第八話 白兎亭
翌日。教授は客室の寝具の上で心地よい目覚めを迎えていた。
「う……む、良く寝たわい。お?」
軽く頭を振るが、寝覚めの割にはっきりとしている。何より……
(二日酔いも無いか。結構強そうな酒じゃったが、これも精霊の加護というやつかの)
こりゃしめたもんじゃと笑いながら教授は支度を整える。とはいえ、彼の私物は少ない。
白いシャツにボウタイ、スラックスという服装と、手帳、財布、キーホルダーのついた鍵……そんなものだ。
鏡(ガラスの裏に墨を塗った程度のもののようだ)を見て白髪頭を軽く撫でつけ、彼は階下に向かった。
「おや、ウェルナーシュ。早いの」
「お互いにな。おはよう教授」
ウェルナーシュは昨日と同じ卓につき、何かを飲んでいた。興味津々の態で覗き込む教授。
「茶だ。西の方で取れるものらしいが……何茶と言ったか」
その会話を聞きつけたか、奥から出てきた男が笑いながら言った。
「スキナ茶です。おはようございます、お客様」
「やぁおはよう。わしも同じものをもらえるかね」
承知しました、と厨房に戻っていく男を見ながらウェルナーシュは顎で男を示した。
「彼がこの宿の主人、デッシュだ。町の話などは彼に聞くといい」
「詳しいのかね」
「これまで町の事を尋ねて、答えが返ってこなかった事は無いな」
(ならば、子爵の話も聞いておいて損はないかの……)
朝日に照らされた店内をぐるりと見回す。
板張りの床と壁、カウンター席、彼らのついているようなテーブル席、二階に宿の客室と、西部劇のバーのような作りになっている。
(惜しむらくは、賞金首のポスターがないことじゃな)
紙のない世界ではそれすら贅沢な話だ。と、デッシュが盆の上に杯を載せて戻ってきた。
「お待たせしました。スキナ茶でございます」
「ほうほう」
卓に置かれた白い杯と、そこに並々注がれた液体を覗き込む。
杯は昨日、羊乳酒を注ぐのに使っていたものと似たものだ。日本の浅い湯飲み茶碗のような形だが、磁器ではない。陶器か、それに類するもののようだ。白い色は土の色だけで、釉なども使われていない。
茶の色は……茶色い。はて、ほうじ茶みたいなものかと思って鼻を近づけるがどうも違う。
「あー……茶と言ったか、ご主人。どんな茶葉を使っておるのかね?」
日本人が良く飲む緑茶は煎っただけで発酵していない茶、英国人が愛してやまない紅茶は完全に発酵している茶、烏龍茶のような中国茶は半発酵茶だ。が、コーヒーより茶を良く飲むとはいえ、教授はそれほど詳しい訳ではなかった。
「は? ……あぁ、そちらの茶ではありませんで」
茶ではない? 困惑する教授に、ウェルナーシュが助け舟を出した。
「デッシュ、見せてやればいい」
「はぁ……」
厨房へ戻るデッシュ。微かに首を傾げていたようだが、ここらではメジャーな飲み物だからだろう。
「ニホンコクではどうだか知らないが、ここらでは湯で淹れる嗜好品は全て『茶』だ」
「……炒った豆もタンポポの根も、みんな茶か!」
風俗というより、習慣の違いだった。教授は手帳を開いて細々とメモを取っていく。
そう言えば、と教授は思い至った。
(蒸気機関車をしめす『汽車』という単語を、つい電車に対して使って笑われた事があったな……)
おそらく喫茶の習慣が先にあり、後から入ってきた似たようなものが全て「喫茶」とまとめられてしまったのだろう。教授はそう納得して手帳をしまった。
「葉っぱで淹れる茶も、存在はしているのだな」
「ありますが、あれは貴族様が飲むものでして……こちらでございます」
デッシュが戻ってきた……が、後ろ手に何か持っているようだ。
「さ、ごらんください。これがスキナ茶の、元でございます」
彼がごろりと卓上に置いたもの。
それは煉瓦の塊であった。
「これを少しずつ削って、溶かして飲むのがスキナ茶でございまして」
「いやいや、待ってくれ」
教授は煉瓦と白い杯を交互に見比べ、手に取った杯の中身を一気に飲み干した。
……しょっぱい。それと海草のような味が……
