君に届かない
A-108便ハイジャック事件。
その飛行機に仁寅律音の父親は乗っていた。
父親について覚えていることはなかったが、母親のことはよく覚えていた。
絶望的な事件を報道するテレビを眺め、電話が鳴ってはなりふり構わずにすぐ出る。
毎日その繰り返しで、心配していた祖父母が食事などを作ってくれていた。
捜索が続いて段々ニュースの数が減る頃、母親に元気を出してほしくて習ったばかりの曲を弾いた。
涙を枯らした母親は呆けた顔で曲を聞き、終わる頃小さく拍手をしてくれた。
そして喜んでくれたと思った瞬間、思いがけない言葉が出た。
「奏さん…ここにいたのね?」
真っ赤な泣きはらした目、壊れた笑顔。
そこに仁寅律音の母親はいなかった。同時に仁寅律音もいなくなる。
母親は、仁寅董子は病院に入院することになった。祖父母の配慮だ。
しかし仁寅律音が戻ってくることはなく、仁寅奏という存在が仁寅董子の心の支えだった。
現実を突きつけると狂ったように暴れる。だから仁寅律音は演技することにした。
仁寅奏としての表情や感情、音楽の知識や曲、思い出や情報を学んだ。
シラハを手に入れてアニマルデータがインストールされた日、驚いて演技できないまま名前を聞かれた。
仁寅律音は単純なその問いに答えることが出来なかった。
「僕は……………………誰?」
悲しくもその時が仁寅律音としての自我の新たなる目覚めだった。
それまで仁寅奏として振舞えば良かったが、自分自身について聞かれた時に答えることが出来ない。
空っぽのがらんどうな自分。今まで学んで築き上げたのは死人のこと。
祖父母にも母親の前でボロが出ないように仁寅奏として接してもらっている。
悲しそうな顔をしつつも了承し、仁寅奏について教えてくれた。
他人の前では仁寅奏として振舞っても違和感は持たれなかった。
なぜなら誰も仁寅律音と出会う時には、本人は演技のため仁寅奏になっている。
全ては母親のため望んだこと。
だがいつまで経っても仁寅董子は退院できない。仁寅律音を思い出さない。
母親の時間は進まない。子供が生まれる前の時間しか見ていない。
望んだことにより、自分を失くしたことに気付かなかった。
「………奏だから………母さんは戻らないのかな」
<律音?>
他人や祖父母、母親に仁寅律音と呼ばれても奏として演技できた。
しかしシラハの呼ぶ仁寅律音だけ、演技ができなかった。
死人が生き続けて、生存者が死に続ける逆転の構造。
シラハは事情を聞いて、どうしてそんな歪なことになったんだと言った。
<お前は律音だろ?だったら音楽で伝えてみろ!!自分は律音だって!!>
そう励まされ仁寅律音は仁寅董子の前で演奏した。
しかし気付く、演奏すら自分自身などないことに。
音に乗せる感情も情景も自分も個性も、全てが仁寅奏になっていた。
拍手が小さく鳴る。
「奏さん、素晴らしい音楽だったわ」
母親は戻らない。仁寅律音も戻ってこない。
作った笑みでありがとうと言う、仁寅奏の笑顔で。
それ以来自分自身を掴もうとして猛練習して、楽譜も酷使した。
だが上手くいかずに楽譜を紙飛行機にして飛ばす日々。
飛んで落ちていく紙飛行機を見て、何も考えないでいる時間が安息だった。
音楽では感情が掴めず、自分自身も掴めなかった。
そんな時に葛西神楽と出会う。でも感情は掴めない上に相手する手間が増えただけ。
どうしようもなくなった時、葛西神楽がエリアボスの話をしてきた。
エリア全体、上手くすればNYRON全体に影響を及ぼせる子供団体の発足。
「人と関われば感情分かりやすいかなーって!せっかくだし俺を副ボスとして、ボスにならない?」
「……人と感情……」
仁寅律音はその二つの単語を聞き、ある計画を思い浮かぶ。
