第三話 月の光たち
焚き火のはぜる音が聞こえる。最後に聞いたのはいつの頃だったか。夜空の星がまだ綺麗な頃だったか、それとも砂漠の……
目が一気に冴えた。跳ね起きる……また、横になっていたらしい。
「気がついたか。……私の言う事、理解、いやわかるか?」
はぜる焚き火の向こうに男がいた。耳は相変わらず尖ったままだが、もう弓は持っていない。
男は敷き布の上に座ったまま、ゆっくりと教授に話しかけた。
「どうだ。導師どもと違って技は苦手なのだ。成功しているのか」
「お? おぉ、日本語が通じておるではないか」
教授は焚き火ににじり寄るようにして座りなおした。
「さっきの言葉は何語かね。聞き覚えの無い言語じゃったが」
「何語……標準語で喋ったつもりだ。硬いと言われるが、もとより我らの言葉ではないのでな」
ふむふむと鷲塚教授は頷き、はてと首を傾げた。
(見たところ西洋人のようだが……標準? 英語どころかフランス語でもないようだったが)
「驚いたな。私の技がよほどうまく掛かったのか、すでに意思の疎通に問題は無さそうだ」
男は呟いた。無表情なので本当に驚いているのかはわからない。
(年の頃は二十代後半……三十代には入っておるまい。青く見えるほど白い肌といい、緑色の目といい、西洋人……北欧系か? それにしても流暢に日本語を操るの)
そして同じ男性とは思えぬほどの美貌。そして尖った耳。
「大抵のものは馴染むのに時間が掛かったり、難しい単語が理解できなかったりするのだが。ふむ」
「あー、それはそうと」
教授はごほんと咳払いをして続けた。
「日本語が通じるなら話は早い。ここは何処かね。明日は講義がないとはいえ、峰川の自宅に戻りたいのだが」
「ミネガワ? 聞いた事がないな」
鷲塚教授は重々しく頷いた。いち地方都市に過ぎない峰川の知名度などそんなものだと、移り住んでからの四十年で身に染みている。
「とりあえず、ここが何処だか教えてくれんかね」
周りは鬱蒼とした森、学生諸君がろくに獣道すらないような場所に、人間一人をどうやって運んできたか……事の次第を説明してくれたらなら単位をやってもいい気分だった。
「ここか。我等エルフの住む森だ。名前は特に無いと思う。近くに人間の開拓村があるが」
「……ふむ」
(なかなか演技派ではないか。学生諸君の知り合いの俳優か何かか……)
「どちらが近いかね。エルフの里と開拓村と」
男は軽く眉をひそめた……無表情でいるつもりだったのだろうが、教授にはそう読めた。
「我等の村に人間が入るのは歓迎できない。開拓村へ降りるのだな」
「判った、そうしよう」
教授の言葉を聞き、男……自称エルフは立ち上がり、焚き火に土をかけ始めた。
「案内する。……早い方が良かろう。霧が出そうな気配がある」
教授も革靴が汚れるのを気にせず土を蹴り、焚き火に被せていく。
ふと、彼は気が付いた。
「そうそう、礼を言っておらんかったな。
わしは峰川大学民族学教授、鷲塚宗治じゃ。
気絶しとったわしを介抱してくれたようで、礼を言う」
腰を曲げ、頭を下げると男はやや狼狽したように居住まいを正した。
「私はティルグナーシュの子、ウェルナーシュ。
森に住む者として、当然の行いだ。気にしないで欲しい」
「ウェルナーシュか。村までよろしく頼む」
(さて、この演技もどこまで続くんかのう……)
鷲塚教授は声もなく呟いた。
……それから、懐中時計を信じるなら三時間。二人は暗闇の中、ろくに下生えも刈られていない森の中を歩き続けた。
教授は不思議な事に気づいていた。軽い疲労感は感じるものの、目立った疲れが感じられないのだ。
御年六十八歳、体力というより人生の下り坂にいるはずの老人が、これほど疲れないはずがないのだが……
鷲塚教授は不審気なうなり声を上げた。
「うーむ……」
(気絶している間に怪しい薬でも盛られたか……疲労がポン取れるとか言う奴とか)
その声を聞きつけたらしい。ウェルナーシュは立ち止まって教授の体をぐるりと見回した。
「まだそれほど疲れてはいないようだ。村はあの丘を越えれば見えるはず」
(……こやつが盛ったんかのう……)
さりげなくシャツの上から腕をさすってみたり、鼻に何かついてないか確認するが、異常はない。
そうこうするうちに丘を登り終え(革靴履きだしそんな健脚でもないはずだが、と教授はまた首をひねった)、二人は眼下の村を見下ろした。
「村長の名を取って、デクセンと呼ばれている村だ」
「………」
それどころではなかった。
ここは一体、何処なのか。
教授はふいに、自分の身体が震えていることに気が付いた。それはそうだろう。
……眼下に見えるみすぼらしい寒村など、なんら問題ではない。
あれは……
頭上に輝く、
二つ見える月は、
いったいなんなのだ!?
(これは一体……学生諸君、こりゃいたずらが過ぎるじゃろ……)
教授は力なく笑い……そのまま脱力して座り込んだ。
慌てたエルフの男が村長の家へ、半ば放心状態の教授を運び込んだのはそれからさらに一時間ほど後の事であった。




