5
翌日、あたしは朝からサボることなく授業に顔をだしていた。といっても真面目に内容を聞いているかというとまったくもって怪しい。ただただ頭に浮かぶののは昨日の事ばかりで、窓から見える空を眺めてはそこに昨日の記憶を映し出すかのように何度も何度も思い描いていた。
一心と彼女は付き合うのだろうか。
二人並べばきっと素敵なカップルになるだろうと思っていたのに、なぜだか今日は二人が並んでいる姿を想像すると、なんだかよくわからない、言葉に出来ない苛立ちににた不安のようなものが沸いてきた。
彼女の笑顔を、彼女の言葉を、彼女が見せてくれた世界の切れ端を、思い出すたびにその言葉にならない感情は大きくなっていく気がして、叫び出したいようなそんな気分になっていた。
午前中の四教科が終わる頃にはもう学校にいるのも嫌になってあたしは帰る準備を始めていた、そんなあたしの行動をクラスメイトは遠巻きに眺めながらどこか安心したような表情で眺めているのが余計に気分を悪くさせる。
普段なら絶対にやらないけど、八つ当たり気味に教室の扉を閉めてやる。大きな音がして自分でもちょっとだけびっくりする。
またこれで悪評が流れるんだろうな、どうでもいいけどさ。
授業中とは比べ物にならないほど煩い廊下を足はやに歩く。周りの視線が遠慮気味にこちらに向けられているのが分かる。苛立ちは募るばかりだ。
早く帰ってしまおうと下足場にたどり着いたところで、後ろから手首を掴まれて一体誰だろうと振り返る。
視線の先には走ってきたのか、赤い顔で息を切らした幸助がそこにいた。
「帰るの?」
「うん」
「せっかく午前中出てたんだし、午後も授業受けていけばいいのに」
「気分じゃないの」
幸助の手を振り解こうとしても、その手は離れない。思った以上に幸助の力が強い。昔はあたしのほうが力が強かったのに。
「いったい何があったのさ」
「何が」
「あんなこれ見よがしな八つ当たり今までしたことないじゃないか」
付き合いが長いせいだろうか、それともそんなにあたしの行動がわかりやすいのか、しかし幸助にもあたしのこの気持ちの正体には気づけないでいるらしい、当人にもわからないのものが他人に分かるわけもないのだけれど。
「あたしにも、よく分かんない。なんだか無性にイライラして」
「体調は?」
「別に、悪くないけど」
あたしの返事などお構いなしに、幸助はあたしの手首を掴んでいた手を今度は額へと当ててくる。珍しい事でもないのであたしはされるがままだ。
「そうみたいだね」
「だからそう言ってるでしょ」
「うん、ごめん」
幸助と話している内に、よく分からないあの苛立ちににた感情はある程度落ち着いてきていた。でもあんな八つ当たりのような事をしてきた手前教室には戻り辛い。
「体調不良で帰った事にしといてくれる? やっぱり授業受ける気分じゃないから」
幸助は暫く考えるそぶりを見せてから頷いた。
「分かった。晩御飯よかったら作りにいこうか?」
「遠慮しとく。近いうちに一心のおこぼれで美味しい料理にありつけそうだし」
「そうだね、なにかお祝いに考えとかないと」
「それじゃ帰るわ」
「気をつけて」
そうして幸助と別れてまだ明るい通学路を一人でぶらぶらと歩き始める。
頭に浮かぶのはやはり昨日の彼女の事ばかりで、でも先程までの苛立ちのようなものはもうあまり感じなくなっていた。昨日からなにかがおかしい。
もう一度彼女に会えばこのおかしくなった原因を突き止められるのだろうか?