葛西神楽の言う通りなら、人が多く関われば感情の数も増える。
父親について学んだように、その発生した感情を学べないだろうか。
演技や造形については自信がある、あとは学ぶ感情を絞るだけ。
それなら四つの喜怒哀楽、特に喜怒哀を学ぼうと計画する。
喜と楽は似ている。なら三つの感情で差異をつけて違いを応用して習得する。
「神楽くん、話がある…ボスにはなないんけど、協力してくれないか?」
「もちろん!で、なんですか?」
表には出ずに指示を出し、感情観察計画を実行させる。
まずは怒りを、次に喜び、最後に哀。
葛西神楽は最後までボスになってくださいよーと言い続けたが、無視した。
そしたら母親が病院を変える都合で、東エリアに引っ越すことになりこれでボスの催促もなくなるだろうとは思っていた。
しかし葛西神楽はそれでも言い続けたので、仁寅律音は仕方なく怒りを観察する過程で東エリアに聞いてみると言った。
なにより怒り沸騰中のタイミングで怒りの根源の話をしたら、さらに助長するのではないかという計算付き。
話は保留となったことを葛西神楽に伝え、その後は放置している。
所属エリアなど仁寅律音にとって無関心であり、どうでもよかった。
なぜなら一番の最優先事項は、母親に自分を示すこと。仁寅律音を取り戻すこと。
そのための観察実験は好調で、最後の計画も立てれた。
そんな折にまた葛西神楽から催促が来る。
『再々懇願!西エリア所属お願いしまっす!!』
「…わかったよ。明日、聞いてみる」
計画の日取りが決まった。
通信を切った後、仏壇に置かれている遺品を取りに行く。
黒焦げがついたヴァイオリンケース。音すら出せなくなった父親の遺物。
哀しみの計画に最も必要で、仁寅律音にとっての最大のデメリットを発生させる恐れがある材料。
しかし上手に扱えば最高のメリットを発生させることができる。
「シラハ……僕は誰?」
<……仁寅律音だろ>
「そう、仁寅奏じゃない。父さんには死んでもらう」
飛行機事故で見つかった遺品、母親はこれの存在を知らない。
しかしケースを見れば分かるだろう。愛した夫の物だと。
「アンハッピーバーズデイでハッピーバースデイ、僕は明日生まれる」
長かったと嘆息し、ヴァイオリンケースを自室へ持っていく。
シラハは何も言わず、仁寅律音の気が済むに任せた。
東エリア事務所に来た仁寅律音を見て、竜宮健斗がどうしたと聞く。
「実は前話した所属のことなんだけど…」
「………あ、あぁああああああああああああ!!忘れてたぁああああ!!」
大声で忘れていたことを嘆きつつ、どうしようと崋山優香に視線で助けを求める。
崋山優香は渋い顔をしており、少し待っててと言う。
パソコンに簡単に打ち込みをすると、画面を向けてくる。
そこにはテレビ電話で繋がった、南西北エリアのボスの面々が並んでいる。
『なんだ?』
『無駄な時間なら切るぞ?今病人が見つけてきたユーザーが…』
『興味津々!なになに?』
「実はさ、律音が西エリアに住んでて東エリアに引っ越したけど、所属は西が良いって…」
「前も話してたんだけど、つい忘れてて…」
『…霧乃がいたら詳しいことを決めれるが…今、会長に連絡とってみる』
そう言って一旦南エリアの通信が途切れる。
帰ってくる間に北の様子や西の様子をかいつまんで聞く。
『確かにユーザーは想像以上に多い。しかしNYRON限定で発生しているのが気になる』
「応…そういえばそうかも?」
『疑問再発。北ボスは何か意味があると?』
『…勘が混じるが、時計台を中心とした分布図ということは時計台に何かしらの仕組みがあると考えるべきだ』
「なるほどー。さすがだなー」
『貴様達が暢気すぎるんだ!もう少し危機感や頭を働かせろ!』
『戻った…聞いたところ俺達の判断に任せるそうだ』
