15
頬の冷たさに目が覚める。
あれほど心の中に渦巻いていた感情はすっかりと落ち着き、苛立ちに似た何かはあたしの中から消えていた。
いや、消えたというより、その何かはほんの少し形を変えて、そうしてこれ以上ないというくらいしっくりくる名前を得て、そこに鎮座していた。
汗で服がべたついて、酷く不快だった。
今すぐにシャワーを浴びたい気分。
体の汚れを落としてさっぱりとしたい、出来ることなら、この感情さえもどこか知らないところに流して綺麗さっぱりに気づかなかったことに出来ればいいのに。
でも、それはもう無理な話だ。
一度それだと確信したら、もう、自分ではどうしようも出来ない。
これはそういうものなんだ。
初めてなのに妙に納得している自分がいた。
――あたしは、彼女に、恋をしている。
気が付いてしまえばそれは驚くほど納得のいく話で、その事実はあたしの胸の中に何の抵抗もなく、ストンと落ち着いた。
気持ち悪い。
自分の事が酷く気持ち悪くて、不快だ。
吐いてさっぱりしてしまいたい。
でもこの胸中を誰かに吐露したところで、きっと何も変わらない。
この感情はそういうものなのだ、
ベッドから身を起こして枕元の携帯に目をやる。
メールの着信を告げる点滅。
確認すると幸助からのメールだった。
『体調良くなった? 大丈夫?』
彼の気遣いは純粋に嬉しかった。体はだるいし、昨日言っていたとおりにご飯を作りに来てもらえたら随分と楽が出来るだろうけど、あたしは『大丈夫』と短い返事を返した。
体のダルさや体調不良よりも今はとにかく誰とも会いたくなかった。
今と言わず、出来れば当分。
でも、もう夏休みは終わる。
休みが明ければ学校に行かなければならない。
そして学校に行くということは、彼女に会うということ。
彼女に会いたい、笑顔を見つめていたい。
そんな事を思う自分が嫌いだ。
相手は同性で、しかも幼馴染の彼女だ。頭がおかしいとしか思えない。
こんな状態であたしは彼女にどんな顔をして会えばいい?
わからない。
考えても答えの出ないことは、考えるだけ無駄だ。
彼女の教えてくれた言葉。
でも、今のあたしに行動するだけの気力はない。
立ち止まってただ誰かが、何かが、答えを運んでくるのを待つことしかできない。
時間が全てを解決してくれる。
そんな都合のいい奇跡は起きるはずもなく、八月は終わりを告げて二学期が始まった。
相変わらずまだまだ日差しは強くて夏休み気分の抜けない学校はいつもより騒がしい。あたしはそんな喧騒を避けて、校内をブラブラと巡ることが多くなった。
いや、避けているのは喧騒じゃなくて、彼女か。
学校にこそ顔を出してはいるものの幸助や一心と顔を合わせる事も殆どなく、あたしは一人になれる場所を探して授業中も校舎内をうろついていた。
以前なら屋上に篭っていればよかったけれど、今はそうもいかない。あそこはもう、あたし一人の場所ではなくなってしまったから。
授業中の校舎というのは放課後のそれとはまた違った不思議な雰囲気がある。
静かだけど、時折聞こえる物音、誰もいない明るい廊下、真っ直ぐに伸びるそれは病院の廊下に少し似ていた。
足音を殺して誰かに見つからないように校舎を徘徊する。
そんなことを初めてもう三日が過ぎようとしていた。
未だに都合よく隠れられる場所は見つかっていない。トイレにでも篭っていればいいんだろうけど、あんなところに長々と篭っていたら気がまいってしまいそうだ。
そうやって適当に学校を巡るうちに今日も一日が終わる。
何も進展しない、何んのために学校に来ているのかも分からない、大人しく家で休んでいればいいのに。なんであたしはわざわざ学校に出てくるのか。
それは多分。
期待、しているのだ。
放課後になってからも暫くぶらぶらして教室に誰もいなくなったのを見計らってから鞄を取りに入る。そう言えば一学期の始めの頃もこんな風に生活していたっけと、そんなことを思い出す。
彼女と出会う前の事、それがもう遠い昔の事のように感じられる。
なんとなしに窓から眺めた景色は、くすんだ灰色ではなく、綺麗に色付いている。
すっかり見慣れたあたしの世界。
カメラを取り出そうとして、ポケットの中にその重みがない事を思い出す。
彼女に関する事を今は極力思い出さないために、家に置いてきていたから。
ため息を吐いて教室を出る。
帰ろう。いつまでも残っていても仕方ない。
下駄箱で外履きに履き替えてそのまま帰ろうとして、
「不良少女」
校門前の、もう、とうの昔に花の散った桜並木の道で、聞き覚えのある声に呼びとめられた。
さすがに無視する事も躊躇われて振り返ると、幸助が文庫本を片手に立っていた。多分、あたしが出てくるのを待っていたのだろう。
「何」
自分でも驚くくらい不機嫌そうな声で答えていた。
「学校来てるのに顔見ないからどうしたのかと思って」
「別に、ちょっと考え事」
嘘はついていない。
「顔色が悪そうに見えるけど、体調は大丈夫なの?」
「平気」
これは嘘だ。あの日から固形物を食べては戻すばかりで、口を通るのは何時ぞやと同じゼリー飲料だけ、毎日眩暈がする。
