22
息を切らしながらたどり着いた病院は前に来た時と同じように、その白い壁のような圧迫感であたしを出迎えた。どうにも昔から病院は好きになれない。好きな人の方が稀だと思うけど。
壁の中心である入り口から中に入ると病院特有のにおいが鼻を刺激する。消毒や薬、金属のにおい。それだけじゃない色んなにおいが混ざったそこはどこか美術室の雰囲気に似ている気がした。
長椅子の並ぶロビーには沢山の人がいて、それなりに混みあっているせいか少しだけ騒がしく感じる。そこに腰掛ける人たちを横目で見ながら、若い女性の看護士の座る受付を素通りしてあたしは彼女が待っているはずの病室へと向かう。
ロビーから離れるにつれて人通りが少なくなる。途中で階段を上がり突き当たりの角を曲がるともう人の姿はなく、ただただ静かで真っ白な廊下が真っ直ぐと伸びていた。自然と足の運びが速くなる。病院内でマナーが悪いと思いながらも、気付けば殆ど走る様にあたしは彼女の病室を目指していた。
息が上がる頃、ようやく目的の部屋へとたどり着く、ニ○八号室、ネームプレートを確認してもこの間訪れた時となんら変わらない、彼女の部屋。
あたしは一度だけ深呼吸してその扉をノックする。
「どーぞ」
耳に染み付いた彼女の声が心を少しだけ落ち着かせる。扉をあけて中へと足を踏み入れる。
相変わらずの真っ白な部屋の中、ベッドの上で上半身を起こした彼女があたしを出迎える。手にはスケッチブックと鉛筆。サイドテーブルに置かれた花瓶に生けられた花をスケッチしていたらしい。彼女はそれらを片付けてあたしの方へと向き直る。
「ん、息が上がってるみたいだけど、お茶でも飲む?」
いつものように何でもない風に聞いて来る彼女に少しだけ腹が立つ。あたしがどれだけ心配したと思っているのか。そんなことを語ったところで押し付けがましい偽善者でしかないし、何の意味もない。だからあたしはすぐに本題を切り出す事にした。
「お茶は後でいい、それよりも何があったのか教えて」
真っ直ぐと彼女の瞳を見つめながら言う。
彼女の方もあたしのその視線を真っ向から受け止めて微笑んだ。力ない、冷めたその顔はあたしが始めて目にした彼女の表情だった。
「また倒れたの、出かける前に家で」
まるで世間話のように彼女は軽くそんな言葉を放った。でもその言葉は全てを語っていない。
それがわかる。
彼女は全てを語ると言った、大事な事を全部話すと。だからあたしはそこで言葉を切ってしまった彼女に先を促す。嫌な予感しか浮かんでこなくても、怖いと、そう感じながらも、目を瞑って耳を塞いで何も見聞きしなかったことにしたいと思いながらも。
脳裏をちらつくあの日倒れた彼女の姿、散らばっていた沢山の薬。
「どこか悪いの……?」
やっと絞り出したあたしの問いはどこかおぼろげで、それは今のあたしの心境に良く似ていた。
「心臓が少しね、詳しい病名とかは覚えてないの、覚えてもしかたないから」
彼女の顔から力ない笑みすら消え、諦めに似た表情でただあたしを見つめていた。いつも自信ありげだったその黒い瞳は今はとても弱々しくて、今にも泣き出しそうな子供にすら見える。
「しかたないって?」
それでもあたしはさらに一歩を踏み出す。気分が悪い、ぐるぐるとお腹の中でなにかが回る、本当はそんなことを聞きたいわけじゃないはずなのに。
「私、もう長くないんだ。もってもあと三ヶ月だって」
酷く色のない声。
あたしの好きな人はこんな声で喋る人だっただろうか。
心臓が一度大きく、跳ねた。それは今までに感じた事のない、寒気と苦しさを伴った鼓動で、体の内側から心臓を氷で出来た手で掴まれるかのような、そんな感覚だった。
嘘だと言って欲しかった、冗談だと笑い飛ばして欲しかった。
でもそんなことは起きないって、彼女の近くにずっといたあたしにはわかる。嘘じゃないって、あまりにも、思い当たる節が多すぎたから。
こんなに綺麗な子なのに、一度も学校で見た事がなかった事、ずっと友達がいなかったという彼女。
それはきっと、長い間、学校を休んでいたからだ。
彼女がずっと長袖を着ていたのはたぶん、本当に日差しに弱いという理由もあったのだと思う、だけど、それ以上に隠したいものがあったんだ。例えば、点滴や注射の針跡、消えることなく残ってしまった手術跡。
