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Blue scent  作者: uka
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 暑い夏の日差しも陰りを見せ、気温が下がり始めると景色は一気に秋めいていった。緑色の葉は次々と色を変え、蝉の鳴き声は鈴虫の声へと置き換わり、学校では衣替えも終わり、十一月の文化祭に向け、学校中が慌しくなり始めていた。

 とはいえ、部活にも所属せず、クラスで未だ浮いているあたしにとって文化祭というイベントは殆ど影響を与えず、ただ、何かに熱中している周りを写真へと収める日々をあたしは過ごしていた。

 そんな十月の半ばの放課後。いつもの様に美術室へと足を運ぶ。

 不思議な空間、場所、匂い。それらにもすっかり慣れて、キャンバスに向かう彼女の横顔を眺めながらお茶を飲むのが最近の日課になっている。

 今日も彼女はフォトフレームに納まったこの夏の風景を、向かい合う白いキャンバスへと落とし込んでいく。その真剣な横顔にあたしはただただ惹きこまれるばかりだ。


「間に合いそうなの?」

「ちょっとぎりぎりかな。資料も少し足りないし」


 彼女は今、文化祭で個人出展をするためにいくつもの絵を描いている。今までも傍で何度も彼女が絵を描く姿は見てきたけれど、最近の彼女は比べ物にならないくらいの速度で何枚も何枚も沢山の絵を描いている。時間に追われるその姿には忙殺という言葉が相応しい。

 こうやって毎日の様に彼女の元を訪れるのは邪魔以外の何者でもないかもしれないけれど、少しでも彼女の力になれたらと、手伝える事はないかといつも探している。


「資料? 図書館で借りられる本とか、写真だったら手伝うけど」

「ありがと、といっても今はこの絵を完成させちゃいたいから、そのへんは後でね」


 そう言うと彼女はまたすぐに絵に向き合って無口になる。

 最近のそんな彼女の必死な様子は見ていて痛々しく思えるほどだ。何が彼女をそこまで駆り立てるのか。元々、自らの絵を他人に見せるような性格でもなかったはずなのに、どうして彼女はこんなにも文化祭に向けて力を振り絞っているのか。

 聞くべきか聞かざるべきか、忙しそうな彼女の邪魔になりはしないだろうか?

 そんなことを考えていても仕方ない、思い切ってあたしは聞いてみる事にした。


「ねぇ」

「んー?」


 心ここに在らず、といった風情ではあるが彼女が反応を示す。絵の方に集中してこそいるものの特に面倒くさそうな反応ではない事にひとまず安堵した。


「なんでそんなに頑張って文化祭に向けて絵を描いてるの? 今までコンクールとかにも出してこなかったのに」

「なんで、か」


 彼女は筆を置いて、少し寂しげな表情を見せる。時折覗かせる、その焦点の会わないような、どこか遠くを見ているかのような、とても悲しげな表情。それは一瞬で掻き消えて、彼女はすぐにいつもの笑顔を浮かべる。


「ここのところ描きたくて仕方がないの、君の写真のお陰かな? 文化祭はついでみたいなものだよ、締め切りがあるほうが緊張感あるしね。やると決めた以上はきちんとやり遂げたいし」


 はにかむようなその笑みに何故だか違和感を感じる。何かがひっかかる、その何かは皆目見当も付かないけど、ただ、彼女がいつもと違う気がする。

 でもそんなハッキリしない憶測で彼女を追及する気にもなれず、そもそも、彼女の言っている事はなんら矛盾もおかしいところもないわけで、あたしはそのまま納得した。きっとただの勘違いだろうと。


「そっか、力になれてるみたいで嬉しいよ。邪魔してごめんね」

「別に邪魔なんかじゃないよ、少しは息抜きもしないとだし」


 言いながら彼女は伸びを一つ。


「根詰めすぎて体壊さないようにね」

「大丈夫大丈夫、そんなにやわじゃないから」


 笑いながら彼女は再び筆を取る。いつもどおりの光景のはずなのに、何故だろう、言い知れぬ不安を感じてしまうのは。




 その日も結局ここ数日と同じようにあたし達は夜遅くまで作業をしていた。達、といってもあたしはちまちまとした雑用を手伝ったり時にはモデルになるくらいの本当に大した事のない仕事しかしていないのだけれど。

