得意げに叫んだ。どうやら扉の隙間から中を覗き込んでいるらしい。
シャーロットは続けた。
「手紙を出してもあなたが何もしないから、なんて恥知らずなんだろうって驚いたけど、そうじゃなかったのよね。あなたは字が読めなくて、何て書いてあるか分からなかっただけなのよね。仕方がないから、今日は直接伝えに来たの。手紙に書いてあったのはね、要するに出て行って欲しいということなの」
そこで、シャーロットは一旦言葉を切った。室内の様子を窺うかのように、三人は無言になった。
「ねえ、寝てるんじゃない? ほんとに聞いてるの? 返事ぐらいしろっての」
暫くしてルーシーが不満そうに言った。
シェイラはいつの間にか立っていて、扉を凝視しながら両手を握りしめていた。息が詰まったかのように、顔が引きつっている。返事をしないと責められたが、したくても怒りのためか、それとも恐怖のあまりか、声が出ないようだった。