しかし、急ぐ必要もないだろう。彼女に会いにいく理由も特に思い浮かばないし、何より一心と付き合うようになれば多分そのうち嫌でも顔を会わせるはずだ。
そう思うと少し、心が軽くなった気がする。気分がいいうちに早く帰ってしまおう。
寝て起きれば、きっといつもと変わらない目覚めが待っている。
その夜、あたしの携帯が震えた。
一心からのメールで彼女と付き合うことになったという報告と、彼女の事を褒めちぎる賛美がだらだらと長々と綴られていた。
添付されていたファイルは二人で並んで撮った写メだった。予想通りというか、予想以上に映える二人のツーショット。
ドラマの一シーンのようなその写メを、何のためらいも無く削除してからあたしは眠りについた。
解放的なよく晴れた青い空、暖かな風が頬を撫でる放課後、そんな気分の良くなるようなフレーズとは縁遠いあたしは最近のサボリのツケを補習で支払い、疲れ気味の放課後を迎えていた。
テンションがあがらないので早く帰ろうと真っ直ぐに下足場まで向かった所でちょうど幸助と出くわした。
「部活終わり?」
「うん。そっちは補習お疲れ様。三教科だったっけ?」
「数学、物理、英語ね。ものの見事に将来絶対使わないような教科だわ」
なんでそんなものを学ばなければならないのか、その筋の専門家だけ習ってればいいじゃないか。どうせなら社会に出てから役立つであろうコミュニケーション能力とかを教えていただきたいものだ。あたしに一番欠けてる能力だろうしね。
「勉強するっていうこうい事態に意味があるんじゃないかな。集団行動とかももう高校出たらあんまり経験することもないだろうし」
「理屈はわかるけど納得はしたくないわ」
喋りながら、安っぽいサンダルからローファーに履き替えて並んで歩き出す。あたしは高校から指定靴となったこのローファーが余り好きではない。名前の由来的にはぴったりの靴なんだけど、履き心地がなんとも心もとない。
幸助が履いているのはハイカットスニーカーで、同じデザインのものがあたしの家にもある。中学の頃に買ったもので気に入ってマイナーチェンジを繰り返す同じモデルを買い続けていたのだけど、高校に上がってからは指定靴なんてできてしまって履く機会も少なく靴箱の中でほこりを被っている。
「まだ履いてるんだねそれ」
「うん、また少し変わったんだけどね」
「男子は校則緩くていいね」
「授業さぼるような千歳が指定靴なんて守ってるほうが僕としては驚きだよ」
言われてみれば確かに、明日から指定靴やめようかな。
自分の靴と幸助の靴に向けていた視線を前に向ける。無駄に長い桜並木の先、校門の柱に寄りかかるようにして一人の女生徒が立っていた。
遠目からでもその栗色の髪は酷く目立つ。
胸が一際強く、鼓動を打った気がする。
足が止まる、少し先で幸助も足を止めた。
彼女が顔を上げる。
目が合う。
こんなに距離が開いていても彼女の黒い瞳が輝いているのが分かる。
いや、きっとこれは、あたしの脳内に刻まれた記憶だ。
彼女がこちらへと歩いてくる。桜の花びらの舞う中をゆっくりと歩くその姿を写真に収めるだけで、きっと世界中の写真評論家を唸らせることができる。
「やぁ一昨日ぶりだね」
そう言って彼女は笑って見せた。桜の花すら霞む、誰もが魅了される、そんな笑顔だ。
「そうね」
「まったく、素っ気無いね君は」
唐突の再開で気のきいた返事も思い浮かばなかったのだから仕方ない。
彼女はそんなあたしの態度にわざとらしくため息をついて見せる。そんな些細な反応がいちいち彼女らしく様になっている。
「どうも、小日向さんだよね? 僕は黒尾幸助。
一心や千歳から話は聞いてるよ。よろしくね」
「私の方も瀬名君から噂はかねがね。小日向媛です」
自己紹介をする二人を尻目に、そういえばあたしは彼女とこういう挨拶はしてなかったなと思い出す。アドレスの交換で互いに名前は知っているから、今更やる必要も感じないけど。
「こんなとこで何してたの?」
「瀬名君を待ってるの。寒空の下携帯をカタカタならしながら思い人を待つ妻。ぐっと来るでしょう?」
「もう春だし、さすがに神田川は古すぎるんじゃない」
