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屋上と言う場所は案外過ごしにくい。
天候が悪ければ当然使い物にならないし、夏場なんかは少しでも気を抜くと焼けるし、椅子や机もないし、床は硬いし、階段も長い。
それでもあたしが屋上へとやってくるのは、あたしが馬鹿だから、と言うわけではなく、単純に生活指導の教師が高所恐怖症だからという理由がある。隠れる場所としては好都合なわけだ。
そんなわけでいつものように硬いコンクリの床に横たわりながら読書をしていると、携帯から聞きなれた軽やかな音が鳴り始める。すぐさま携帯を取り出して確認すれば昨日セットしたアラームだった。本を読みふけっているうちにどうやら授業は終わってしまっていたようだ。
アラームを止めて、本を閉じ、大きく伸びを一つ。
凝り固まった体が伸びていくのが気持ちいい。
いつも聞こえてくる野球部の掛け声や練習の音が聞こえないだけでなんだか違和感を覚える。
他の部活の練習の物音や、吹奏楽部の演奏も聞こえるのに、随分と静かに感じる。
単に意識しているからそう感じるだけなのか、なんにしろ不思議な感覚だ。
人気のない校庭をフェンス越しになんとなしに眺める。
気分が重い。
引き受けてしまった以上どうしようもないのだけれど、美術室へ向かわねばなるまい。なんと言って説明するか、昨日の夜少し考えてみたりしたものの、今はすっかり頭から抜け落ちている。
別にやましいことをするわけでもない、ただ二人の仲介をするだけなのに。
相手がきちんと話を聞いてくれるのかとか、失敗して一心に迷惑をかけないだろうかとか、もし悪戯だったらあたしが理不尽に恥をかくのだろうかとか、そんな後ろ向きな考えばかりが浮かんでは消えていく。
やめよう、考えるだけ無駄だ。
時間もないし教室に鞄を取りにいってそのまま美術室へいって早く終わらせて帰ろう。帰っても別にすることなんてないけどさ。
屋上から階段を駆け降りて教室へ。
すれ違う人影はないけれど、どこの教室にも数人机を寄せて女子がお喋りをしているのが目に映る。
ああいうのって楽しいんだろうか。
中学に上がってすぐはそれなりに似たような事もしていたけど、いちいち話をあわせたり、些細なことで陰口を叩いたり、他人に気を使うのが面倒で結局あたしの周りから人は離れていった。
幸助も一心もいるから寂しいと思った事はないけれど。
なんというか、同年代の女子が同じ生物とは思えないくらいにはここのところまともな接触をした覚えがない。これからその中でも飛びきり理解に苦しむ、恋する女の子などと言う生物と言葉を交わしにいかないといけないんだけど。
ため息の一つでも吐きたい気分で教室の扉を開ける。
案の定というか、やはり我がクラスにも駄弁っている女子が四人ほどいて、その視線が突然の闖入者であるあたしへと一斉に向けられる。その視線を受け止めるように一瞥をくれてやると彼女達の表情がひきつる。
ほんの少しだけ胸が締め付けられるような、息苦しさと痛みを感じる。
その反応が無理のないものだと分かっていても胸が痛む。
彼女達の眼に映っているのはあたしではなく、あたしの一人歩きした噂という虚像。
売りをやってるとか、タバコ、酒、果てにはクスリにまで手をだしてるとか、どこぞの高校の番長を倒しただとか、ナイフを持ち歩いてるとか。そんな根も葉もない噂がいつの間にか定着していた。
単にサボリ癖があるだけでここまで話が大きくなるのはなんとも不思議なものだ。ていうか今時番長なんているのか?
まぁそういった大きな嘘があるからこそ、タバコとかナイフとか、そういう軽い噂に変な信憑性が出ているのだろう。
彼女達の反応は無視してあたしは鞄を手にさっさと教室を出る。
扉を閉めて歩き出すと急に教室内が騒がしくなる。
「怖かった、凄いガンとばされて……」
「ね、殺されるかと思った」
聞こえてくる明るい声、殺されるなんて思ってるならもう少し小さな声で喋ったほうがいいんじゃないの?
ここで再び教室に戻ったら彼女達はどんな反応をするだろ。試してみたい気もするけれど、無駄な事をして待ち合わせの時間に遅れるのも不味いので次の機会にする事にする。
ふと気になってポケットから手鏡を取り出す。目つきが悪い自覚はあるけれどそんなに酷かっただろうか?