籠鳥那岐の顔が再度画面に映り、それを聞いた竜宮健斗が多数決でいいかと聞く。
誰も反対する者はおらず、では所属移動に賛成はいるかと言う。
『大賛成派!!俺の所属が増えるってことだしな!』
「俺も律音の意思尊重かな。前のあれは演技だったらしいし」
「演技?」
「ほら律音が所属移動を言い出した日の西エリア大会…酷い光景ってなんか暗幕の計画だって」
<黒幕!いい加減覚えろ!!>
『暗幕?西エリア大会?なんの話だ?』
「そっか…北は知らなかったね…今簡単にメールで送るね」
そう言って崋山優香はパソコンを操作してメールを送る。
玄武明良は確認すると言って通信を切る。少し時間がかかるかもしれない。
籠鳥那岐は鋭い視線のまま意見を言う。
『俺はあれが演技だとしても反対だ。いまだその首謀者が分からないからな』
「じゃあ、後は明良の答えを待つだけかー。そういえば那岐は何か分かったことあるか?」
『…消失文明について少し。どうやら地底人との交流とかオカルト分類が大きい文明らしい』
「地底人!?すげー、SFみたいだ!!」
竜宮健斗がはしゃいでいる最中、玄武明良から通信が入り怒声が響き渡った。
『西!!演技とはいえ悪ふざけが過ぎるぞ!!最新器具を壊すなど…』
「怒るとこそこなんだ…」
『え、でも謝ったし、それ以降は何も壊してな…』
『しかもボス空白だと!?いい加減にも程があるぞ、反対だ!』
「あちゃー。意見真っ二つになっちゃった」
玄武明良の怒声に怯え、葛西神楽が四字熟語を忘れて喋る。
それらを無視して笑顔の裏で、仁寅律音は初めて聞く内容に衝撃を受けていた。
西エリアのボスが空白、仁寅律音はこの瞬間までその事実を知らなかった。
「あの、神楽くんがボスじゃないの?」
「あ、そういえば。表向きはボスだけど実際は副ボス。なんか、あ…黒幕をボスにしたいとか」
<やっと覚えたか…黒幕は謙虚な奴らしく、神楽だけが息巻いている様子だがな>
そこでやっと仁寅律音は葛西神楽の狙いに気付く。
西エリア所属にして計画が終わった後、自分をボスに据えるつもりだったのだと。
まさかの相手に一本取られ、もう少し用心しとくべきだったと後悔する。
しかし意見が二つに別れた今なら所属変更をキャンセルできるかもしれない。
実行しようと口を開きかけたが、竜宮健斗が無意識に先手を取る。
「でも本人の意思で移動したいって二回言ってるし、なにより律音の実力を西に入れてもいいんじゃないか?」
『…確かに合同エリア大会の時、東エリアに成績が集中して、西は冴えなかったな』
『直球図星!うぅ…頑張ったんだぞ俺達も…』
『ふん、なら勝手にしろ。俺はこれから研究のためパソコン使うからここまでだ』
北との通信が途切れ、籠鳥那岐が力の平均化を考えるなら賛成と言う。
反対がなくなってしまい、仁寅律音はそれ以上なにも言えなくなる。
葛西神楽が画面向こうで期待に満ちた輝く目をしている。
「今すぐは無理だけど、じきに所属変更でいいか?」
「ええ、かまいません」
竜宮健斗の問いに仁寅律音は少し固めの笑顔で言う。
通信が全て終わった後、仁寅律音は竜宮健斗に用事に付き合ってほしいと頼む。
竜宮健斗は快諾し、崋山優香に向かって先に帰るなーと告げる。
崋山優香は承諾した後、雨降りそうだから早めに済ませた方がいいよと二人に向かって言う。
外出れば確かに曇り空で、怪しい天気だった。
「で、どこに付き合えばいいんだ?」
「実は母さんに友達ができたこと教えたいなと思って」
なるほどと竜宮健斗は頷き、なら早く行こうぜと走りだそうとする。
そこでセイロンに道案内は仁寅律音の役目だろうと注意する。
仁寅律音はこっちですと言い、二つのヴァイオリンケースを持って移動する。
向かう先は病院。途中からバスで向かう。
