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マイズ山のものぐさ賢者  作者: 流堂志良
第二章 悪魔の契約
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ローレンス

 月もない、星だけが明かりとなった闇の中で赤い瞳が少年を見下ろす。

 何の感情も浮かばない瞳に、その存在を呼び出した少年は恐怖を感じた。

「望みは?」

 その声に少年は震える唇で目の前の悪魔に自分の願いを伝える。

「……自由に。自由になりたい……」

 抽象的な願いだが、少年には重要だった。

 村の期待、優秀すぎた兄と比べられること、その重圧から自由になるためには力が必要だ。

「だから、契約を……」

 人の姿をした悪魔を呼び出した、その魔法陣が赤く光を放つ。

 村の外れに作った魔法陣だ。よほど遅くまで起きていなければ少年の行為に気づいた村人はいないだろう。

 村を背にした少年はその魔法陣に、指先を切って溢れた血を落とした。

 血を受けた魔法陣から光が広がり、少年が描いた魔法陣の外にもう一回り大きく赤く紋様が描かれる。

 契約は成された。不意に赤い光が弾けて消える。

「これでお前は自由だ」

 悪魔が言う。淡々と感情のない声で告げた。

 少年は恐ろしい予感と共に背後を振り返る。

 村は――。

「自由になりたかったのだろう? これでお前は自由だ」

 そこには何もなかった。家も畑も道も何もかもがない。

 代わりにあったのは大きくて深い穴。

「あ……ああ……」

 少年ががっくりと膝をついたのを、悪魔は赤い瞳でただ見下ろしていた。




 空が赤く染まる中、ティアレスは家に急いでいた。

 学校帰りにちょっと友達と話し込んだだけで、もう夕暮れである。

 夕食自体はフォーレシアが作ってくれるのだが、それには一つだけ問題があった。

 彼女は炎を怖がって、火を使う調理はできないのだ。

 そうなると夕食は自然と硬い干し肉と生野菜だけになる。

 ちょっぴり体型が気になる年頃のティアレスはその食事でも生野菜だけかじればいいのだが、父に生野菜のみの食卓は厳しすぎる。

「ああ、父さん……ごめんなさい」

 すぐに帰って父用の食事を作る、と足を早めながら決めたティアレスは、道の途中で旅人らしい黒い髪の二人組を見かけた。

 村の中心にある、リトミアを見上げる少年とその隣に立つ青年。

 ちらりと見ただけだから、ティアレスにはその二人が何者かは知らない。兄弟だろうか。

 旅人が訪れるのは珍しいので、二人に興味はあったがティアレスは急いでいた。

 そのまま通り過ぎたので、彼女は長い黒髪の合間から覗く青年の耳が、レイムと同じように尖っていることに気づかない。

 道に伸びる影が走り去った後、リトミアの前にいた青年が少女の後ろ姿を振り返った。

「本当にこの村であってるのか?」

 赤い瞳で少女が見えなくなるまで見送った青年が、隣の少年に問いかける。少年はぼそぼそと答えた。

「多分。他のリトミアのある町や村は全部回ったし」

「それらしき人間は見た限りいなかった」

 青年の指摘に少年は沈黙する。

「……もうじき日も完全に落ちる。今日は山の方で野宿しよう」

 しばらく黙り込んだ少年が口を開き、青年は頷いた。

 そして二つの影は村の外を目指す。

 向かう先の山に誰かが住んでいるなど知らずに。




 ライリアルは夜更けにふと目を覚ました。

 普段は夢さえ見ない深い眠りだというのに、意識が浮上するのは本当に珍しい。

 再び眠りにつこうにも、なんだか胸のあたりがざわついて落ち着かない。

 こうしたときに、落ち着く方法をライリアルは知っていた。

 隣室で眠る弟子を起こさないように、そっとライリアルは寝台から降りる。

 夜着の薄布の上にマントだけ羽織り、ライリアルは外へ行き家の裏手に回った。

 明かりなど必要はない。今宵は満月。月の光だけで十分明るい。

