第二話 夜の森
星が、綺麗だった。
こんな星空を見るのはどれくらいぶりか……最近は峰川大のあたりも空気が……
「なんじゃと!?」
跳ね起きると頭に木の枝が引っかかり、撫で付けた白髪がぐしゃぐしゃと乱れる。
「どうなっとる……わしは、講義を……」
(そうだ、講義を終えて……終えて……)
「ダメじゃ、思い出せん。いったい何が……」
夜のようだった。教授は懐から懐中時計を取り出すが、時刻は昼の2:05を指している。
講義が二時で終わったところを見ると、五分でここに移動し、夜になったということに……
(えぇい、そんなはずがあるか。こりゃ学生諸君のいたずらじゃろう)
そう考えると、鷲塚教授はにやりと笑った。邪悪な笑みに見えるが、心底楽しんでいるのである。
何しろ学生運動華やかりし頃のゲバ学生すら「元気があってよろしい」で済ませたような人物である。タチの悪いジョークや遊びが人一倍大好きなのだ。実に元気な老人だった。
(どうにかしてわしを眠らせて、ここに寝かせて、時計にも細工をしたか。ほ、手の混んだ事よ)
わくわくしながら服に付いた落ち葉を払って立ち上がり周囲を見ると、鬱蒼とした林……いや森の中のようだった。
ざっと見た限り、光は森のわずかな隙間から差す星明りと月の光のみ。割と新しい倒木によって出来た空間のようだった。
「落雷でもあったか……む、断面は湿っておる。倒れたばかりか」
落雷の割には焦げた臭いもせず、雨が降った形跡もない。好奇心は沸くがぐっとこらえ、周囲をさらに見回してみるが……人工的な明りや建物は姿かたちもなかった。
「ふぅむ」
足元の土を軽く蹴り、様子を確かめてじっとその場に立ち、
「こちらが低いか」
歩き出した。低い方へ低い方へ歩いて行けば、そのうち人里に着くだろうという考えだ。
(峰川大の近くならいいんじゃが……まぁ明日は講義はないしの。まったく老人にこんな運動をさせるとは……)
とめどなく考え事をしている教授の耳が、何かを捉えた。
「うん?」
聞き漏らした事に気づいた彼は耳を澄まし、それが人の声らしい事に気が付いた。
(学生諸君かのう。わしがいない事に気づいて慌てたのかの)
笑みを浮かべた彼は、ゆっくりと元来た方へ引き返すが、倒木のあたりに人影は無かった。
足音は殺したつもりでも、足元は落ち葉に枯れ枝、雑草で一杯で、結構な音が出ていたから……
(気づいて逃げられたか? この暗闇で鬼ごっことは面倒じゃの)
教授は軽く溜息をついた。革靴で足場の悪い森の中をうろうろと移動しているのだ、六十八歳の老人には堪える。
(さてどうするか……)
倒木に持たれかかるようにして身を預けると、後ろから「声」が掛かった。
「む……。ん?」
鷲塚教授は振り向いて、困惑した。
(なんじゃ……)
そこに立っていたのは革で出来た服をまとった男だった。毛皮、ではない。なめした薄手の革で作られた服のようだった。
洒落者なのか、鮮やかな飾り紐をあちこちに下げ、頭に巻いた布には鳥の羽を指しており……
教授が困惑したのは3点だった。
男の使った「言葉」は教授には聞きなれないものであり、
男は弓を構えて矢を教授に向けており、
男はとんでもない美男子で、耳が尖っていた。
男はきつい口調で何かを短く叫んだ。が、教授の困惑が深まるばかりだ。
「いや、何を言っとるのかさっぱり……えぇい何語なら通じるんじゃ」
ごほんと咳払いをすると、手始めに日本語、続いて留学で鍛えたクイーンズ・イングリッシュ、いやいや覚えさせられたロシア語、役立つと思って覚えた北京官話と福建語、専攻のウイグル語やモンゴル語、チュルク語、タジク語等々で話しかけてみるが、反応なし。
むしろ、相手も困惑している様子だった。
「うーむ、通じんな……どうしたらいいんじゃ」
(だいたいこの耳。仮装か? トールキン教授の小説に出てきたアレのようじゃが)
ちなみにジョークの好きな教授はかつて学生達に頼まれ、大学祭の学生劇「フランケンシュタインの怪物」にフランケンシュタイン博士役(序盤しか登場しな いちょい役だ)として登場し、受けを取ったこともある人物だった。その時の「怪物」のマスクは狩猟のトロフィーよろしく、研究室の壁に飾られている。
男は渋い表情していた……が、意を決したのか弓を下げ、教授に歩み寄る。
「お、おぉ。通じたのか。人類皆兄弟じゃよ、話せばわかる!」
男は歩きながらぶつぶつと何かを唱え、微かに光る指先を教授の額に突きつけ……
再び意識が途切れた。