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クッキーが焼き上がり、片付けを終える頃にはちょうどいい時間になっていた。
夕焼けを背に長い影に眼を落としながら並んで校門へと向かう。
すると、そこにはちょっとした人垣が出来ていた。
その中心は周りに集まる数人の女子より頭二つ分ほど高く、その頭頂部の赤みがかった髪の毛もよく目立っていてここからでも誰なのか簡単に判別できる。幸助が軽く手を振るとあちらも気づいたのか周りの女の子に会釈してこちらに駆け寄ってくる。
「悪いなわざわざ残ってもらって」
「別にいいよ僕は部活あったし」
「どうせあたしも暇だしね」
「一心こそよかったの、あの女の子達」
幸助の言葉に先程の人垣に視線を向けるとまだ少し名残惜しそうに彼女達はこちらを見ている。我が校始まって以来のスター、瀬名一心は当然のように女子達からの人気も高い。その実態はただの馬鹿なのだけれど。
「もともと俺が二人を呼び出したのに待たせるわけにはいかないだろ」
「変なところだけ常識的ね」
「人間関係は大事にしていかないとな」
素で言っているのか、ボケているのか、野球部の古いしきたりである年功序列を実力で叩き潰して一悶着起こした男の言葉には到底思えない。
とはいえ、一心が昔から友情に厚いのは確かだ。過去いじめられていた幸助を何度も助けたのは他ならぬ一心なのだから。
「まぁとりあえず本題に入ろうか。お前らに相談したい事があるんだ」
言いながら一心が歩き出す。あたしと幸助もそれに続いて校外へとでる。
「相談? 明日は雨かな」
「珍しい事もあるものだわ」
「俺だって思春期の健全な男子高校生だぜ? 悩みの一つや二つあるぞ」
「で、用件は?」
「まずはこいつを見て欲しい」
先頭を歩いていた一心がくるりと振り返り取り出したのは真っ白な何の変哲もない葉書サイズの封筒。特筆すべき所があるとすれば、星型の可愛らしいラメのシールで封がしてある事くらいだろうか。
とりあえず受け取ってしげしげと眺めて見るものの、差出人の名前も宛名すらも確認できない。
「中、見ていいの?」
一心が頷くのを確認してあたしは丁寧に封筒を開封する。
中には、二つ折りにされた淡い桜色の便箋が一枚だけ。ためらうことなくそれを開く。
そこには丸い、女の子らしい文字で簡潔に文章が記されていた。
『前からずっと気になっていました。明日午後四時に美術室に来てもらえませんか?
どうしても伝えたい事があるんです。』
至って普通の呼び出しの手紙。
一心が去年受けた告白の回数からすれば今更騒ぐような事でもないと思うのだけれど。
「これがどうかしたの?」
「明日野球部の練習試合があってどうしてもその時間あけられそうにないんだ。だから幸助か千歳のどっちかがこの手紙の子に会いにいって説明してくれないか? ちゃんとお礼はするからさ」
拝むようにあたし達に頭を下げる一心。
幸助に視線でどうすると問いかけると、困ったような顔で首を傾げる。そりゃそうだ、告白の現場に他人が向かって事情説明なんてどっちも気まずい思いをするのは間違いない。
とはいえそのまま待ちぼうけになる相手の子もかわいそうだし、なにより付き合いの長い一心の頼み事とあれば断るのも躊躇われる。
「引き受ければいいんでしょ、あんまり気はすすまないけど」
「いってくれるか千歳! やはり持つべきものは友だな。いやほんと、相手が絶世の美少女だったら悔やんでも悔やみきれないと思ってたんだよ」
ああ、やっぱり断っとけばよかったかな。
「幸助はついてくる?」
「二人でいっても相手の人困りそうだし、僕は遠慮しとこうかな」
「そう、それで、具体的になにか伝えて置くべき事は?」
「特別何も言わなくていいぞ。部活で来られないって事とメアドだけ渡してもらえれば」
「了解」
携帯を取り出して明日の予定をメモしておく。ついでに十五分前にアラームの設定。明日また今日みたいにサボって寝ていて忘れたなんて事がないように。