春のあの日、あたしの手を引いて走ってくれた彼女、今でもよく覚えている。だけどあれから、彼女は少しずつ体力を落としていっていた、次第に校舎を駆ける事もなくなり、夏休みには無理に山を登ろうとしてばててしまった。そして秋にはついにその無理がたたって倒れた。
あの大量の錠剤やカプセル剤だってそうだ。
そして、何かに急かされる様に絵を描く、あの姿。
あたしの目に映るものが、あたしの記憶の中の彼女が、嘘じゃないって雄弁に語っている。
何よりも彼女が、こんな悪趣味な嘘をつくだなんて思えないから。
「手術とかは?」
何も考えのないままにそんなことを言ってしまって、すぐに後悔する。
そんな都合のいい方法があれば彼女はこんな風に、諦観した態度はとらないだろう。少し考えればわかる事なのに。あたしは彼女に残酷な質問をしてしまった。
「今まで何回か受けた、胸のところに傷が残っちゃって。だから海もいけなかったし万年長袖だったってわけ」
ごめんと喉からでかかった言葉を、ぐっと飲み込む。これ以上彼女を傷つけてどうするんだ。自分で自分が嫌になる。こんな時彼女にかけられる優しい言葉一つ思いつけないなんて。
少しの間、静かに本当に静かに時間が流れていた。窓の外では雪が降っている。彼女はそれをただ黙ってじっと見つめていた。あたしは無表情な彼女の横顔を見つめながら色んな事を頭の中で整理しようとがんばっていた。そんな事をしたところで何も変わらないのに。
先に口を開いたのは彼女だった。
「私ね、死ぬのが怖い」
胸を押さえながら、抑揚のない、静かな声で彼女はそう呟いた。
「君はどう?」
問われてあたしは考える、死について。
それは唐突な質問で、あまりにも漠然としていて、あたしにはすぐさま答えを返すことはできそうにない。だから素直にそのとおりに返す。
「怖いと思う。今まで考えた事がなかったからよくわからないけど」
「うん、それが普通だと思う。近しい人が死んだ事はある?」
黙って首を振る。父の両親はあたしが生まれたときには既に他界していたし、母方の実家とは既に縁切りされてしまっていて、祖父母が今どうしているのかあたしは知らない。
「じゃあ尚更だ。普通はそうだよ、だって誰もその事について教えてくれないし、皆自分が明日唐突に死ぬなんて事、夢にも思っていない。明日も同じように過ごせる、そんな確証どこにもないのに。不思議だよね、一日に十五万人もの人が死んでいくのに自分はその中に含まれないと思っているなんて。でもそれは多分、皆が死から眼をそらしてるから」
彼女はまるで録音されたテープを再生するかの様にただただ淡々と言葉を紡いでいく。機械的に、誰に聞かせるでもなさそうに、ただ言葉を流し続ける。
「それを見つめ続けたら気が狂ってしまうから。少しだけでいいから、想像してみて。『いつかは死ぬ』これを心の中で何度も唱えながら自分の死について考えてみて。それが一体どんなものなのか、例えば自分が生まれてから自我を持つまでの空白の時間。例えば寝てから覚めるまでの真っ暗なまどろみ。自身が消えていくということ。何もない無。今なんとなくしてる思考すら取り上げられる事」
彼女の言うとおりにしていると、胸が急に縮み上がるような、冷えた感覚を覚える。酷く薄ら寒い。叫び出したくなるような感覚。
「後どれくらい生きられるかとか、考えたことある? 八十まで生きるとしてざっとあと六十年。だいたい二万二千日しか生きられないんだよ。今生きている一日は二万二千分の一日。そう考えると凄く大切な日に思えない? そうして食事だってあと七万回とれるかどうか、私達は限りある命を生きてるんだってことをもっと認識したほうがいいんじゃないかな。六十年なんて先のこと、なんて普通の人は思うかもしれないけど六十年なんてきっと一瞬だよ。君はこの十七年の生きていた内でいくつの事を思い出せる? 思い出したとしてそれにかかる時間はほんの一瞬でしょ? 私達はその一瞬の中に生きてるんだ。だからきっと六十年なんて振り返ってみてもたったの一瞬で。私は死ぬのが怖いけど、それはもうどうしようもない事だってわかってる。だってそれは誰も避けられないことなんだから」
心臓を鷲掴みにされた。
胸が張り裂けそうな、酷く重い力を感じる。体がぶるぶると震える。自然と強く両手を握っている。何かを堪えるかのように。どうすることもできない、悩んだって仕方のない命題がそこには存在した。振りきろうとしても振り切れない、頭の中にしっかりとそれは存在して、あたしの中に確かに強く根を張ってしまったようだった。