「西の海岸地方では海草が積み重なって出来た地層があるそうでして。これは、その土を掘り出して固めたものです」
「うぅむ……泥の味と、よくわからん海草の味が……わかった。ありがとう」
どう致しまして、と言い笑いながら厨房に下がるデッシュ。ウェルナーシュは知らん顔でちびちびと「スキナ茶」を飲み続けている。
「…………うまいか?」
「健康にいい」
●
「えぇ、役場は町の中心にあります。徴税吏様をお尋ねなら、一階の奥におられるかと」
朝の一番忙しい時間を終えた頃を見計らい、教授はデッシュに役場の場所を尋ねた。
実のところ、まず調理するところや香辛料、台所用品などを見たいところだったがぐっと堪え、懸案事項から片付けることにした。
「中心か。目印はあるかね。行けばわかるかの?」
いい暇潰しが出来た、とばかりにデッシュは隣の卓から椅子を引っ張ってきて座る。ちらりと教授の無表情な同行者の顔を見て、
「そもそも、ウェルナーシュさんがご存知かと思いますが?」
「あぁ、知っている」
「知ってるならそう言わんか!」
呆れたようにして怒鳴る教授に、ウェルナーシュは不思議そうに首を傾げた。
「二度手間ではないか。昨日、夕方に行ったところで閉まっていただろう?」
「それはそうじゃが……」
好奇心の塊のような教授としては、「まず」見ておきたかったのだ。それを察したエルフの男はわずかな笑みを浮かべた。
「悪かった。これからは先に言うことにしよう」
「いやまぁ、二度手間というのは確かにそうじゃしな。怒鳴って済まんかった」
そんな二人のやりとりをにやにや笑いながら見ていたデッシュは言った。
「夏の入りだってのに徴税吏様に用とは。ろくでもない用事ですかね」
「ちと、聞きたい事があっての……おぉそうじゃ」
今思い出したとばかりに手を打つ教授。
「この町はオルデン子爵の城下町だそうじゃな。子爵の人となりについて、何か知らんかね?」
デッシュは笑ったが、あまり好意的な雰囲気の笑いではなかった。
「城下町と言えますかね。確かに、当初はオルデン子爵家の城下町として始まりましたが……」
それも先代オルデン子爵の頃までだったらしい。現子爵は王都に居を構え、領地には代官を派遣するだけで領地の経営にはあまり熱心ではないという。そもそも今の城も無人で、不審者が立ち入らないように門番がいるだけ、という状況なのだそうだ。
「子爵が関心があるのは領地じゃない。領地から上がる税だけなんじゃないか……もっぱらの噂ですよ」
「人気のある御仁ではなさそうじゃの」
教授は脳裏にまだ見ぬオルデン子爵をイメージした。
良く言われる比較に、「ケチ」と「欲張り」がある。簡単に言えば、ケチは自分の金を出すのを嫌がり、欲張りは他人の金を欲しがる。
オルデン子爵は、例のデクセン村の一件を見るに欲張りのほうらしいが……
「あぁ、それで徴税吏様ですか。なるほど」
「む? 何かご存知か」
デッシュは満面の笑みを浮かべ、いたずらを思いついた子供のように瞳を輝かせて教授に耳打ちした……。
う・ん・ち・く(笑)
鏡はガラスの裏面に銀やアルミをメッキをしたものが使われますが、現在のように安価に化学薬品を使えるようになる以前、中世ではメッキで作られた鏡は高級品で、一般家庭ではガラスの裏に墨を塗っただけ、というものが使われました。
タンポポの根から作ったコーヒーというのは実在しました。大戦中のドイツの軍記などで良く出てくる「代用コーヒー」がそれです。味はまぁ、煮詰めた麦茶のようなものだったそうです。
※感想欄でご指摘頂きましたが、現代日本においてもタンポポコーヒーは普通に販売しているそうです。ご指摘ありがとうございました。
また茶葉を煉瓦状に固め、煎れる時に削って使う「団茶」というものも実在します。そちらは聞いたことがあるだけなので、味はわかりませんw
※当初「煉瓦茶」としていましたが、ご指摘を受け「団茶」に変更させて頂きました。煉瓦茶ってマイナーだったのか……ご指摘ありがとうございました。