設定を終えて携帯をポケットに戻す。
そうして会話がすんだのを確認すると幸助が鞄をあさりながら喋り出す。
「そうそう、来る前にクッキーを焼いてきたんだ、せっかくだから食べようか」
「おお、気がきくな幸助。部活上がりでちょうど腹がへってたんだよ」
幸助が差し出したラップに包まれたクッキーを早速受け取って一心が歩きながら食べ始める。
「千歳にも、はい」
「ありがと」
新たに差し出された包みを受け取ってあたしもクッキーを一つ口に入れる。
口の中に広がるバターの香りと甘い味。サクッとした歯ざわりのあと崩れて溶けて行く。子供の頃からよく幸助が作れってくれたクッキーの懐かしい味。
そういえばこうして三人で並んで帰るのも久しぶりのような気がする。時間があったり、暇な休日は今でもよく遊ぶけど、二人が部活をするようになってから下校時間が一緒になる事は案外少なくなっていた。
「相変わらず幸助の作るクッキーは美味いな。こないだ後輩の女子から貰ったカップケーキより美味いぞ」
「レシピ通りに作ってるだけだよ。ちょっと材料が高いだけで」
そう言われると、自然とクッキーを租借するスピードが落ちる。高いものと聞くとつい味わって食べようとしてしまうのは貧乏性のなせる技だろうか。
「ちなみに、どれくらいするの?」
「高いっていってもたかがしれてるよ、普通に買うのとトントンくらいかな」
「同じ値段なら俺はこっちの方がいいな」
「あたしも」
「ありがとう、作ったかいがあるよ」
言いながら幸助は照れた様に目を細めて笑ってみせる。
幸助のクッキーを全て食べ終わる頃には住宅街の辺りまで歩いてきていた。
似たような造りの家が立ち並ぶ集合住宅街は今でこそ見慣れたものの、まだこの辺りの家が新築で真っ白だった幼少の頃、あたし達はよく適当な路地を巡り道に迷ったものだ。
なにせ似たような家が多いから自分の居場所が直ぐに分からなくなる。身長が低く視野が狭かった事もあってか、三人で道に迷って夜になっても帰り道がわからず、もう二度と家には戻れないのではないかと泣いた事があった。
たまたま通りかかった向かいの家のおばさんに連れられて家に帰り着いてみれば、あたしたちがいたのは徒歩でわずか五分ほどの場所で、今ではあたし達の間では馬鹿な思い出話になっている。
「それじゃ俺はここで、明日はしっかりと頼むぜ」
住宅街を並んで歩くこと数分。何度目かの十字路で一心がそう言って手を上げる。
「お礼分くらいはちゃんと働くわよ、それじゃね」
「また明日、一心」
「おう」
軽く手を振って歩き出す一心の一歩はとても大きい。普通に歩いているだけなのにぐんぐんとその背中は遠くなっていく。あたし達に歩く速度をあわせていてくれたのだろう。子供の頃から変わらないその何気ない優しさが少しだけ嬉しい。
そうして、一心の背中を見送ってどちらともなく歩き出す。まだかろうじて青い空には白い月が見て取れる、この時間帯になると春とはいえまだ少し肌寒い。
「そういえば」
「何?」
聞きかえすと幸助は一瞬苦い顔をしたあと、直ぐにいつもの表情に戻って首を振った。
「いや、なんでもない」
「なんでもなくはないでしょ、言いかけたことなら最後まで言って。なんか気持ち悪い」
別に今更隠し事をするような中でもないでしょ? とは言わない。恥ずかしいし、言葉にしなくても伝わるはずだ。
「いや、一心って浮いた話をよく聞くけど、千歳はどうなのかなって」
「聞かなくても分かりきってるでしょうに」
ああ、だからこそ言い淀んだのか。
「一年の頃は物好きが何人か告白してきたけど最近はまったく、まぁクラスじゃよくわからない設定ついてるみたいだし当然だと思うけど。別に恋とかなんとかそういうの興味ないからむしろ好都合なんだけどさ」
「普通高校生の女子ってそういうの気にするところじゃないの?」