幸助は首を捻っている。いくら有名な曲とはいえあたし達ではさすがに世代が違いすぎる。
「名作は世代を超えて語り継がれるの。媒体はなんにしろね」
自分の事のように誇らしげに胸をそらす彼女のそこは、ほぼ完璧といっていい彼女という存在において数少ない魅力の乏しい場所だ。それゆえに全体のバランスが取れている、という気もする。
「一心今日はいつごろ終わるって?」
部活をやっているもの同士、帰る時間を合わせている幸助に聞くと、携帯を取り出してスケジュール表を確認しているようだった。
「今日はもう直ぐ終わるみたいだし、僕らも待ってようか。小日向さんも一人じゃ寂しいだろうし」
「聞いてた通り気がきくね黒尾君は。ありがとう」
あたしとしては早いところ家に帰ってしまいたいけど、幸助の言葉を無視して一人で帰るのもなんだか気がひけて三人で近くのベンチに腰掛ける。
「二人とも、帰り遅いんだね?」
「あたしは補習」
「僕は部活」
「料理研究部だったよね。何か作ったりしたの?」
「うん、ちょうどいいし二人に食べてもらおうかな」
そう言って幸助は鞄の中を漁って、綺麗にラッピングされた袋を二つ取り出して、あたし達に一つずつ渡した。
「開けていいの?」
眼を輝かせながら彼女が聞く。
「どうぞ」
幸助の返事を聞くが早いか彼女はラッピングを丁寧に、しかし素早く解いていく。あたしはその横でゆっくりと不器用に包装を解く。中から現れたのは、桜の花びらがちょこんと可愛らしく飾られた薄桃色のクッキーだった。
「凄い、可愛い。これ本当に黒尾君が作ったの?」
「一心に彼女が出来たお祝いにと思ってね。本当は明日渡す予定で作ってたんだけど、口にあうかな?」
さすがは幸助仕事が速い。あたしはその桜色のクッキーをまじまじと見つめる。丸く綺麗なそれは食べるのがもったい気すらしてしまうほどに、本当に可愛らしい。
「いただきます」
あたしがそうしてクッキーを眺めている間に、彼女は先にそれを口の中に放り込んでいた。
「美味しい。瀬名君が料理が上手だっていってたから期待してたけどそれ以上だ」
言いながら彼女は次々にクッキーを口の中に放り込んでいく。心底幸せそうな彼女の顔にあたしも幸助も自然と頬が緩む。年齢より幾分幼く見えるその笑顔には周りを癒す効果でもあるのだろうか。
あたしもクッキーを一つ口の中に放り込む。一口サイズのそれは甘くて、桜の部分はほんのりとした塩味がする。それがアクセントになってさらに甘さを引き立てる。つい先日食べたバタークッキーよりも美味しく感じられる。
「美味しい。この間のよりも」
そう告げると、幸助はほっとしたような表所を見せて答える。
「二人とも喜んでくれてよかったよ。桜のクッキーは初めて作ったから失敗したらどうしようかと思ってたんだ」
「こんなに美味しいのに失敗だなんて、心配性なんだね」
「自分の感じる味覚と他人が感じる味覚は同じじゃないからね。自分で美味しいと思ってもそれを信用しないようにしてるんだ」
「なんだか絵と似てるね」
彼女はクッキーを頬張る手を止めてポツリと呟いた。
「絵と?」
あたしがそう聞くと彼女は頷く。
「うん。絵もね自分が描きたいと思ったものを描いても他人が評価してくれないと価値がないから。絵に限らず創作の世界には自分の中には正解は無いんだなって。その点は瀬名君が羨ましいな、スポーツにはきちんとルールがあるんだもの」
「ある程度の段階まで作っちゃうと修正が効きにくいのも似てるかもね」
「確かに、それは言えてる」
そうして笑い会う二人の中に、あたしは入れない。作る物は違えど二人は、創作という共通の話題を持っている、そこに何も持たないあたしが入っていくすべは無い。そのことが何だが悔しい。また、もやもやとした苛立ちに似た何かが心の中を渦巻きはじめていた。
その不快な感情を噛み砕いて、飲み干すように、クッキーを口に放り込んで、租借して飲み込む。それを幾度と無く繰り返す内に、あたしのクッキーは無くなっていた。
ふと気づくと二人ともあたしの方を見ている。そりゃいきなりクッキーをやけ食いし始めたら変な人に見えて当然か。
