カイヅカイブキ
「知ってる? ここには死体が埋まってるんだよ」
ボクはカイヅカイブキのことを知らない。その素性も、もちろん素顔も……。
「キミ、誰?」
と言ったボクの台詞にも、
「ワタシはカイヅカイブキだよ」
としか言わなかった。ボクも聞かなかったのだけれど。
――ただ、カイヅカイブキはボクの背後にいた。
小学生の時になる。先天的に視力が悪く、おかげでボクは月に数回は病院に通っていた。その結果すくすくと内向的に育っていたボクにとって、カイヅカイブキとの出会いは強烈なまでの――恐怖だった。
出会った時間は、母さんと眼科の先生がボクのいない病室で、ボクにはよく分からない話をしている時。
出会った場所は、何故か誰もいない病院の中庭。芝生の上のベンチに座っていたボクの背後。
その背後に、
「知ってる? ここには死体が埋まっているんだよ」
それがカイヅカイブキからボクへの第一声。
「キミ、誰?」
それは不意打ちのような、
「ワタシはカイヅカイブキだよ」
自己紹介。
カイヅカイブキは、ベンチに座るボクに後ろから声をかけた。けれどボクは振り向くことが出来ない。背後にいるのであろうその誰かを、確かめることが出来なかった。それは純粋培養な人見知りに育ったこともあるし、何よりボクは怖かった。
カイヅカイブキを名乗るその声は、楽しそうな声だった。とてもとても楽しそうな、それだけが聞き取れる、音質。カイヅカイブキの声は、女の子の声だった。ボクの知っている世界にはない、気配。
人間を相手にしている気がしない。後ろを、向けない。
そうして何も言えないでいるボクに、カイヅカイブキは続ける。
「知ってる? ここには死体が埋まってるんだよ」
怖くて、そして緊張していた。知らない誰かが背後にいる。そしてわけのわからないことを言う。いや、何を言っているのかはわかる。けれどそういう問題じゃない。ボクの頭を混乱させる音質と気配が、それだけでうまく舌を回らなくさせて、のどが渇かし呼吸を鈍くする。
緊張。けれど、カイヅカイブキが言うから、そのボクを恐怖させるカイヅカイブキの空気に、
「病院なんだから死体があって当然だろ」
真っ白な頭に浮かぶ反論を必死で唱える。
「ふふ、そうだね」
それでもカイヅカイブキはただ笑う。ボクは息が詰まる。焦る声で早口に、
「キミ何笑ってるの、へんな奴だな」
ボクは振り返らない。それでも返ってくる言葉は……。
「ワタシはへんな奴じゃないよ、カイヅカイブキだよ」
その台詞を合図にボクは、カイヅカイブキを一度も振り返ることなく、ベンチから立ち上がった。一度も振り返ることなく、怖いまま逃げ帰るように、母や先生、人間がいるはずの場所に向かって、走り出す。
遠くなる笑い声。そしてその逃げる背中に向かって、カイヅカイブキの楽しそうな声が最後にもう一度、
「知ってる? ここには死体が埋まってるんだよ……」
ボクは振り返らなかった。
ボクはカイヅカイブキを知らない。その素性も、もちろん素顔も……。
後ろから声をかけられ、非現実的な会話を二、三交わしただけの、それだけの関係。
あれから何度も病院には通ったけれど、中庭には近づいていない。病院の誰にもカイヅカイブキの話をしていない。ボクは何も聞かなかったし、何も見なかった。
ボクが自分のことをオレというようになった今も、オレはあの時一人だった。そういうことにしている。
それから十一年が経つ。
五月の連休。大学生。一人暮らしも早一ヶ月。母親からの帰宅命令を受け、故郷に帰ってきたオレは今、病院に来ている。今年も検査の時期が来て、待ち時間を潰すため、立ち寄った病院の中庭。この十一年、決して近づかなかった、忘れようとしていたこのベンチに来てしまった。
怖いと、思っていたのに、どうしようもなく、オレはここに来てしまう。今でも恐怖を忘れたはずはないのに、オレはまた、このベンチに座っている。
突然――風もなく、背後が揺れる。人間が相手ではない気配。
オレは今度こそ振り返る。
ベンチの向こう側に、樹齢十一年、細い、しかし堅い、一本の木。ネームプレートが一枚、根元にささっている。そこに書かれたいくつかの言葉。
カイヅカイブキ ヒノキ科ビャクシン属
大阪貝塚で品種改良された園芸植物
いつか、誰かが言った。
「知ってる? ここには死体が埋まってるんだよ」
きっと、ここには死体が埋まっているのだろう。
けれど、このことを他人に言うことは、ないと思う。
オレがそのことを確かめる必要さえ、ないと思う。
十一年前、自分だけの秘密にした出会い。それは怖かったから。思い出すのも怖かったから、忘れようとした。自分から、自分から恐怖に飛び込む人間はいない。それは、オレにも同じこと。
あえて恐怖に、カイヅカイブキに近づこうなどという真似をするはずがない。
検査が終わって、連休が終わる。何も見なかったことにして、何も聞かなかったことにして、二度とここにも立ち寄らないで、忘れようとするのだと。
風が吹き、揺れるカイヅカイブキを見ながら、そう思った。