 虫の鳴き声を耳に、あたしたちは夜道を並んで歩いていく。頭上に輝く星は、以前二人で見上げた夏のそれとはまた違った顔を見せている。


「遅くまで付き合わせてごめんね」

「別にいいよ、暇だから手伝ってるだけだし。むしろ邪魔になってないか心配なくらい」


 彼女に今までかけた迷惑や、彼女があたしに教えてくれた沢山のことに比べれば、あたしが彼女に返せていることなんて本当に微々たるもので、もっともっと力になれたらと思う。


「持つべきものは友人だね。君のお陰で随分助かってるよ」

「ほとんど何もしてないのに?」

「そんなことないよ。本当に君には色々助けられてるんだ。もし一人だったら気が狂ってたかもしれない」

「そんな大げさな」


 いくら作業量が多いからってそれはないだろう。

 自然と笑いが漏れる。

 大体あたしがしている事なんて本当に微々たることで、実質的な手伝いなんて殆ど出来ていないのに。


「ありがとう」


 それでも彼女がこうして感謝の気持ちを伝えてくれるのは、素直に嬉しい。

 もっと、力になりたい。彼女を支えてあげられるようになりたい。

 隣を歩く彼女の指先が、あたしの手に触れる。

 反射的にあたしは自分の手を引っ込めてしまう。


「あ、ごめん、今、私の手汚れてるもんね……」

「いや、別に、そう言うわけじゃなくて」


 咄嗟にあたしは言葉を取り繕う。

 不意にそんな風に触れられると、心が揺らいでしまうから。

 彼女の手は、彼女の言うとおりここの所ずっと絵の具で汚れている、その絵の具の汚れは手だけではなく、他の部分にも広がっている。

 こうして学校から帰る頃にはその白い綺麗な顔、栗色の美しい髪すら汚してしまうことがある。

 だけど、そんな彼女の事を汚いだなんて思った事はない。

 むしろそんな彼女の絵に向けるひた向きな情熱をかっこいいと思う。

 一流の職人の勲章、と言うのは少し、大げさか。

 だからあたしは彼女の手を取る事に躊躇なんてあるわけもなく、あたしは引っ込めてしまった右手を、そっと彼女の左手に重ねて、しっかりと、握る。


「あ」


 小さく声を漏らす彼女。あたしは知らないふりをしながら、手に込める力をほんの少しだけ強くする。

 夏の頃とは少しだけ変わった町並み。変化し続けてとどまる事のない、あたし達の心。何度でもこれから同じような日々を迎えるはずだと思った日常さえ、めぐるましく変わっていく。

 君があたしの手を強く、握り返してくる。

 離したくない、すっとこのまま繋がっていたい。

 そんな願いも空しく、いつもの別れ道へとたどり着く。

 君が立ち止まる、あたしも足を止める。

 手は、繋いだまま。

 互いに言葉はない。

 短いような、長いような、そんな間をあけて、


「それじゃあ」

「うん、また」


 先に別れを告げたのは彼女の方なのに、きつく握り、繋がった手を彼女は離そうとしない。強く、硬く、繋がったまま。

 どうしたんだろう。こんなこと、今まで一度もなかったのに。

 繋いだ手から視線を離し、君の顔を覗こうとしたその時、あたしの手から、彼女の体温が失われる。


「何でもないの、それじゃあ」

「……うん」


 妙に胸がざわつく。

 あたしは彼女の背中が闇の中に消えていくのを、ただ呆然と眺めていた。




 文化祭まであと一週間となった学校は熱気に満ちていた。廊下や教室には準備のための小道具や看板が溢れ、実習棟から食べ物のにおいが漂ってお腹を刺激したり、軽快な音楽が漏れ聞こえ耳を楽しませる。

 そんな喧騒の中にあってもあたしは普段とあまり変わらない。授業がないのをいい事に昼から学校へとやってきて、教室に顔を出すこともなく美術室へと向かう。

 以前に比べればクラスには随分慣れたけど、あたしがいないほうが皆仕事がしやすいだろうし、あたしも面倒なことをしなくていいし特に不満はない。

 渡り廊下から眺める中庭の景色はすっかり秋めいて、木々の葉は徐々に数を減らしていく。いつものようにそうやって些細な景色の移り変わりを確認して、あたしは美術室を尋ねる。

 それがいつも通り、いつもと同じはずなのに、扉を開けたその先、彼女が座っているはずの席に彼女の姿だけが見当たらなかった。

 描きかけのキャンバス、机の上のパレットと絵の具、あたしの写した景色が収まるフォトフレームに、まだ湯気の立ち昇るティーセット。

 いつもと同じように存在するその風景の中に、彼女の存在だけが欠けていた。

 席を外しているのだろうか?

