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Blue scent  作者: uka
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「幸助、あたしにチョコレートの作り方を教えて欲しい」

「は?」


 放課後の家庭科室には甘いケーキのいい香りが漂っている。

 そのにおいの出所である幸助の手元。彼の笑顔とは裏腹にケーキを切り分けていたその手元はブレ、なんとも歪な形にそれは切り分けられていた。

 彼が料理において失敗する姿を見るのはいったい、いつぶりだろうか。

 まぁ幸助が驚くのも無理はないかもしれない。


「だからチョコレートの作り方を教えて欲しいっていったの」


 歪な中でも多少マシに切り分けられたケーキを受け取りつつ、あたしは再びハッキリと告げた。


「一体どういう風の吹き回し? 料理なんてもうしないってあれだけ言ってたじゃないか」


 事の発端は単純だ。

 昨日の放課後、被写体を探して街をぶらついていたあたしは気の早い製菓店でバレンタインの早売りをしているのを見かけたのだ。

 最近、日々を無為に過ごしている、そんな焦りが徐々に強くなっていた。

 何かしなければいけない。彼女とあたしに残された時間はもうそれ程ない事がわかっていたから。そんな矢先に見つけたその店。

 人生の中で限られた食事回数の中、彼女のその内の一回にあたしの作った料理があってもいいじゃないかとそう思ったのだ。


「バレンタインに好きな人にあげたいの」


 手元のフォークを弄りながら告げる。幸助は自分のケーキを一口、二口食べてから口を開く。


「それ、普通僕に頼む事かな? 自分で結構残酷なことしてるって自覚ある?」


 言われて気づく。すっかり普段どおりに戻っていたお陰で忘れかけていた。というか彼女の事ばかりが頭の中にあって、完全に失念していた。


「ごめん」


 馬鹿すぎて涙すらでそうだ。

 本当にどうしようもない。

 自分が同じ事をされたら、どうだろう。気持ちを告げていない今でも彼女と一心の話を聞くだけでも胸がざわつくのに。

 自己嫌悪に陥るあたしを見かねたのか、幸助がため息を吐いて頭を乱暴にかきながら言う。


「別にいいけど、教える以上は半端なもの作らせる気はないから」


 少し恥ずかしそうにしながらいい終えると彼はケーキの残りを平らげて、紅茶を一息に飲み干す。


「材料も道具も学校じゃ足りないから、それ食べたら帰ろう。今日からきっちり毎日やるよ」


 言われて、あたしも目の前に用意された美味しそうなケーキをすぐさま食べて答える。


「幸助、ありがとう。よろしくね」


 こうしてあたしと幸助の長いようで短い十日ほどの料理教室が始まった。




 料理教室は大方の予想通り難航を極めた。

 まずチョコの刻み方一つからして素人以下のあたしと幸助では雲泥の差があった。久々に握った包丁で刻んだチョコの大きさは、てんでバラバラで、均一に溶かすためにまずチョコレートをしっかり刻めるようになるまで何度も練習した。

 失敗したそれらは幸助が丁寧に刻みなおして沢山のチョコレート菓子にした。当分あたし自身はチョコレートはいいかなと思うくらいに。

 次にガナッシュだ。

 生クリームを沸騰寸前まで温め、刻んだチョコレートを混ぜて泡だて器で混ぜる。

 言葉だけ聞くと簡単そうだけどこれが案外体力を使う。綺麗にチョコレートを溶かしつつクリーム状にするのはなかなか骨が折れる。溶け切らなければ湯銭しつつ好みの硬さになる様に調整する。

 冷やす過程でも適度に混ぜてちょうどいい硬さになる様にしなければならなない。

 この曖昧な適度な固さとかがとにかく厄介なのだ。どれくらいが正解かなんてよくわからない。しかもやりすぎてもだめとなるともう身動きがとれなくなる。お陰でここでも沢山のチョコレート菓子が幸助の手で量産された。

 そうしてガナッシュを丸める作業。これが一番辛かった。手が暖かいとガナッシュが溶けてしまう。まだまだ寒いこの二月に手を氷水で冷やすという半ば拷問じみた工程を踏まえて整形を進め、最後にガナッシュをチョコレートでコートし、ココアをまぶす。