これから会う相手があの妙な噂とか知らないといいんだけど。
教室棟から実習棟へ、途中にある渡り廊下から見下ろす中庭には桜の木が植えてあって今もハラハラとその花びらを散らしている。綺麗だなと思う反面、地面に落ちた花びらはドロドロで汚く踏みにじられ、掃除が大変そうだ。
そうやって景色を眺めて歩いているうちに、指定された時間の五分前には美術室へとたどり着いていた。昨日訪れた家庭科室同様あたしはここにあまり足を踏み入れた事がない。
美術の授業は一年時の選択授業以外にはなく、美術部には専用の部室があるため、ここは殆ど美術教師の趣味の部屋になっているともっぱらの噂だ。
美術室の扉に手をかけて、入るべきかどうか一瞬迷う。
扉に嵌められているのはすりガラスで中を覗く事は出来ない。
もう待ち人は来ているのだろうか?
それとも時間ぴったりにくるのだろうか?
どちらにしろ、外で時間まで待っているもおかしいだろうと思いなおし、深呼吸を一つしてから扉に手をかけた。
無駄に広いその教室に足を踏み入れると、不思議なにおいが鼻腔をくすぐった。
絵の具のにおいなのか、石膏のにおいなのか、それともそれらや、あるいはあたしのしらないなにかが混ざり合ったにおいなのか。
年季の入った木製の机の並ぶその教室の一番奥。石膏像の飾られた棚の横、窓の外を眺めるように女の子がこちらに背を向けて腰掛けていた。
栗色のとても目立つ髪色、だけどそんな子をあたしは見た覚えがない。クラスメイトの顔すらろくに覚えていないあたしだからあまり記憶はててにならないけれど。
目の前のキャンバスと窓の外の景色を交互に見つめている彼女は物音も気にならないほど集中しているのか、あたしが入ってきたことには気づいていないようだった。
彼女があの手紙の送り主なのだろうか。
扉から外を覗いても人影はない。美術室を見渡しても彼女の他に人はいない。
携帯の時計が四時を告げる。状況から判断するならおそらく彼女で間違いない。
意を決して、いまだあたしの存在に気づかない彼女に声をかける。
「あの」
「ん?」
振り向いた彼女の顔を見て、あたしは息を飲んだ。いや、胸が詰まる、掴まれると比喩したほうが適切かもしれない。
深い黒色の瞳と目があう。吸い込まれるようなその大きな瞳。肌は驚く程に白くて、いっそ病的にすら映る。同じ制服の筈なのに彼女の着ているそれはまるで彼女の為に仕立てられたかのようによく似合っていた。
うっすらと青く、薄い唇。長い髪の合間から見える少し立った耳。華奢な体に、長い睫、何処に視線をずらしても彼女を構成するパーツには何一つ欠点がなく、ただただ美しい。
綺麗で可愛い子。
全体的に薄い色をまとう彼女は、まるで水でぎりぎりまで薄めた水彩画のように、儚く、幻想的で、この世のものとは思えない。
数秒の間まじまじと彼女を見つめることしか出来なくて、次第に彼女は怪訝な顔になっていく。そこでようやくハッとする、見蕩れている場合ではない、そう、用件を伝えないと。
「貴方がこの手紙の送り主?」
なぜか少し震える声を喉の奥から搾り出しながら、一心から預かっていた手紙を彼女へと差し出す。
「そうだけど、なんで君がそれを持ってるの? もしかして私間違えて貴方の下駄箱にいれちゃった?」
儚いその印象とは裏腹に彼女の声は明るく、ハッキリとしていて力強い響きをしていた。
「きちんと一心の元に届いてましたよ。ただ今日は一心は部活の都合でこられないので代役としてあたしが来ました」
「代役? どういう関係なの?」
「幼馴染です」
「ふぅん」
値踏みするかのように彼女があたしを観察しているのが分かる。
あたしの値段は彼女には到底適わないだろうけど。
ともかく、ここにいるのはどうにも居心地が悪かった。胸の辺りを締め付けられるような息苦しさを感じる。それはさっきの教室で感じたあの感情と少し、似ていた。
我ながら悲しいぐらいの劣等感である。
はやく用件を終わらせてこの子の前からいなくなりたい。
「これ、一心のアドレス書いてあるので、あとは本人とメールでやり取りしてもらえますか?」