 家の裏には一本の木がある。それは竜の遺跡にあるリトミアと同じだった。

 竜の遺跡にあるものよりは若いが、すでにリトミア本人は目覚めてここにはいない。

 この木はライリアルがここに住み始めてからずっとこの家を見守っていた。

 安らぎの記憶を呼び覚ますリトミアのそばにいれば、ざわついた心も落ち着く気がする。

「ふぅ……」

 こうやって夜にリトミアを見上げていると、まだ少年だった頃のことを思い出した。

 あの時は本当に軽率なことをしたと思っている。

 魔法使いの村は当時魔獣退治の依頼を受けて、生計を立てていた。

 剣も当時の技術では脆い物しか作れず、盾も満足な物は作れず、頼れるのは己の魔法だけだった。

 その時のライリアルは大人になりきる前の未熟な身体だ。

 ライリアル以上に強い魔法使いが村にはいなかった。

 当時相棒として組んでいた友人もいなくなり、ライリアルは息苦しくて村を捨てた。

 たった一人の弟を村に置き去りにして……。

 それからライリアルは一度も故郷の村に帰ったことはない。

 苦い思いが胸を占めるが、リトミアがそれを優しい記憶で塗り変える。


「久しぶり。兄さん……」


 不意に聞こえた声にライリアルは息を呑んでゆっくりと振り返った。

 月明かりでもはっきりと、森から現れた人影が二つ出てきたのがわかる。

 一人は見覚えのある顔だった。最後に見た時と姿が全く変わっていない。

 黒い髪を肩でざんばらに切った、夜の闇ではわからないがライリアルより濃い紫の瞳の少年は紛れもなくライリアルの弟だった。

「……っ!」

 とっさにどう声を掛けていいのかライリアルが迷ったのは、弟の隣に悪魔がいたからだ。

 ライリアルも文献でしか知らない、黒い髪に赤い目の悪魔と呼ばれる存在。

 光の下を歩くことができず、大陸の中でも南の方のある一帯から出られるはずのない悪魔が弟のそばにいる。

 ライリアルが自分を見ていないことに気がついた少年は、隣の悪魔を見上げた。

「まさか……」

「兄さんの想像通り。僕は彼を召喚して契約したんだ」

「……ろ、ローレンス!」

 ライリアルはようやく弟の名を呼び、近づいた。

「どうやって、召喚方法を知ったんだ!」

「父さんの残したメモにあったんだ。……兄さんが村を出た後、僕にはこうすることしかできなかった!」

 淡々と語っていたローレンスの声に感情の色が乗る。叫んだローレンスは一歩、兄へと踏み出した。

 弟に村を出奔したことを持ち出されるとライリアルは何も言えない。そしてもう一つ、父が悪魔の召喚方法をメモ書きにしろ、残していたことにライリアルは驚いた。

 ライリアルが最後に弟に会ったのが1000年近く前の話だ。魔法は口伝で伝えるのが普通だった。

「……そう……か……」

 掠れた声でライリアルがようやくそれだけ返すと、ローレンスは何かを言い出しかけて口を閉ざす。ライリアルは弟が何を言い出そうとしたのか聞けなかった。

「……兄さんは、ずっと会わない間に大人になったよね」

 足を踏み出し兄に近づき、弟は言う。そういえばそうだとライリアルは思った。

 村を出たのは16の時。まだ背も伸びきっておらず、まだこの世界のことを何もわかっていない子どもだった。

 それからすぐに背も伸び、魔法使いにとっては残酷な世界のことを知る。竜の魔力を扱う自分がどれほど特殊かということも。

「ローレンスはあの時のままだ」

 ライリアルと2歳だけ下だったローレンスは、悪魔との契約の影響か見た目がほとんど別れた時のままだった。

 変わらないローレンスの姿は懐かしいけれど、あの時この弟を捨てて村を出たのだと実感すると、彼に対して負い目を感じる。

 あの時ライリアルは若かった。まだ子どもだった。残された弟がどうなるかわからなかったぐらい、あの時は周りが見えていなかった。

「そうだね」

 ローレンスは村を捨てた兄を最後まで責める言葉を吐かなかった。

 罵られるぐらいの事をした、とライリアルは思っている。

 だがローレンスは何も言わなかった。

