第六話 ニホン
「なんてことだ……!」
デクセン村長は頭を抱えて呻いた。
無理もない。戦争難民として流れ着き、ようやく一村民として生きていける道筋がついた途端の悲報だ。いや、彼一人だけの事ではない。百人近い村民に何と説明するのか……
鷲塚教授はその悲嘆を見ながら、別の事を考えていた。
(知らぬはずはないな……)
その土地を分け与えた者が、ここが氷河の下にあり、また氷河が押し寄せるかも知れぬ土地である事を、知らないはずが無いのだ。
もし知らなかったとしたら? そもそも、こんな辺鄙な土地を知っているはずがないではないか。
たかだか数年前の事なのだ。十年も経っているならいざ知らず……。
(厄介払いか、単なる楽観主義者か……どっちじゃろうか)
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昼食は重苦しい雰囲気の中で始められた。
黒パン、鳥らしき肉の入ったシチュー、山で採れた山菜や果物といったメニューを見て、教授はそれが何処で取れたものか、どうやって捕ったのかと夫人(紹介されるとやはりそうだった)を質問攻めにした。
ウェルナーシュは黙々と食べて続けて一言も発さず、村長はといえば先ほどの笑顔が嘘のように落ち込み、匙すら手に取らない有様だった。重苦しい雰囲気は、主に村長一人から発していた。
「これは……根菜ですな。畑ですかの」
「え、えぇ。霜にも強いし、栄養もあるそうでして」
夫人は夫の様子が気になるようだが、ホストとして客人を放り出すわけにもいかない。
「なるほどなるほど、芋のようなもんじゃな……。
シチューに入っているのは鳥ですか。家禽ですかな?」
「い、いえ、そちらは」
「お客人!」
村長だった。勢い良く立ち上がり、教授の席まで回りこむとがばっと膝を突いた。
「その見識、是非この村を救うのにお役立て頂けませんか! この通り!」
両膝を付き頭を垂れた。教授には村長の行為がどれだけ重いのかはわからなかったが……その意気は充分に伝わった。
鷲塚教授を鷲塚教授たらしめている好奇心と義侠心も、それを後押しする。
「うむ、判っておる。まずは詳しい話を聞こう……ほれ冷めるぞ。食いながら話そう」
村長にも、やっと笑みが戻った。夫の豹変におろおろしていた夫人もほっと息をつき、台所へ下がる。それを横目で見ながら、村長も自席についた。
「まず……三年前、この村の開拓は誰が許可を誰が出したのかね?」
村長はシチューをかき混ぜながら記憶を探った。
「このシューリッツア王国の貴族、オルデン子爵様です。このあたりの土地は子爵様の土地でして」
「……ほほう、このあたりを治める貴族がのう」
(ならば知らぬはずはないのう……確信犯か)
「あー、その当時、難民に開拓をさせると、そのシューリッツア?王国から褒美が出るとかいうことは無かったかね?」
「良くご存知ですなぁ……はい、確かにそんな話を聞いております。一人いくらとか」
(それにしても……氷河がまた前進してくるとは思わなかったのか? 楽観主義者なのか)
「その子爵について、詳しい人となりをご存知かの?」
「いえ、私などはとてもとても……村の開拓許可を頂いて以来、一度もお会いしておりませんし」
こんな辺鄙な村にいると、なかなか麓の話も聞けません。村長は笑った。
「あぁ、あの方なら詳しい人となりをご存知かもしれません。
この村を担当する徴税吏の、リンデル様ですよ」
「ほう、その男はどこに行けば会えるのかね?」
興味津々だった。多くの物を知っているのはそうだが、この人は自分が知らない物がある事が耐えられないんじゃないか……デクセン村長はぼんやりとそう思った。
「この村にはおられません。麓の町の役場におられるはずですよ」
「ほうほう。町ね。それは是非拝見したいもんじゃ」
「おや、麓の町を通らずにここまで来られたのですか?」
村長の不思議そうな声を聞き、鷲塚教授とウェルナーシュは顔を見合わせて苦笑した。
「正直に言うがの。わしゃ何処から来たのか良くわからんのじゃよ」
ウェルナーシュの顔を見るが……向こうも首を振っている。
「峰川大学……あぁ、まぁ偉い学校じゃが、そこで学問を教えておっての。授業が終わって……気が付いたら森に倒れとった」
「ほぉ、お偉い先生様でしたか。どちらのお国で?」
「日本国じゃ」
今度はデクセン村長とウェルナーシュが顔を見合わせた。
「私はユグラス生まれでしてね、あそこは交易が盛んでしたので色々な国の名は聞きますが……ニホンコクという名は初めて聞きましたな」
「私は森から出ないので、そもそも知らないが……ニホンコク」
二人は首をひねっていた。
鷲塚教授は新鮮な……いや懐かしい驚きを思い出していた。かつて若い頃に踏破した中央アジア、その山岳部族の反応を思い出したのだった。
まだトヨタもソニーも有名ではない頃、「ニホン」の名には皆こういう反応だったのだと。
……つまり。
(わしは日本が無い世界か、日本が知られていない時代にいるということか……)
助けを求めるように見上げた天井には、教授を救う方程式は描かれてはいなかった。