「ごめんね、少し怖い思いさせたかな。ただ私が怖いっていった理由はわかって貰えたと思う。それを見つめて生き続けるなんて気が狂ってしまいそうでしょ? だから皆考えないように覆い隠して、死というものと向き合わない様にしてる。私もそう。この絵だって結局その表れに過ぎないの」
そう言って彼女は古いスケッチブックを差し出してきた。あたしはそれを未だ震えるその手で受け取って開いた。色あせた紙とその質感から随分と古いものだとわかる。ただそこに書かれている絵が彼女のものだというのはすぐにわかった。いつも近くで眺めていたから。
今とはずいぶんと描いているものが違うけれど、この筆使いは彼女のものだ。
そこに広がる絵は全体的に灰色で、明るい色はあまり見られない。黒や白を中心とした彩のない世界。彼女のものとは思えない暗い色調。それはあたしが彼女の出会う前、ずっと見続けていた町並みと同じ世界。そんな絵が何枚も何枚も書きなぐられる様にスケッチブックを埋め尽くしている。
「後世に絵を残したいだとか、誰かの記憶に残りたいだとか、そういう立派なものじゃないんだ私の絵は。だってそんなの残したところで私はもうそこにはいないんだからさ、意味なんてないよね。これは私の現実逃避なの。何かに夢中になって没頭している間はこの恐怖を忘れられるから」
そう言って彼女はベッドの下から段ボール箱を引っ張り出してくる。そこには何冊も何十冊ものスケッチブックが収まっていた。スケッチブックだけじゃない。新聞のチラシや画用紙、果ては処方箋の裏まで、様々なものに沢山の絵が描かれていた。
「それくらい死ぬのが怖いんだ。だから君には感謝してるんだ」
「感謝? なんで?」
未だにあたしの中ではぐるぐるとぐるぐるとそれが消えることなく渦巻いてあたしの胸を締め付けている。それからどうしても意識を逸らしたくてあたしは彼女の方へ向き直る。
「前に言った事覚えてるかな? 『本当に君には色々助けられてるんだ。もし一人だったら気が狂ってたかもしれない』って、あれはね、本当にお世辞でも何でもなくて、素直な気持ちなんだ。一人だったら本当に気が狂ってたかもしれない。その方が楽だったのかもしれないけどね」
言いながら彼女は今までこちらに合わせなかった視線を向けいつもより力なのない笑みを浮かべる。
「ありがとう、私の恐怖を忘れさせてくれて。沢山の楽しい時間をくれて」
そう言って彼女は深く、頭を下げた。
別にそんなつもりはあたしにはなかったのに、ただあたし自身が彼女と一緒にいたいからそうしていただけなのに。妙な居心地の悪さを感じる。
「別にあたしは何もしてないし……」
「ううん、この一年間、楽しかった。思い出は、全部君から始まってる。瀬名君でも黒尾君でもない、君があの日あの場所に来てくれたからだって私は思ってる。だからね、私と出会ってくれて本当に、ありがとう。今日は……それを、言いたかったんだ」
彼女が涙を流す。
途切れ途切れの言葉。
何度も見た、本当は泣き虫な君の姿。
嗚咽を漏らしながら俯いて、君はベッドを濡らし始める。
その涙にはあたしには理解しきれない色んな意味が含まれているのだろう。その小さな体で受け止め切れなかった思いが溢れて、流れ出しているんだろう。
あたしは相変わらずで、彼女にかけてあげる優しい言葉一つ持っていなくて。
でも、それでも、泣いている彼女を励ましてあげたくて。泣いている顔を見ていたくなくて。その小さな体を抱きしめる。
せめてその溢れ出した思いの受け皿くらいにはなれるだろうか。
ありがとうと言ってくれた君をこれからも支え続けることができるだろうか。
そのこれからが、たとええほんの僅かな間だったとしても。
強くその小さな体を抱き寄せて、栗色の綺麗な髪を撫でる。
窓の外ではより一層強くなった雪が降り続いている。
その割りに風は弱くて、ただただ静かに白が世界を塗りつぶしていく。
胸に抱いた君の体は小さく震えている。
そんな彼女を抱くあたしの腕も同じように震えている。
怖い。
色んなものが、怖い。
だけど今は、この腕に抱きとめた暖かな大切な人が失われていく事が何よりも怖かった。
自分が死ぬ事よりも他人の死が怖いだなんて、そんな作りものめいた話あるわけがないと思っていたのに。
ぎゅっと、強く彼女の体を抱き止める。
何処にもいかないでと、そんな叶う筈のない願いを込めて。