 あたしが一人で最初から最後までこなしてちゃんとしたものが作れる様になったのは結局バレンタインの前日だった。




 二月十四日は日差しの緩い暖かな日だった。

 景色の中にもう雪は残っていなくて少し早い春の訪れを感じる、そんないい陽気だ。

 いつものように尋ねた病室で、彼女は絵を描いていた。フォトフレームの中に収まる、あたしが撮った写真をじっと見つめながらスケッチブックに鉛筆を走らせる。

 何度も見てきたそのその姿。

 真剣で真っ直ぐな瞳。時折手を止めて栗色の髪をかきあげる仕草。最近また少し細くなった気がする小さな体。大きめのサイズの淡い白色のバジャマ。首元で揺れる銀の指輪。それらが日差しを浴びてキラキラと儚く煌いている。

 蜃気楼のようにも、薄い氷で出来た細工のようにも映る、その姿。

 手で触れてしまえば崩れ去って消えてしまうのではないか、そんな不安を煽られる。

 どうしようもなく、好きなんだ。

 夏の頃の様に胸が軋む程に苦しくなる事はもうなくて、今から手作りのトリュフを渡そうというのに微塵も緊張していなくて、この落ち着きはいったい何なのだろうか。

 諦めがついたわけではない。

 覚悟が出来たわけでもない。

 彼女のそばにいられるだけで、ただ落ち着いた。

 その綺麗な横顔を見つめる。

 ずっと眺めていた。

 あの日からずっと。

 彼女の事ばかりを見ていた。

 あたしの思い出なんて彼女が言う通り一瞬で思い出せる程度でしかないけれど、そのほとんどに彼女の姿が浮かぶ。今までに撮った写真だって百や二百では足りない。

 笑った顔、泣いた顔、真剣な顔、寝顔、ノロケたときの緩んだ顔、恥ずかしそうに照れた顔。たくさんたくさん撮った。だけど、それでも、どんなに積み重ねたって思い出は一瞬でしかない。きっとどんなに時間を重ねてもこの一瞬が一瞬でなくなることなどありはしないのだ。

 それでも、この時間を無為だとは思わない。

 自分の生に意味を見つける事も出来ないけれど。

 こうして彼女と過ごす時間はきっと無駄じゃないんだ。

 答えは未来のあたしが見つけてくれるはずだ。


「よし、こんなものかな」


 彼女が鉛筆を置いてスケッチブックを閉じる。どうやら一段落ついたらしい。


「おまたせ、ごめんね何もかまえなくて」

「いいよ別に、あたし、貴方が絵を描いてるの見てるの好きだから」

「そんなもの?」

「そんなものだよ」


 どちらともなくクスクスと笑いがもれる。別に何がおかしいわけでもないのに。


「お茶いれるけど、コーヒーと紅茶どっちにする?」


 笑い終えると彼女があのペアのカップを用意しながらそう聞いて来る。あたしはちょうどいいタイミングかなと思って、チョコレートの事を切り出すことにした。


「ああ、ちょっとまって、これ折角だからお茶請けにでも」


 この日の為に用意したトリュフを鞄から取り出す。

 あまり凝ったラッピングをしても重いと思ったから、小さな箱に詰めてリボンを巻いただけの簡素なものだ。友チョコを装うならこれくらいでいいだろう、


「何これ? お菓子? 開けていいの?」

「うん、バレンタインだから友チョコ作って見た」


 あたしがそう言うと彼女はするすると綺麗に箱を開ける。

 中にはコロコロと丸いトリュフが収まっている。


「これ、君が作ったの? 料理苦手じゃなかったっけ? 売り物みたい」

「折角だからね幸助に教わって作ってみた。味は保証済みだから安心して」

「こんなの作れるものなんだね。というか、そうか今日バレンタインか、すっかり忘れてた」


 彼女はそう言うと一旦トリュフの入った箱を脇にどけてサイドボードから可愛らしい財布を取り出して千円札を抜き出すとあたしへと突きつけた。


「何、これ?」

「いやチョコレート用意してなかったからさ、売店で買ってきて欲しいの。君と、瀬名君と、黒尾君の分」

「貰えるのは嬉しいけど、あげる相手に現金渡して買いにいかせるかな普通」

「ほら私病人だからさ? お願い、その間にお茶いれとくから」


 そう言って彼女は両手を合わせて頭を下げる。

 別にロマンチックな過ごし方を期待してたわけじゃないから別にいいんだけどさ。

 しょうがないなという振りをするためにため息をついてあたしはそのお金を受け取る。


「適当なチョコでいいの?」

「うん、なんでもいいよ。君のセンスに任せる」

「なんか責任重そうに聞こえるわ。まぁいいけどさ、紅茶でおねがい」

「了解」


 ひらひらと手を振って彼女の病室をでてエレベーターに。一つ階を降りて少し歩けばすぐに売店にたどり着く。そのへんにあるコンビニとさして変わりない店構え。ただその白い床とガラス越しの廊下がここが病院の中の一角である事をすぐさま思い出させる。