 感情を露わにしたのは一瞬だけで、すぐに彼は黙り込んだ。

 それが何故なのかライリアルはわからずに、弟に家に泊まるように誘う。

 弟子のキャロルが住んでなお、部屋には余りがあったからできたことだった。

 ローレンスは迷う姿勢を見せたが、頷いて傍らの悪魔を振り返る。

「クロムは?」

「影にいる」

 悪魔はそう答えて、闇で身体を覆い隠して、どこかへと消えた。

 どこに行ったのだろうとライリアルが首をひねると、疑問にはローレンスが答える。

「彼はクロム。影を出入りする事ができるみたい。今は夜に紛れて僕の影に隠れたんだ」

 なるほどと納得してライリアルは弟を促し家へと入った。

「兄さんは本当に大きくなった」

 ローレンスは羨ましそうに呟く。

 ライリアルは弟のまだ小さな手を彼は掴むことができなかった。




 キャロルの朝は早い。

 弟子として師より早く起きなければならないと言う信念から日の出前には起きるようにしていた。

 畑の世話もできれば弟子であるキャロル自身がしなければならないことだが、まだ何を植えてどういう世話をするのかはまだ教わっていない。

 ライリアルの授業は魔法の使い方と、この国の歴史ぐらいだった。

 キャロルはずいぶん前からの記憶がなく、ライリアルに引き取られる前は何をしていたのか全く覚えていない。

 歴史や今の常識を教わるのはそれで仕方がないことだが、キャロルには不満だった。

 そういうわけでせめて朝食の支度だけでも、と習った魔法で明かりを浮かべて、台所へ忍ぶ。薄い茶色の髪が歩くごとに揺れて明かりに照らされる。

 目指した場所はうすぼんやりと明かりが灯っており、キャロルはひょいっと顔を覗かせた。

「やあ、おはよう。キャロル。早いね」

 そこには既にライリアルがいて、竈に火を熾したところだった。もっとも、火の魔法で着火するだけなので、火自体がつくのはあっという間だ。

「ライリアル様……早いんですのね」

「まあ、今朝はというか昨夜からお客さんがいるから」

「昨夜から?」

 キャロルの覚えている限り、客など来ていなかった様に思える。

 それを師に問いただす前にライリアル自身が疑問に対する答えを示した。

「来たのはキャロルが眠っている間だよ」

「珍しいの……ですね?」

 そもそもここに客がやってくること自体珍しい。

 キャロルが知っている限り、村に住むティアレスがキャロルの話し相手として時々やってくるぐらいで、彼女も夜に来るなんて事はない。

「確かに珍しいね。後で紹介するよ、私の弟だから」

 キャロルは師に弟がいることに驚いた。

 今までそんな話になったことすらなかったのだ。

 彼女はライリアルについてほとんど何も知らない。

 彼がすごい力を持った魔法使いで、この国の建国に尽力した賢者だということぐらいで。

 もっとも、それも授業はともかくライリアルの私室の惨状とのギャップにキャロルは頭を痛めた。

「弟様ですか?」

 キャロルの崩れない丁寧な口調にライリアルは苦笑し、その口調はなんとかならないかとキャロルに聞く。

「こればっかりは。どうも記憶を失すまえからこうみたいですもの」

 口に手を当ててキャロルは笑った。

 きびきびとライリアルに説教をする時とは違って、柔らかな印象だ。

 キャロルの言葉にライリアルは頷き、弟について手短に語った。

 弟の名前と、長らく生き別れていたこと。昨夜再会し、家に置くことを。

「ここはライリアル様のお家ですもの。私は構いませんわ」

 キャロルの言葉に、ライリアルは安堵したようにため息をついた。

「朝食の時に紹介するよ。キャロルはそれまで部屋で好きにしててくれないか」

 ライリアルの仕事を手伝おうとキャロルは思ったが、どうもそうはいかないようだ。

「……わかりました。部屋に戻っておりますね」

 ライリアルの言葉にキャロルは渋々頷いて部屋に戻った。

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