着いたところで受付に行き、面会可能と告げられる。
そして二人で二階へ向かう。曇り空が黒くなり鈍い音が少し聞こえる。
個室病室の扉を開き、仁寅律音はベットで本を読んでいる仁寅董子に声をかける。
「董子さん、調子はどうですか?」
「奏さん!来てくれたのね、嬉しいわ」
竜宮健斗とセイロンは顔を見合わして驚く。
目の前にいる女性は仁寅律音を奏と呼んだ。
別人の名前を呼んで、仁寅律音は当たり前のように受け入れていた。
そんな二人にシラハが小声で説明する。
<彼女は精神を患っている。律音を死んだ夫に重ねていて、律音を憶えていない>
「…え?律音のこと…」
<彼は、律音は何年その生活を?>
<…十年近くになる>
竜宮健斗が生きてきた時間の大半、同い年の仁寅律音は別人として母親に接していたのだ。
想像もできないほどの苦しさを、竜宮健斗は胸の辺りに感じた。
その様子を仁寅董子と話しつつ、観察する仁寅律音。
今回の計画は竜宮健斗のみ。観察対象が少ない分、集中して学ぶことが出来た。
「今日は何の曲?」
「魔王を弾こうかと。どうですか?」
「奏さんにしては珍しい曲ね。確か魔王に息子の魂を奪われる父親の曲」
「ええ。では御静聴を」
そう言って仁寅律音はいつも使っているヴァイオリンを取り出す。
竜宮健斗は病室に備え付けられている椅子に座る。
演奏が始まると、雨が降り出した。しかしヴァイオリンの音は雨音に消されずに響く。
シラハなぜその曲を選んだか知っている。
この曲の魔王に、仁寅律音は父親を重ねている。
自分を奪う原因となった父親、父親から息子を奪う魔王。
今持っている感情、自分を全て込めて弾かれる演奏。
魔王が来るよ、父親が来るよ、僕をさらおうとこっちに来るよ。
僕は死にたくない、助けて父さん、助けて、助けて、助けて……………………………母さん。
苦しくて辛くて助けを求めるけど父親は気のせいだと相手にしない。自分を見ない母親。
この曲の最後には息子が死ぬ。あっけなく死んでしまう。
仁寅律音は気付かない、弾いている今も死にそうな顔で演奏していることを。
顔は蒼白で玉のような汗が浮かぶ。弦で魂を削って音を出すように。
竜宮健斗は演奏を聴くだけで呼吸が止まるようだった。
本当に魔王が傍に来て、魂をさらおうとしているような恐怖。
鬼気迫る演奏に聞き入っていた。そして理解する、仁寅律音という少年を。
怖い、助けて……………………僕を助けて。
それは叫ぶような無言の訴え。
演奏が終わると仁寅董子が笑顔で拍手をする。
少しだけ期待を込めて、仁寅律音は母親の返事を待つ。
「素敵な演奏だったわ奏さん。胸に迫る迫真の演奏」
「…ありがとう」
息を荒げながら作った笑顔で言う仁寅律音。
今持っている自分を全て注ぎ込んだ音に、仁寅董子はいつもと同じ感想を言うだけ。
ここで出そうかと考えた時、椅子が転がる音がする。
竜宮健斗が両拳を強く握りこんで立ち上がっていた。
「…っなんでだよ、律音は律音だ!!奏さんじゃねぇ!!」
「?貴方は…奏さんの新しい友達?」
首を傾げて少し困ったような笑顔の仁寅董子。
その言葉を竜宮健斗は真っ向から否定する。病人相手と言うことは頭から吹き飛んでいた。
「違う!違う違う違う!!!俺は律音の友達だ!!仁寅律音の…友達だ!!」
「だぁれ?仁寅律音って」
止めだった。仁寅律音の魂込めた音も、竜宮健斗の渾身の叫びも。
全部仁寅董子の心に響かなかった。
その瞬間、壊れた玩具のように仁寅律音が笑い出した。
「あはっ、ははははははは、あははははははははっは!!もう、いいよ。健斗くん…」
「ど、どうしたの奏さん!?」
「…律音」
幽霊のような足取りで仁寅律音は床に置いていた黒焦げのヴァイオリンケースを持ち上げる。