 とりあえず、あたしはチョコレートの並ぶお菓子の棚へと向かって商品の前に立つ。自分が貰うものを自分で選ぶっていうのもなんだか恥ずかしくて、適当にいくつかの品を手に取る。

 そもそもあたしにセンスなんてものはないので、適当に何品か買って彼女に選ばせるのがいいだろうとカゴを持ってきて適当に放り込む。残った物はそれこそお茶請けにでもすればいいだろう。チョコレートは当分食べたくないんだけどさ。

 会計を済ませて病室の前まで戻ると、紅茶の香りが廊下まで漏れていた。消毒の無機質な臭いの中、紅茶の甘い香りは強く自己主張しているようで、これは彼女の香りだと強く思った。

 ノックは必要ないだろうとドアをあけると、より一層その香りは濃くなる。


「お帰り、ちょうど準備出来たところだよ」

「みたいだね、おやつにしようか」


 彼女に買ってきたものを渡して、ベッドの脇の椅子に腰掛ける。

 サイドテーブルには既に紅茶が用意されている。

 湯気をあげる小さなカップ。ソーサーにはティースプーンと砂糖が二つ。そのまま白い立方体を紅茶の恩中に沈めてゆっくりと掻き混ぜる。立ち上る香りを楽しんでから一口。暖かな甘い香りが口の中いっぱいに広がる。

 ほっと一息ついてカップをソーサーに戻すと、彼女がニコニコと楽しそうにそれを差し出してきた。


「はい、これ」


 それは先程あたしが買ってきたチョコの中の一つで、その簡素で味気ない箱にあたしが渡したチョコのリボンが巻かれていた。


「チョコレート交換とかも一回やってみたかったんだよね」


 そんな事で子供の様にはしゃいで心底楽しそうに笑う彼女。

 その手の中のチョコレートはただの普通のチョコレートで、しかも買ってきたのはあたしなのに、なぜか、とても大切な物に見えた。

 受け取ったそれはやっぱりなんの変哲もないただのお菓子なのに、食べるのがもったいなく感じられた。


「それとこちは瀬名君に、こっちは黒尾君に、今度あったときにでも渡しといてもらえるかな」

「ん、了解」


 二人の分も受け取って一緒に鞄の中にしまっておく。

 そうして彼女もようやく紅茶に口をつける。

 あたしのトリュフと余ったチョコレート、それに彼女の淹れた紅茶でささやかなパーティを始める。

 静かな病室の中には甘い紅茶とチョコレートの香りが強く漂っている。

 窓から差し込む日差しが暖かい。

 ここの所すっかりと食べ飽きたはずのチョコレートもなぜか彼女と一緒なら美味しく食べられる。

 トリュフを食べる彼女の顔が綻ぶ。

 それだけで幸せを感じる。

 幸助が料理を好きな理由がわかった気がする。

 何もかもがここにある気がした。

 彼女がカップをソーサーに戻す音がやけに大きく聞こえた。

 眼を細めて彼女は窓の外を眺めている。


「いい天気だ」


 呟いて、視線を窓から外して彼女は続ける。


「もうすぐ春がくるね」

「そうだね」

「私、一年中どんな季節も好きだった。春の暖かい風と、桜の色、緑の木々、夏の強い日差し、焼けたアスファルトの熱気、向日葵の鮮やかな色、秋の美しい紅葉と乾いた空気、落ち葉を踏みしめる音、冬の身を切るような冷たさと、雪で覆われた白い景色、暖かい部屋で飲む紅茶の味、季節を迎えることが嬉しくもあり悲しくもあった」


 懐かしむ様に彼女は語る。

 その脳裏にはやはり、一瞬の思い出が、光景が、またたいているのだろうか。


「君はどの季節が好き?」


 なんとなく、どんな季節もそれ程好きじゃなかった。春は面倒な季節だった、夏は暑くてだるい、秋はなんとなく寂しくて、冬は寒くて億劫だった。だけど今はどうだろう。色んな季節の写真を撮って、いろんな事に気付いて、季節の移り変わりを好む様になった。