 でも、それは考え辛いような気がした。

 最近の彼女は一度絵に向かうと滅多な事では席を立つことはなかった。それこそその絵が完成するか、十四時や、十七時といったきりのいい時間の頭に少し休憩をとるくらいのもので、今は十三時二十二分と半端な時間だ。

 どうしたんだろうと不思議に思いながら、入り口からいつもあたしが腰掛ける彼女の隣の席へと向かおうと足を進める。

 その途中、二つ目の机を超え、いつもの窓際の席、机の足元がちらりと伺える位置から、床に広がる、栗色の何かが視界に飛び込んできた。

 それはとても見覚えのある色をしていて、本来そんな場所に見えるはずのない色だった。

 それは、毎日の様にあたしが綺麗だなと思いながら眺めている、彼女の髪の毛の色。

 それが机の角からモップの様にはみ出して見えていた。

 いつの間にか足を止めていた。

 胸騒ぎがした、先日、彼女を見送ったあの夜のように。

 足を上げる。そんな簡単な動作が酷く体力を消費する。

 でも一度足が上がると、今度は驚くほど軽く、勢いよく動き出す、大した距離でもないのにあたしは飛ぶようにその場所へとたどり着く。

 駆け寄った机の影、髪の毛の続く先、そこに彼女が倒れていた。

 彼女の顔を覆いつくすように広がる髪の間から覗く肌はいつも以上に白く、唇からは色が失われている。

 彼女の周りには大量の錠剤とカプセル剤が散乱し、その手には携帯が握られている。

 酷く、嫌な予感がする。

 屈みこんで胸に耳を付けた。

 弱々しいけれどきちんと脈を刻んでいる。

 大丈夫、大丈夫。

 その肩を揺さぶろうとして、手を止める。

 素人が下手に手をだしていいものか。半端な、正しいかどうか確証もない知識で状況を悪化させてしまうのではないか。今のあたしには、何も出来ない、しないほうがいい。こんなことなら避難訓練や、保健の授業くらい真面目に聞いておくべきだった。

 ともかく、今更そんなことを悔やんでも仕方ない。

 どうする、どうすればいい?

 考えがまとまらない。

 落ち着け、悪戯に時間を消費している場合ではない。

 ふと、彼女の握る携帯に目がいく。

 そうだ、誰かに助けを。

 携帯を取り出して真っ先に思い浮かんだのは一心の顔だった。すぐさまアドレス帳から番号を呼び出してコールする。

 早く、早く、早く。

 三度目のコールで、一心が電話にでた。

 彼が何かを言うより早く、悲鳴の様に声が漏れる。


「助けて一心!」


 すぐに口から出た言葉はそれだけで、もっと別に言わなければならないことがあるのに、自分が嫌になる。もっと冷静になれ、今は自己嫌悪している時間すら惜しい。あたしが、あたしが何とかしないと。


「どうした千歳、なにがあったんだ!?」


 珍しく焦った、一心の声。

 伝えないと、ちゃんと、現状を。


「美術室に薬が、散らばってて、白いの、肌も唇も、倒れてるの」


 馬鹿みたいな言葉しか出てこない。

 説明になっていない。

 違う、もっとちゃんと、急がないと。

 だけど、そんな混乱したあたしの言葉でも、あたし達のヒーローは、それで全てを察してくれた。


「媛ちゃんが倒れてるんだな?」


 落ち着いた、聞き慣れた声。


「今からそっちいくから、千歳は保健室に先生呼びにいけ、下手に媛ちゃんに構うなよ」


 一心なら、助けてくれる。


「わ、わかった」


 通話を切って立ち上がるのももどかしく這うように駆け出す。入り口の段差に躓いて膝をうつ。痛い、ジンジンと熱を持つ、けれど、そんなことよりも、急がないと。

 立ちあがって一瞬だけ彼女の方を振り返る。その姿はここからはほとんど見えないけれど。

 あたしは本当に、今ここを離れてしまっていいのだろうか?

 目を離した隙に彼女が消えてしまうのではないか。

 そんな妄想が頭を過ぎる。

 馬鹿か、あたしは。

 ここには今、一心が向かっている。

 あたしが今すべき事はなんだ?

 保健室に少しでも早くたどり着くことだろう?

 痛む足も気にならない。

 一歩を踏み出す。

 そうして駆け出す、半年前彼女があたしの手を引いて駆け出した時と同じように縺れそうになる足を懸命に動かして。

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