メモ帳の一ページにあらかじめアドレスを書いておいたものを差し出す。しかし、彼女はそれを受け取ろうとはせずに携帯を取り出してこちらに向けてくる。
「手打ちするの面倒だから、アドレス交換してメールで送ってもらえる?」
「まぁ、いいですけど……」
あたしも携帯を取り出してアドレスを交換する。携帯に表示された名前は小日向媛。読みは、こひなたひめ。珍しい名前だ。一心の名前もそうとうだけど普通ひめなら姫の字を使いそうなものだ。字面的に美しくないからだろうか。
携帯に登録された彼女のアドレスへ一心のアドレスを送る。これであたしの役目は終わりだ。
「うん、来た来た、ありがとう」
「それじゃあたしはこれで」
そう言って立ち去ろうと踵を返したところで、
「あ、ちょっと待って」
彼女に呼び止められた。
「なんですか?」
「君、代役なんでしょ? 付き合ってもらえない?」
「は?」
告白じゃなくて、どこかについて来て欲しい、と言う意味は汲みとれる。それでも、は? である。なんであたしがそこまで付き合わないといけないんだろう。
「色いい返事が貰えたら瀬名君と一緒に新しく駅前に出来た雑貨屋に行くつもりだったんだけど。一緒にどう?」
「別の機会、明日にでも一心といけばいいじゃないですか?」
「思い立ったが吉日が私の格言だからさ」
そう言って彼女は笑った。たぶん、見た人が皆暖かな気持ちになるであろう、そんな笑顔。でもなぜだろう。その影にほんの少しだけ悲しい影を見た気がするのは。いや、ある意味当然か。思い人じゃなくて、その幼馴染の女の子がデート相手じゃ。
そんな事に気づいてしまったら断り辛い。
別にあたしが悪いわけでもないのに。
だから、渋々折れる事にした。新しく出来た雑貨屋と言うのも少し興味があったし。どうせ暇だし。
「わかりましたよ。付き合います」
「本当よかった。私方向音痴だから一人でいくの怖かったんだよね」
キャーキャーと騒ぐ彼女は心底嬉しそうだ。あたしも雑貨屋にいけると言うだけでこれだけ騒げたらきっと毎日が幸せに過ごせることだろう。
あたしがやっても傍から見たらただの頭いっちゃった人としか映らないんだろうけど。
というかあたしはナビ代わりか?
ま、いいけどさ。
「それじゃ、画材すぐ片付けるから待ってて」
頷いて彼女が先程まで座っていた席に戻っていくのを目で追う。そうして、その先にあるキャンバスを見て、あたしは再び息を飲んだ。
道具とか絵の良し悪しとか、そういうのは分からないけど、その絵を見た瞬間何かが違うと感じた、心が強く揺さぶられる。
美術室の窓から見える景色を写し取っただけのはずのその絵は、実物のそれより随分と色彩豊かで輝いて見えた。あたしの目には灰色で色のないつまらない町並みにしか見えないのに、彼女の瞳にはこんな世界が映っているのだろうか。
天はニ物を与えず、というけれどそんなのは嘘っぱちだ。
「絵、上手いんですね」
「ありがとう」
そっけない返事。道具を片付ける手は一瞬たりとも止めない。きっと褒められるのにも慣れているのだろう。そんな態度になんとなく苛立ちを覚える自分が情けない。
「さて、それじゃあ行こうか」
片付けを終えて手をうつ彼女の声は弾んでいる。あたしの気分とは正反対だ。
この感情はなんだろう。劣等感とか嫉妬とか、苛立ち、焦燥、胸を締め付けるような痛み。色々なものがない交ぜになってどんな反応を返せばいいのかわからない。
ただ軽く頷くだけでいいのに、何かを言わなくてはいけない気がして、ただ言葉を探していた。自然と拳を強く握り締める。
「時間がもったいないからはやく行こう」
痺れをきらしたのか、そう言って彼女はあたしの手首を掴む。彼女の冷たい指先が手首に触れた瞬間、ぐるぐると心の中で渦巻いていた感情はどこかへと消し飛んだ。そうして彼女は駆け出す。あたしもこけないようと足を縺れさせながらも走り出す。
校舎内を走るなんて小学生の時以来だろうか。
後ろに流れていく見慣れた景色がほんの少しだけ色を変えていく。
先程見た絵の景色のように、世界に色が増えていく気がする。あたしは掴まれたその手を介して彼女の世界の一端を垣間見た気がした。