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Blue scent  作者: uka
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 中間考査を終えた六月。

 その日は梅雨らしく朝からしとしとと憂鬱な雨が降り続いていて、放課後になってもその雨脚は衰えることなく、灰色の雲が暗い影を街に落としていた。

 いつもならグラウンドから響いてくる運動部の掛け声が体育館や廊下から聞こえてくる。教室棟の一年の廊下では今頃野球部辺りが筋トレに励んでいる頃だろう。そんな情景を思い浮かべながらあたしは渡り廊下を横断し、実習棟の美術室へと向かう。

 ここ最近は放課後には美術室に顔を出すようにしている。あたしをモデルにした絵を完成させるのだと彼女が張り切っているのだ。

 あたしが美術室の扉を開けると彼女は既にいつもの席に腰かけ、お茶を淹れているところだった。

 机のわきには邪魔にならないように絵の道具もしっかりと準備されている。


「相変わらず早いね」

「時間は有限だからね、一秒たりとも無駄に出来ないわ」


 そう言って笑う彼女の対面で荷物を降ろして椅子に座る。

 初めての時のように硬くなることもなく自然に彼女と向き合うと、暖かい紅茶が注がれたカップがあたしの前に差し出される。それを口に含みながら、ふと疑問に思った事を口に出す。


「そういえば、結構時間に敏感だよね」

「そう?」


 気のない返事をしながら彼女は手に筆を持つ。あたしをモデルにした絵は今はもう塗りの段階に入っている。

 彼女の作業風景を眺めながらあたしはさらに続けた。


「うん、この前も時は金なり、とかいってたし、事ある毎に走るし。でもその割りにあんまり時計は見ないね」


 時間に厳しい、というようりは何かに急かされている。と言うほうが正しい気がする。たんにせっかちなだけなのだろうか。


「んー、まぁ時間を有効に使いたいとは思ってるかな。やりたい事もいっぱいあるし、予定は常にいっぱいだし」


 彼女のいう通り、彼女が暇を持て余すところというのは見た事がない。大体いつも何かをしているように思う。例外があるとすれば待ち合わせの時の待ち時間くらいのものだろうか。


「急がば回れ、急いては事を仕損じる」

「善は急げ、巧遅は拙速に如かず。昔の人の格言も大事だけどね、彼等だって一枚岩じゃないし、私はその中から私にもっとも相応しいと思う言葉を選びたいな」


 そんな風にお喋りをしながらも作業の手をまったく止めない彼女のその姿は言葉以上に雄弁にその思想を物語っていた。その一貫して揺るぐことのないしっかりとした彼女の姿を羨ましいと思う。


「そういえば君、もう衣替えしたんだね、今日はまだちょっと肌寒くない?」

「忘れないうちに替えとかないと完全以降したあともそのままにしちゃいそうだからさ、まぁでも今日は確かにちょっと寒いね」


 今日から夏服への移行期間となり、あたしは早速半袖へと着替えてきたわけなのだけれど、朝から降り続ける雨のお陰で正直少し寒い。春の頃から変わらない彼女の長袖のカッターが恋しい。


「でもいいなぁ半袖」

「そう? 明日から着て来たら?」

「私、肌が弱いから出来るだけ露出は避けたいの。毎年夏になっても長袖で結構まいるんだよね」

「ああ、だからそんなに肌が白いの。羨ましいけど熱いのはごめんだな」


 意識して彼女の姿を見れば、確かに極端に肌の出ている部分が少ない。髪の毛は長いし、長袖のカッターで手首まですっぽりだし、スカートの長さも標準で、その上ソックスは太股まで覆うサイハイソックスだ。夏服の生地は冬服より薄いとはいえこの格好で夏を過ごすのは中々にしんどそうだ。


「ほんとにね。夏休み様々だよ」

「そういえば、あと一ヶ月ちょっとで夏休みか」


 学校嫌いのあたしとしては毎年この季節は待ちに待った待望のオフシーズンだというのに、なぜだか今年は余り嬉しいと思わない。ただなんとなく、今年も夏が来るのだなと、むしろ残念に思うくらいだ。


「夏休みになったら瀬名君と黒尾君も呼んでどこかに行きたいね。夏休みに誰かと出かける事ってなかったから楽しみだよ」


 たしかにそれはとても楽しそうだ。海や、山や、レジャー施設、買い物に出かけたり、課題を持ち寄って片付けたり。そんな他愛のない事でも彼女が加わればお話の世界みたいにきっと色付いて特別な日々に変わっていくことだろう。