「普通じゃなくて結構。興味のない話題で喋り続けられても楽しくないでしょ」
本当になんであんな話で盛り上がれるのか、あたしには理解しかねる。そもそもあたしは生まれてこの方恋と言うものをした事がない。
幼い頃から二人とよく遊んでいたせいなのか、男子に対して異性という認識がそれ程ない。そのせいなのか、はたまた別の原因なのか、あたしは恋とはどういうものかそもそも分からない。小説や、テレビといった媒体でその意味やどんな症状なのかは知っていても、あたし自身はそれを経験した事がないから断定することもできない、だからきっとあたしは一生恋などすることはないのだろう。
「幸助の方こそどうなの」
「好きな人は、いるよ」
意外な答えに視線が自然と幸助の顔へと向かう。はにかんだその表情、ほんの少しだけ赤い頬、あたしの見た事のない顔。
「告白はしたの?」
「してないし、する気もないかな」
「どうして?」
「結果の分からないことが怖いんだ、それに妹の面倒も見なきゃいけないし」
ほんの少しだけ残念そうな響きの声、でも表情は先程と変わらない。
「幸助はそれでいいの?」
「うん」
昔からずっと一緒で、幸助の事はよく分かっていると思っていたのに、今幸助がどんな気持ちで何を思っているのかまったく分からない。ずっと変わらない、そう思っていたのに、少しずつ、時には大きく、どうやらあたし達は変わっていっているようだった。
それからなんとなく会話が途切れ、言葉を交わすことなくあたし達はそれぞれの家の前までたどり着いた。隣り合う左右が反転しただけの外観。でも受ける印象はどちらの家もまったくの別物、きっとそれがあたし達が刻んできた思い出の違いなのだろう。
「それじゃ、またね」
「うん、それじゃ」
別れの挨拶を交わしてそれぞれの家へ。鍵のかかっていないドアをそのままくぐって行くその姿を尻目に、あたしは鍵を開けて家へと入る。
「ただいま」
といっても返る声ははない。父は仕事に人生を捧げているような人だし、母はそんな父に愛想をつかしてずいぶん昔に出て行ってしまった。何処にでもよくあるありふれた話だ。だから別段気にした事もない。
靴からスリッパへと履き替えて二階の自室へと真っ直ぐ向かう。
あたしの部屋は自分で言うのもなんだかあまり可愛げがない。
ベッドと勉強机、クローゼットに本棚。大きなクマのぬいぐるみが一つと、あとは部屋に不釣合いな新しい型のデスクトップパソコンが一台、勉強机の上に鎮座している。
方付けが苦手で不要なものは出来るだけ持たないようにと普段から心がけているその成果とでも言うべきか。見事に殺風景な部屋だ。
鞄を放り出して制服が皺になるのも構わずあたしはベッドへと倒れこむ。ふかふかの布団が空気の抜ける音と共にあたしの体を受け止めてくれる。それがなんとも気持ちいいのだ。
晩御飯はどうしよう、さっきクッキーを食べたし暫くはいいかな。とりあえず洗濯をして、お風呂を沸かして、掃除は昨日したしまだいいだろう。そんな所帯じみた事ばかりが頭の中をぐるぐると回る。父は家事が出来ない人だからあたしが料理以外の家事の一切を引き受けている。二人で住むのに広すぎる家を一人で管理するのは中々骨が折れるけれど、どうせやることもない。
それにしても暖かい布団が気持ちいい、このままでは眠りに落ちてしまいそうだ。外の少し冷たい空気でもいれようかと、カーテンを開けて窓を全開に。
すると幸助の家からいいにおいが漂ってくる。きっと彼が何か料理を始めたのだろう、そのにおいにつられるようにお腹が小さく音をたてた。
やっぱり最初に夕飯にしよう。
献立は歩きながら決めよう、どうせ作るわけじゃないしコンビニまで歩いて入りたいと思う店があればそこにしよう、なければ出前かコンビニ弁当だ。
服を着替える前に窓を閉めようと手をかけて、もう一度風に乗って届けられる料理の香りを嗅ぐ。今度幸助に晩御飯を作ってもらうのもいいかもしれないと思いながら、窓とカーテンを閉めた。