 その四季の中で一番好きなものはと問われたならば。


「春、かな」


 貴方と出会った季節だから。


「奇遇だね、私も春が一番好きだよ。皆と出会えた季節だから」


 そう言ってはにかむ彼女の笑顔は、今までみたどんな彼女よりも綺麗で、可愛くて、儚くて。その笑顔を見ていたくて、動いたら崩れてしまいそうで、カメラを手に取る事さえもできない。

 彼女はその笑顔のままいつもの調子でなんて事のない様に話を続ける。


「もう、明日からはこなくてもいいよ」


 唐突な一言だった。

 それだけでもう終わりなんだってわかった。


「もう少し早く教えてくれてもよかったんじゃない?」

「言ってたら、どうしたの? 特別な見送りでも用意してくれた? いらないよ、私はそんなの」

「心の準備くらいさせてよ」

「いつ死ぬかも分からないのにそれは無茶ってものだよ」


 それもそうだ。

 もう嫌というほど考えてきたはずだ。

 どんなものにも必ず終わりがくるって。

 それは自分の意思とは関係なく唐突にやってくるのだって。

 まだあたしには覚悟が足りなかった。

 彼女が望むあたしにはまだ、少し、足りなかった。

 それがなにより悔しかった。


「最後までわがままでごめんね。できれば嫌わないで欲しいな」


 嫌わないで欲しいと、彼女が泣いた日が、もう随分昔に思える。


「いいよ、背負うって決めたんだから。嫌いになんてならないよ」


 大好きな彼女を嫌うなんて事、できるわけないじゃないか。

 これからも背負っていかなければ行けないんだ。だからここで放り出すわけにはいかない。


「一枚だけ、いいかな」

「綺麗に撮ってね」


 伝えたいことや、言いたい事は沢山あったはずだ。

 誰よりも好きだとか、何よりも大事だとか、もっと一緒に居たいとか、だけど、この胸中を確実に彼女に伝える言葉をあたしは持っていない。持っていたとして彼女はその言葉を欲しがるだろうか。特別な見送りなんていらないといった彼女が、何よりも普通である事を望んだ彼女が。

 ファインダー越しに見る彼女の顔は先ほどと同じ春の日差しのような微笑で。この一枚はきっと忘れられないものになる。一生背負っていくことになる。きっとデータがなくなっても、プリントアウトした用紙が一枚もなくなったとしても、ずっと記憶の底で残り続けてあたしの一瞬になる。

 色彩に満ちたあたしの一番の思い出に。

 シャッターを押す。

 あっけなく一瞬が切り取られる。


「大丈夫?」


 彼女が囁く。

 何がとは聞かない。


「大丈夫」


 全部きっと上手くやれるよ。

 コートと鞄を手にあたしはドアの前に立つ。

 特別はいらないから。

 いつもと同じように。


「さようなら千歳。ありがとう」


 それは特別でもなんでもない。


「大好きだったよ媛」


 友人なら当たり前の事、互いに小さな意地をはるのをやめただけのこと。

 背を向けて、病室から一歩踏み出して、ドアを閉めた。

 さっきまで静かだったのにやけに周りの音がうるさく聞こえる。

 甘いにおいはもう何処にも残っていなくて、病院の無機質な消毒のにおいだけが鼻を刺激する。

 明り取りの窓から差し込む光はなぜか弱々しく感じられ、真っ白な病院の廊下は暗く不気味に感じる。

 帰りに一心と幸助の家に寄らないと、チョコレートは今日渡さないと意味がないし。

 そんな事を考えながらあたしは病院を後にした。




 その日から季節はどんどんと春へ向かい始めた。

 日は長くなり、暖かい日が増え、季節は春めいていく。

 徐々に緑に色付いていく景色。小さな花を咲かせ始める野草。

 でもあたしはそんな景色にあまり心動かされることはなくて、カメラはあの日から机の上でただ埃を被っていた。結局返すタイミングをなくしてしまったそれを手に取ってボーっと眺める。どうしても返したくてと訪れたら彼女はあたしを招いて受け取ってくれるだろうか。

 でもそんなことしたら彼女に嫌われそうな気がして、ただじっと色付いていく世界を眺めていた。

 気付けば二月は終わり三月も半ば。

 あたし達が彼女の死を知ったのは葬儀もすっかり終わって、桜の芽吹きが始まった頃だった。

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