「そうだね。一心は部活が本番だからあまり遊べないかもしれないけど」

「皆で応援にいくのもいいかも。瀬名君に甲子園につれてって、って言ったら勝ってくれるかな」

「言わなくても多分そのつもりなんじゃない」


 そんな軽口を叩いて、笑いあっているうちに時間は過ぎていく。




 それから三日後の放課後に、あたしをモデルにした絵は完成した。

 同じように雨の振る梅雨らしいじめっとした空気の日で、あたしはまた半袖で、彼女は相変わらずの長袖で、まるであの日の放課後から直接繋がった地続きの時間のような、そんな放課後だった。


「完成、かな」


 そう言って彼女が筆を置いた。これといった達成感もなく、呟くような声で、あたしもそれに習うようにこれといった特別な感情を抱くでもなく手にしていたカップをソーサーへと戻して労いの言葉をかける。


「お疲れ様」

「そんなに疲れてはいないけどね、うん、出来はいいと思うよ」

「見せてもらってもいい?」

「どうぞ」


 もしかしたらダメといわれるかもしれないと思っていたのだけど彼女はすんなりと快諾してくれた。

 描いている途中は一度も見せてくれなかったものだから、どんな絵に仕上がっているのか想像も付かない。

 席を立って彼女の後ろへと回り込んで絵を覗きこむ。

 そこに描かれていたのは、確かにあたしだけれど、あたしではなかった。

 寂れて朽ちかけ、植物に侵食されたビルの瓦礫にあたしによく似た少女が腰かけている。そんな絵だった。

 退廃的な雰囲気を出しながらも各所に咲いた花や空の青、崩れ去った文明の欠片が絵全体を明るく彩っている。その絵の中心にあたしによく似た少女がいるというのがなんともくすぐったくて恥ずかしい気がする。


「人物画を描くんじゃなかったの?」

「私にとっては人物画だよ。その背景もあわせて、私が君に対して抱いているイメージだから」


 そんなものなのだろうか。というかこの退廃して朽ちた街があたしのイメージというのは、いくら綺麗な絵であるにせよ素直に喜べないような。

 とはいえ、とても綺麗で見ていて飽きない絵であるのは間違いない。素直に凄いなとそんな感想が出てくるばかりで上手い賛辞の言葉一つ思い浮かばない。だから、感じるままに語る。


「うん、でも凄く綺麗でいい絵だと思う。あたしにはとても真似出来そうにない」

「ありがとう。描いた甲斐があったよ」


 褒められて、素直にはにかむように笑う彼女は、歳よりも幼く見える。そんな彼女がこんな絵を描けるというのだから、本当に神様は不公平だ。不満の一つでも漏らしたくなる。


「いいな、才能がある人は」

「君も描いてみればいいよ」

「あたしには無理無理、こういうの不得意だもの」

「別に写実的に描く必要はないよ。絵ってのは自由だからね」


 そう言って彼女は携帯を取り出して、一枚の画像をあたしに突きつけた。

 ぱっと見六色くらいの絵の具で適当に四角や線を引いただけに見えるシンプルな一枚の絵が映っている。


「なにこれ?」

「マーク・ロスコのホワイト・センターっていう作品」

「これがどうかしたの?」

「なんとこの絵、五十九億円の値が付いたの」

「これが?」


 とてもそんな価値があるものとは思えない。何も知らずにこの絵を見せられたら子供の落書きと思ってしまうだろう。失礼な事を思っている自覚はあるけど、いや、だってさ。


「この一枚に確かに色んな意味が込められたりしてるんだろうけどさ、見る人にはそんなのわからないし、想像するしかない。時には大げさに拡大解釈して、勝手に凄い作品になっちゃったりするかもしれない。結局絵ってそんなものだよ。君が思ってるほど、高尚なものじゃない。才能の有無なんて他人が決めるもの。自分で分かるのはそれが好きか嫌いかだけ。それにしたって触れてみないとわからないわけで、試しにやってみたら?」


 そう言って彼女はあたしにスケッチブックと鉛筆を差し出す。

 でも、あたしはそれを受け取らずに首を振った。


「そういうのは技術があるからこそ、でしょ。ずぶの素人が適当に描いたからってそんな拡大解釈なんかもされないしただの落書きだよ」


 あたしがそう言うと、彼女は手を下ろしてため息をついた。


「嫌だっていうなら無理にとは言わないけどね。それなら、写真とか撮ってみる気ない?」

「写真?」

「うん、君がいう通り写実的な絵とかはたしかに技術がなければ描けないけど、写真はシャッターを押すだけで撮りたいと思ったものを確実に残せる。まぁ細かいところを突き詰めていけば技術とかは必要になってくるけど。少なくとも君が思う絵よりはお手軽なんじゃないかな」