「千歳そんなにお腹すいてた? 僕の分も食べる?」
ほとんど味わわずに食べてしまったから、その申し出はとても魅力的に聞こえたけど、さすがに他人の分を貰うのは気がひけたのであたしは横に首を振る。
「いや、いいよ。あんまり美味しかったからつい手が止まらなくて」
「そんなに? じゃあまた近いうちに作るよ」
「そしたら私もお裾分けが欲しいな」
なぜだか胸が酷く痛んだ。二人が笑う中、あたしは苛立ちを表に出さないように必死に作り笑いをしてごまかす。
早く帰りたい。
彼女に出会ってからというもの、自分で自分の事がよくわからなくなる、そんな状態がたまらなく嫌だ。ひょっとしたら彼女に会えばその原因も分かるかもしれないなんて思っていたのに、それどころかもっと感情の乱れは大きくなるばかりで、吐き気すら催しそうだ。
でも別に彼女が嫌いだとかそういうことはなくて。
あたしは彼女の顔をまじまじと見つめる。
綺麗な顔だ、何度も頭の中で反芻したよりも、実物はずっと綺麗で、儚い。あたしが触れたら汚れてしまいそうなくらい。
あたしの視線に気づいた彼女と目が会う。数日前の放課後、初めて出会った時と同じように彼女は怪訝な表情を見せる。何かを言おうとして、でも言葉は出てこない。正直に言える事でもなかったし、綺麗だなんて褒めるのも気恥ずかしかった。目をそらせば彼女も視線を外すかもしれないと思っても、目を離すことが出来ない。その深い色の瞳に吸い寄せられるようだ。
背中にかいた汗が気持ち悪い、頭がクラクラする。
そんなあたしの窮地を救ったのは、聞き慣れた馬鹿者の声だった。
「おお、幸助と千歳はともかく媛ちゃんまで待っててくれるなんて。感激のあまり涙が出そうだぜ」
大げさ身振りをつけて喋る一心はブレザーの前をはだけてうっすらと汗をかいている。いかにも運動部といった風情だ。そんな一心の元に先程までのことなど無かったかのように彼女がかけよっていく。
「良妻でしょ私?」
はにかむ彼女は一心の手に抱きつくようにして、頭二つ分は高い彼の顔を見上げている。
「うむ、ぜひとも将来は俺の隣にいて欲しいものだ」
そんな彼女の頭を一心は空いている左手で優しく撫でる。あたしと幸助の存在など無いかのように二人は幸せなカップルそのものといった様相でいちゃついている。
でも、そんな幸せな場面のはずなのに、なぜだか彼女がほんの少しだけ悲しそうな表情を見せた気がした。ほんの一瞬の出来事で、ただの見間違いかもしれないけど。
「あんまり校内の敷地でいちゃつくと生活指導の教師にみつかっちゃうよ」
「見つかったら見せ付けてやるよ。愛は何者にも縛られないぜ」
「瀬名くんはやっぱりいい事いうね」
なんだかもう本当にバカップルの様相を呈していて相手にするのが面倒臭い。幸助も苦笑しているばかりでもう二人の会話に入る気は無いらしい。
「あの二人、本当にお似合いだね」
「そうね、でもあたしたちの事も少しは気遣って欲しいわ」
「ほんとににね」
苦笑するあたし達を尻目に二人は手を繋いで歩き出している。ああ、本当にあの二人は付き合っているのだと痛感する。噛み砕いて飲み込んだはずの苛立ちに似た何かはあたしの中でまだ燻っていて、ちりちりとあたしの胸を焦がす。
「お前ら帰らないのか?」
振り返ってそういう一心にあたし達は二人でため息を吐いて歩き出す。
「あんまりいちゃついてるから近づき辛いのよ」
「通学路ではもうちょっと静かにね」
「そうは言ってもよ、この溢れる愛情を俺はどう発散したらいいんだ」
「知らないわよ。二人きりの時にでも好きなだけ発散すればいいでしょ」
あたしがそう言うと件の二人はなぜだか顔を見合わせて少し引き気味に口を揃えて言う。
「お前、エロだな」
「さすがにエロいわ」
「いやなんでそうなるのよ、おかしいでしょ」
叫ぶようにそう言うと二人が楽しそうに笑う。幸助も笑顔を見せる。あたしも怒っているようなそぶりを見せながらも、笑う。苛立ちににたあの感情はまだ消えてはいないけれど、あたし達は笑っていた。四月、桜も散り始めた頃。
たしかに春は、出会いの季節だった。