軟弱な精神と胃袋をもった自分が嫌になる。気づかれたらきっと、彼は家にやってきて料理を作ると言うだろう。それは避けたい。そんなに体調が悪いと知ったらきっと、あの二人は気を効かせてお見舞いに来てしまうだろうから。
「千歳」
「大丈夫だって」
そう言って歩き出そうとして、彼に右腕を掴まれる。いつかもこんな事があった。
彼の力はあたしよりも強い。逃げるのを諦めてため息を吐いて向き直る。
「本当に大丈夫なの? まったく顔見ないから二人とも心配してる」
言われなくてもそんな事は分かっている。迷惑をかけていることも重々承知だ。
だって皆優しすぎるから。
特に彼女は。
もしも、もしも彼女に、あたしの心情を全て話したらどうなるだろう。
優しい彼女なら笑ってそんな事かと、流してくれる。
そんな自分に都合のいい妄想ばかりが浮かんでは消えていく。
気持ち悪い。
たとえ彼女が本当にあたしがそんな感情を抱いている事に対して嫌悪を抱かなかったとしても、彼女には一心がいる。あたしの入り込む余地なんてどこにもない。
じゃあ仮に、幸助に相談したらどうだろう。
付き合いの長い彼はどんな答えを返してくれるだろう。
幸助なら真剣に耳を傾けてくれる気がする。それは所詮あたしの都合のいい想像に過ぎないけれど。
「幸助……」
でも相談したところで、きっと何も解決はしないだろう。それにやっぱり彼なら話を聞いてくれるなんてのは、所詮あたしの妄想でしかないから。大切な友人を無くすかもしれない、そんな博打をする必要はないだろう。
「何でもない」
本当に何でもない事の用に、明るい声と顔で返す。今のタイミングでは不自然かもしれないけれど。
その不自然さに彼も流石に気づいたのか、
「あの二人の事でなにかあった?」
心臓が跳ねる。
顔に出なかったかと心配になる。
冷静に、冷静に。
「何もないけど、どうして?」
「いや、夏休みの最後皆で集まった日、二人呼びにいった後からなんか元気がない気がして。何かあったんじゃないの?」
長い付き合いだからだろうか、彼は本当によくあたしの事を見ている。きっと一心の事も。その洞察力は怖いくらいに正確で、料理人じゃなくても他の仕事でもやっていけるんじゃないかってくらい。
でも幸助も優しいから。
「本当に何もないから」
あたしが笑ってこう言ってしまえば、それ以上は何も聞いてはこない。なにか言いたげな顔をしながらも、掴んでいたあたしの腕を離してただこちらを見つめているだけだ。
今のうちに帰ろう。
明日はどうしよう、学校を休んだらますます幸助を心配させるだろう。でもかといってこの気まずい空気のまま顔をあわせるのは辛い。
季節外れの大雪でも降って学校が休みになってしまえばいいのに。そんな馬鹿げた事すら思い浮かんでくる。
とにかく、今は帰ろう。考えるのはそれからでいい。
そう思って幸助に別れを告げようとして、再び、あたしは足を止める事になる。
逃げだそうとするあたしの退路を塞ぐ様に、彼女が、立っていた。
まるであたしの心を読んだかのように、ベストなタイミングで。
いつもの人懐っこい声で、君はあたしに呼びかける。
「やぁ」
その笑顔は相変わらず眩しい。彼女の顔を見つめるだけで胸が高鳴る。
あたしはなんと返していいものか分からずただ彼女に視線を向ける。
目と目が合う。
彼女の意志の強い瞳に見つめられると心の中まで見透かされる気がして、はじかれる様に視線を外す。
黙り込むあたしの変わりに幸助が彼女に話しかける。
「小日向さん、一心は一緒じゃないの?」
「瀬名君は今日は部活。さっきまで応援してたんだけど練習が長引くから先に帰れって」
じゃあ、一心にそう言われなかったら彼女はまだ彼を応援するためにグラウンドにいたのだろうか?
彼を待ち続けるそんな彼女の姿を想像するだけで胸がざわつく。
その程度の些細なことにいちいち嫉妬する自分が酷く醜くて矮小な存在に思える。気分が悪い。早くこの場から去ってしまいたい。苛立ちが増していく。
「二人は何一緒に帰るところ? だったら、私も一緒に」
「違う」
彼女の言葉を遮る用にあたしは言葉を発した。ナイフの用に尖って鋭く、冷たい声だった。
「寄るところがあるから一人で帰る」
突き放すように、早口で。
言い終わるよりも早くあたしは歩き出す、この場に少しでもいたくなくて。
「どこに寄ってくの? 私も、」
「一人で行きたいの」
足を止める事もなく、返す。彼女の表情が珍しく強張っている。胸が酷く痛む。あたしがあんな顔をさせてしまっているのだと思うと、どうしようもなくやるせない気持ちになる。でもここで話していたらきっともっと彼女を傷つけてしまう。
だから、
「さようなら」
すれ違いざまに一言、残す。
彼女の顔がいつかあたしの友達になりたいと泣いてくれた時の用に酷く歪んでいるような気がした。
彼女の顔を見れたのはそのすれ違いの一瞬だけで、本当かどうかあたしに確かめる術もなくて、そのままあたしは校外へと出る。
彼女からかかる言葉は、もう、ない。
見上げた赤いはずの夕日は、くすんだ灰色だった。
恋なんてこんな苦しい感情、最初から知らなければよかったのに。
彼女と出会わなければ、この同じ灰色のまま、楽しい事も苦しい事も知らずにすんだのに。