 確かに今時携帯やデジカメなんかで誰でも写真を撮ってブログにアップしたりしている。絵を描くよりは随分と身近で、あたしにも出来そうな気はする。


「とりあえず何でもいいから始めてみなよ。気に入ったら続ければいいし、気に入らなければやめればいい。自分で続けられると思ったものを見つけてから、才能なんてものについては考えればいいんじゃないかな」


 そう言って彼女は鞄から一台の小さなデジカメを取り出してあたしに差し出した。銀色のボディで手のひらに乗るくらいの、シンプルなデザイン。


「これは?」

「普段は風景画とか描く時に使ってるデジカメ。よかったら貸してあげる」

「いや、でも」


 いかにも高そうだし、これがないと彼女だって絵を描く時に困るのではないだろうか。それに写真を撮るだけなら別にあたしの携帯で事足りる。


「こういうのは形から入ったほうがいいと思うから」

「携帯でも写真は撮れるし、それに、借りる理由がないし」


 そう言うと彼女はため息を吐いてカメラを机の上に置いて腕を組んだ。

 そうして眼を閉じて何かを悩むようなそぶりを見せてから数秒、閉じていた眼と口を開いて喋り出す。


「何を撮りたいか、とかはもうイメージ出来てる?」

「特には……」

「なら、私が絵を描くのに使えそうな風景写真とか撮ってくれないかな。その変わりにこのデジカメを貸すからさ」


 彼女はいい考えだとでもいうようにしきりに頷いている。

 どうして?

 そう尋ねたくなる。

 どうして、あたしのなんてことない愚痴にこんなに親身になってくれるのだろう。

 どうして、毎日そんなに楽しそうなんだろう。

 どうして、貴方はそんなに優しいのだろう。

 あたしは貴方にしてあげられる事なんてないのに。

 あたしは一心や幸助のおまけでしかないのに。


「どうして?」


 色んな感情のこもったその一言が、気づかぬ間に漏れ出していた。

 彼女からすれば何の脈絡もない、唐突で意味の分からない言葉のはずなのに。


「友達だから、だよ」


 彼女はあたしの意思を汲み取ってそう答えた。

 胸にこみ上げてくるこの感情は一体なんだろう。

 暖かいような、それでいて締め付けられるような、満たされるようなこの気持ちは。

 熱に浮かされているときのような不思議な高揚感。鼓動が早くなっていくその感覚は、なぜだかあのよく分からない苛立ちに似た感情と瓜二つで、でも決して嫌な気分ではない。


「わかった、ありがたく借りさせてもらうよ」

「どういたしまして」


 彼女は笑う。

 いつものように、まるで綺麗な花のように、明るく。


「ちなみに使い方とか分かる?」


 首を横に振る。

 授業で古い型のものを使った事はあったけれど今やその記憶すら危うい。

 あたしあそのあと彼女からデジカメの使い方のレクチャーを受けてその方法を覚えた。


「試しに撮ってみてもいいかな?」

「いいよ、いつでも」


 こちらに向けて大きくピースする彼女と、その隣、彼女の描き上げたあたしの絵をファインダーに収めて、あたしはシャッターを押しこむ。

 すぐに彼女が駆け寄ってきて今しがた取ったばかりのデータを確認する。

 画面の中に切り取られた一瞬。

 薄暗い美術室の中、彼女の満面の笑顔と一枚の絵。


「うん、綺麗に撮れてる」


 彼女の言葉に小さく頷く。

 初めての一枚にしてはなかなかいい出来だと自分で思う。

 それはきっと被写体がいいからなのだろうけど。


「暫く続けてみる?」

「うん、もう暫く貸して貰えるかなこのカメラ」

「もちろん。遠慮しないでどんどん使って」


 また、彼女が笑う、その姿を写真に収めたいと思う。

 だけどその瞬間は僅か一瞬で、彼女はくるりと振り返ってしまう。

 シャッターチャンスを逃した事に肩を落とす。

 写真を撮るということを楽しみ始めているのは間違いない。

 この熱がいつまで続くのは分からないけれど。

 あたしは、大切な何かを見つけた気がしていた。

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