10
梅雨が空け、夏休みまであと一週間を切った七月の中頃。
日差しは徐々に強くなり、半袖でも熱さを感じる。
我が高校の冷房は滅多なことでは入らないので昼休みの教室は非常に居心地が悪い。唯一冷房の効く図書室はこの時期だけは席の奪い合いで激戦区と化し、それ程低くない温度設定のそこが過密地帯となるともはや何の意味もなさなくなる。
そういうわけであたし達は屋上へと避難していた。直射日光の当たる場所はとてもじゃないが耐えられないが、影の落ちる給水塔のそばは風も良く通り過ごしやすい絶好のスポットとなる。
久しぶりに登った屋上は相変わらず殺風景で、でも、そこから見える景色は随分と変わった気がする。青い空の下、街の所々にあたしは色を見つけてはシャッターを切る。
「だいぶ写真取る姿も板についてきたね」
「そう?」
「うん、いかにも、写真家って感じがするよ」
給水塔に体を預けながら足を投げ出す彼女がカラカラと笑う。相変わらず彼女の服装は長袖にサイハイソックスで見てるこっちが暑苦しいくらいなのに、彼女は涼しい顔をしている。
「どんな感じよ、それ」
「雰囲気というか、顔つきというか、真剣な表情がそれらしいよ」
「確かにそうだね。カメラを持ってる姿が自然だ」
本を読んでいた幸助も、わきに文庫本を片付けて会話に参加してくる。
「そんなに変わるもの?」
殆ど自覚はない、ただ思うがままに撮りたいものを撮っているだけで、未だにカメラの使い方や技術などを詳しく調べた事もない。ただ気の向くままにやっているだけだ。
「うん、前より楽しそう」
それは確かにあるかもしれない。写真を撮るようになってから、自然と被写体を探して日常の中の些細な違いを眼で追うようになって、見えてきた新しい景色がいくつもある。猫が良くたむろする路地だとか、庭先に花を植えている老夫婦の家だとか、ほんの小さな気づきだけど。
「写真の腕も上がってると思うよ。見てていいなって思うものドンドン増えてきてる」
「だよね、私もどれを絵にすればいいか迷っちゃうくらい」
「そんな大したものじゃないと思うけど」
撮ったものを人に褒められるのはなんともむずかゆい。
「謙遜する必要はないよ。芸術っていうのはね、誰かがいいと思ってくれたらそれだけで価値があるものなんだから」
「芸術だなんてそんな大層な」
「芸術なんて特別なものじゃないもの、誰にでも出来ることなんだから」
そういわれてもやっぱりあたしは気恥ずかしくて、後頭部を掻いてごまかすことしかできnない。
「おう、お待ちかね、俺様が戻ってきたぞ」
ちょうどそのタイミングで一心が屋上の扉を開けてやってきた。掲げられた右手には近所のコンビニのビニール袋が握られている。
「おかえり瀬名君、アイスは!?」
「ちゃんと買ってきたけど、そう露骨にアイスばかりに目をとられると俺は悲しいぜ」
「ありがとう瀬名くん! それでアイスは!?」
「ここに……」
落ち込んだ様子で一心はビニール袋を彼女に差し出す。
なんだか可愛そうになる、まぁでも彼女の服装からしてアイスを必要以上に求めるのは仕方ない事。嬉々としてビニール袋から自分の分のアイスを取り出した彼女からあたしも袋を受け取って自分のアイスを取り出して幸助へと回す。
「ご苦労様、先生に見つからなかった?」
「大丈夫大丈夫、そのへんは抜かりない」
「その髪でよく目立たないね」
「学校近辺の抜け道は完全に把握してるからな、任せろ」
全員の手にアイスが渡り各々が勝手に食べ始める。学校で食べるそれは、普段よりも美味しく感じられる。
「贅沢だなぁ、学校の屋上で昼間っからアイスなんて。私今この学校でもっとも贅沢をしてる自信があるわ」
「ずいぶん小さな贅沢ね」
「そうだな、今度はもっと贅沢しよう、全員で抜け出して店にいって食おう」
「さすがにそれは不味いよ、アイスは美味しいだろうけど」
珍しい幸助の冗談に皆が一瞬きょとんとして、すぐに笑い出す。
「誰がうまい事を言えと」
「黒尾君冗談も言えるんだね」
「せっかくの晴れ続きなのに明日は雨か」
「そんなに驚く程のことでもないだろ」
他愛のない会話をしている内にアイスはすぐになくなってしまう。楽しい時間が早く過ぎていくのと同じように、美味しい食べ物はすぐに胃の中におさまってしまう。
そうしてごみを片付け終えると、皆それぞれの世界へと入っていく。幸助は読書を、彼女はカメラの中のデータを見ながら絵を、一心は珍しくプリントを手に唸っている様だった、カメラが手元にないあたしは手持ち無沙汰だったので一心の手伝いでもしてやろうかとその横に腰を下ろす。
「何のプリントやってるの。手伝おうか?」
「気持ちは嬉しいが、手伝いは無理だと思うぜ」
そう言って一心がプリントを見せてくれる。そのわら半紙には進路希望調査と大きな文字が書かれていた。
「そう言えばそんなのプリントもらったね」
「休み入る前には千歳も出しとくんだよ、重要な書類だから」
再び本をわきにどけた幸助に釘をさされる。
「幸助はもう提出したの?」
