第五話 渓谷の真実
「何故かね?」
鷲塚教授は心底不思議そうに話しかけた。
渓谷を登り始めて一時間。その間無言だったが……教授は同行者にようやく話しかけた。
「ウェルナーシュ、別に君はついてこんでもええじゃろうに」
そう、エルフの男ウェルナーシュも、教授の後について黙々と渓谷を登っているのだった。
彼は肩をすくめた。
「私はあなたを助けた。その後で、興味が沸いた」
「ほう、興味?」
ウェルナーシュは緑色の瞳で、じっと鷲塚教授の全身を見回した。
「あなたは精霊に好かれているようだ。……人間が、そこまで精霊に好かれているのは見たことがない」
「精霊。それはどんなものかね。……あぁついでだ、休憩にしよう」
さっさと岩の上に座り込む教授。さすがに一時間歩き通しは、六十八歳には堪えるようだ。
「祖先の霊とかかね。それとも自然物に宿るものかね?」
「色々だ。祖先の霊は、まず霊廟から出ることはないと思うが」
ふむふむと頷き、教授はズボンのポケットを漁った。……あった。落としてはいなかったらしい。
彼はかなり使い込んだ黒革の手帳を開き、手短にその話を書き込んでいく。
「で、わしにその精霊が……憑いてるのかね。自分ではよくわからんが」
「そうだ。自覚はないか? おかげで身体能力はかなり上がっているはずだが」
教授は首をひねる。思い当たる節はあった。
(自慢じゃないが、わしゃ象牙の塔の住人で体力には自身がない。ところが……)
あの森で目覚めて以来、ろくな休憩も取らずに歩き詰めだがフットワークは軽く、疲労も軽い。
……まぁ三日後に筋肉痛が来るのかも知れないが。
それを伝えるとウェルナーシュは頷いた。
「それだ。あとは傷の直りが早くなったり、病気にかかりにくくなる」
「ほお、そりゃ便利なもんじゃな。……で、それは人間にはあまり無いことだと?」
ウェルナーシュは一瞬、ほんの一瞬だが視線を彷徨わせた後に言った。
「……そうだ。本来、精霊の『祝福』は妖精たる我等エルフやドワーフなどに与えられるものだ。
正直に言おう。私は困惑している」
「それでわしから目が離せずここまでついてきた、と。苦労症じゃのう」
大口を開けて笑う教授に、ウェルナーシュも苦笑した。自覚があるのかも知れない。
「ふーむ……わしの来歴に関係しているのかも知れんの……おっ」
何と無く視線を渓谷に向けた教授は素っ頓狂な声を上げた。
「あれじゃ、目的のものは。……川原に下りるぞ」
●
結局、二人は昼前にはデクセン村へと戻ってきた。昼餉を作っているのだろう、家々からはかまどの煙が立ち昇っているのが見えた。
川原へ降りた教授は「なにか」を見つけたらしい。
ウェルナーシュにもそれはわかった。それだけは。
だが「なにを」見つけたのか、皆目検討も付かなかった。川原には村のあちこちにあるような岩のかけらが積み重なっていただけなのだが……。
村長宅でも昼食の支度中だった。さきほど村長とウェルナーシュがいた居間とそれに続く台所では、デクセンにそっくりな女性(おそらくデクセン夫人だろうと当たりをつけた)と、下働きらしい女性達が忙しそうに立ち働いていた。
その居間の隅で、身体をちぢこめるようにして座る村長を見つけた鷲塚教授はちょいちょいと手招きをして外に出た。
「いやこれはお恥ずかしいところを……用事はお済ですか」
「それなんじゃが……人払いを出来るところはあるかね。あまり周囲に聞かせたくない話じゃ」
教授の表情を見たデクセンは、笑顔を引き締めた。
「そうですか……。では私の書斎へどうぞ」
彼らは再び村長宅へ入り、朝方まで教授が寝かされていた部屋の、隣の部屋へ入った。
書斎ということだがそれほど本が置かれてはいない。ざっと見ると「紙」自体が存在しないようだった。
「紙」登場以前の記録媒体というと最初に浮かぶのは木、竹、パピルス、羊皮紙だが、ここでは羊皮紙が使われているようだ。
教授は棚に無造作に置かれた羊皮紙の束を手に取りたい欲求に耐えながら、勧められた椅子に腰掛ける。さすがに疲れたのか、ウェルナーシュも席に着いた。
「ここなら大丈夫でしょう。外はあの騒ぎですし。……さて、聞かせたくない話、でしたか」
デクセンは身を乗り出して尋ねた。村長としては当然の事だろう。
「まず、この村の土地が痩せている理由についてじゃ」
「ほう……お聞きしましょう」
「この村が拓かれてから三年と言っておったが……その間、とんでもない寒波などは無かった。それどころか暑いくらい。そうじゃな? 」
村長は軽く頷いた。
「そうですね。ここだけじゃありません。何でも大陸の西半分はそんな有様と聞いてますが」
村長は不思議そうに教授の顔を見た。旅人のようだったが、一体何処から来たのだろう。そんな事、聞くまでもないじゃないか……。
「この村を拓く時、川原に岩のかけらが積み重なっておったろう。堤防のように列を成して」
「……ほほう、良くご存知で」
それを聞き、教授は溜息をついた。この村は長くはあるまい。
「モレーン。堆石というやつじゃ」
「何ですって?」
村長はウェルナーシュに顔を向けるが、彼も初耳だとばかりに首を振った。
「この土地は、おそらく数年前まで氷河の下にあったんじゃよ」
……氷河。降り積もった雪が万年雪に、そして氷になり、一つの谷を埋める現象だ。
川と違って落ち葉のような堆積物が積もる訳ではないし、上流から栄養分が流れてくる訳でもない。氷河の下にあった土地なら、痩せていて当然と言える。
「それを証明するのが、その、モレーンだと?」
「氷河というものは動かないように見えるが、実は年間数センチ……あぁこれぐらいずつ動いているもんなんじゃよ」
教授は人差し指と親指の間に隙間を作って見せた。それを見た二人は目を丸くする。
「まぁ信じられないのも無理はないがの。
……そして氷河の上には谷の両側からばらばらと岩が落ちてきたり、氷河自身の重みで岩を削ったりする。そうした岩のかけらが、氷河の終着点にたまるんじゃ。
それがモレーンと言われるもんでな」
さっき上流に見に行った時、川原で積み重なった岩のかけらを見ていたのはそれだったのか。
ウェルナーシュは得心して頷いた。筋は通っている。
「上流にあったモレーンは崩れておらず、それほど古いものではなかった。
またこの村にもモレーンらしきものが崩れずにあった。
氷河がそこまで後退しているのは暑い陽気が続いているせいじゃろう。
ということはじゃ……」
村長はきょとんとした顔で教授の言葉の続きを待った。
「おそらく、寒い冬が続けばこの村は戻ってきた氷河に押しつぶされる。そういうことじゃ」