それを見た仁寅董子が嬉しそうに言う。
「そのケース私がプレゼントしたやつね…あら?な、んで……焦げ……」
笑顔が少しずつ固くなり、言葉途切れ途切れに紡がれていく。
まるで壊れたスピーカーのような状態だ。
「A-108便ハイジャック事件」
「な、ぁにぃ…あ、そ、そんにゃ、そんな…」
「董子さん………僕は死んでるんです。そして仁寅奏はもう一回死ぬんです」
仁寅律音がヴァイオリンケースを持ち上げた瞬間、近くて大きな雷が落ちた。
部屋が光に満たされて何も見えなくなる中、床に叩きつけられる音だけが聞こえる。
すぐに轟音で耳も聞こえなくなり、竜宮健斗は何が起きたのか把握できなかった。
病室の床には叩きつけられて壊れた黒焦げがついたケースとヴァイオリン。
半乱狂で暴れる仁寅董子を押さえるかかりつけの医者と看護婦。
竜宮健斗は何が起きたのか聞かれ、戸惑いながら答える。
病室からは仁寅律音とシラハの姿は消えていた。
全てを話し終えた竜宮健斗は制止を振り切り、病院から飛び出す。
バケツをひっくり返したような雨の中、仁寅律音の名前をひたすら呼ぶ。
雨音に消されながらも、何度も呼ぶ。仁寅奏ではない、仁寅律音の名前。
傘は持っていないので体はびしょ濡れで、靴の中まで水が入り不快だったが走り続けた。
走って走って、公園で同じようにびしょ濡れで佇む仁寅律音をようやく見つけた。
「律音!!」
「…………………ああ、見つけてくれたね」
長い沈黙の後、仁寅律音は口を開く。
雨のせいで表情は見えず、ただ体を冷やしていく。
「律音、どうして…何が…」
「西エリアの黒幕、僕なんだ」
竜宮健斗の言葉を遮り、何でもないように仁寅律音は言う。
驚きで頭が一瞬真っ白になる中、仁寅律音は言葉を続ける。
「西エリア大会の時に怒りを見せてくれてありがとう。いい参考になったよ」
「り、おん?」
「しかし演技にするとか、神楽くんも役に立たないし詰めが甘いね。期待外れだよ」
<本気か?お前は本気でそんなこと言ってんのか?>
「……僕ね、君のこと友達と思ってない。正直に言えば……実験動物だ」
雨以外で体が冷えていくような感覚が竜宮健斗を襲う。
知人や人間ですらない、実験動物という言葉が胸を抉る。
最近は作られた笑顔以外の笑顔も見れたと思ったが、それが本当か分からなくなる。
「合同エリア大会で喜、そして母さんの所で哀が観察できた。あとは楽を学んだことから応用するだけ」
「な、んだよ、それ?」
「…僕ね、感情がない、というか自分が分からないんだ。だって母さんのためにずっと仁寅奏、父さんだったから」
「十年近く…って、シラハが言ってたけど…」
「そう。僕は母さんにとっていらない子で、必要とされてたのは仁寅奏な僕」
<何言ってんだ?お前は仁寅奏という人物じゃないだろう!!>
「じゃあ……僕は、だぁれ?」
雨音に消えそうな声なのに、竜宮健斗にははっきり聞こえた。
さらに雨が酷くなり街灯が点滅し始める。
あまりのどしゃ降りに通りかかる人物はいなかった。
「律音」
「そんな奴いないよ。十年前に母さんに殺された」
<奏ではない。断言する>
「それはさっき殺した。母さんの目の前で」
「っ……じゃあ、なんて呼べばいいんだよ!!?律音!!」
「僕を死人の名前で呼ばないでっ!!!!」
シラハすら初めて聞く仁寅律音の体震わせる怒声。
竜宮健斗はその声に萎縮し、次の言葉を出すことが出来ない。
「…さよなら………」
「あ、っ…」
名前を呼びたかった。でもどの名前も呼べなかった。
去っていく背中を追いかけられず、ただ空に手を伸ばす。
しかしその手も届かない。届けることが出来なかった。
「一つだけ。僕のために怒ってくれて…………ありがとう」
雨は止まない。