「うん、とっくに」
「なんて書いたの?」
「調理系の大学と専門学校をそれぞれ第一、第二志望にして出した」
その言葉に少しだけ驚く。てっきり幸助は近場の大学を受けると思っていたからだ。
「黒尾君はやっぱりパティシエとか目指すの?」
「いや、お菓子にこだわるつもりはないよ。料理全般をやっていきたいと思ってる」
つまり、進学したらもう今までの通りには行かない。
ずっとこのまま皆一緒で続いていくと、それは幻想だと、真正面から突きつけられたような、軽いショックを受けた。
「一心は結局なんて書くの?」
「ドラフト一位指名、無理だったら大学で運動部推薦って書いたんだけど書き直しっていわれたぜ。俺のパーフェクトな計画を否定されてしまった」
「まだ今の所何も出来てないしねうちの野球部、頑張り次第で推薦はあるんじゃない?」
「一応地方大会決勝までいったんだけどな、ま、来年だな。とりあえず進路希望には野球できそうな大学書いとくかな」
一心もまた、同じように将来に付いて明確ではないが、彼なりに何かを考えている。対してあたしはどうだろう、ただぬるま湯みたいなこの時間に浸かって何も考えていない。いつか、いや、いつかではない、卒業と同時にこの時間は確実に去っていってしまうというのに。
「千歳は、どうするんだ?」
話を振られて、考える。
あたしは、どうするんだろう、どうしたいんだろう。
皆バラバラになる、それは避けられないことだ。
社会に出て働く?
無理だろうあたしには、そんな姿とてもじゃないけど想像できない。せめてもう少し大人になってから、となれば大学という選択肢しかないけれど、じゃあ何処の大学にいくのか。漠然と皆で通うと思っていた近場の大学という線はもうない。一人でいったって意味のない場所だろうから。
頭にふっと思い浮かぶのは写真関係の大学。
でも実際にそんなものがあるのか調べた事もないし、あたしは知らない。
そもそもあたしはそこまで本気で写真を撮りたいのか、そんなこともわからない。それにたとえ学んだとしてそれで食べていけるほど世の中はきっと甘くはない。
答えに窮してあたしが俯いていると、珍しく先程から黙っていた彼女がすっと立ち上がりあたしを覗きこんで、言い放つ。
「君は、何になりたい?」
あたしは、何になりたい?
あなたのようになりたい。
それはきっと今この場では不適切な回答だろう。
今のままでありたい、すっとこのままでいたい、何者にもなりたくはない。
これもやはり、回答として間違っている。
そうしてそうなると、あたしに答える術はなくなってしまう。
「わからない」
何になりたいのか、何になれるのか。
「探せっていうのは簡単だけど、探すのは難しいよね実際。君が写真に出会ったのが偶然だったようにさ、いつかきっとそれも見つかるかもしれない。その時の為に、手広く準備だけはしといても損はないんじゃないかな」
「媛ちゃんはいい事いうな、でも、つまり結論からいうと?」
「とりあえずいい大学入っとけばいいんじゃないかな!」
なんだかいろいろと台無しな結論に肩透かしを食らった気分になる。
「誰もが誰も、明確な夢があるわけじゃないからね。瀬名君や黒尾君のみたいなのが特殊なんだよ。一人で悩んでも解決しないことは考えるだけ時間の無駄。とりあえず前に進むほうが有益ってものだよ」
確かに彼女の言う通り、悩んだってどうしようもないことに時間をかけてもいいことなんて何もない。
「……うん、ありがとう。参考になった」
まだ、ハッキリとした目標は決まらないけど。帰ったらきちんとネットで何か調べるくらいはして見ようと、そんな事を思う。まだまだ先だと思っていた将来というものは、案外近くまで来ているのだと、あたしは気づき始めていた。
「そういえば、貴方はどうするの?」
「ああ、それは俺も気になる」
「僕も気になるね、やっぱり美大なのかな?」
口々にあたし達が聞くと彼女は胸を張って、鼻息を荒く、自信満々に宣言する。
「私もまだ特に何も考えてない」
あたしも、幸助も、一心も呆けたように表情を固まらせて彼女の方を向く。
「今は目の前の夏休みの事で頭がいっぱいで、無駄な事を考える時間なんてないよ」
言い切った彼女の眼はとても真剣で、楽しそうに輝いていた。
「それに私はほら、いざとなったら絵も描けるし、瀬名君のお嫁さんにして貰えばいいから」
「うん、それは確かにいい案だ。なんせメジャーリーガーの妻だからな」
他愛のない冗談を交わす二人のその姿に何故だかあの得体のしれない感情が久しぶりに首を擡げていた。
「それじゃ僕は式の料理を任されるのかな」
「いいかかもなそれ」
「当然安くなるんだよね?」
胸が締め付けられるように痛い。
「それじゃあ、あたしは写真の係りかな」
何事もないかのように、会話に混ざり、中身のない言葉を並べる。
その裏であたしは考えている、この心に渦巻く感情の正体を。それは、彼女に言わせれば時間の無駄意外の何ものでもないのだろうけれど。




