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第十二話 一ヵ月後。

 ひと月が経った。季節は夏の盛りとなっていた。


 教授は「役場付き」という役職を貰い、役場二階に居室を与えられてリンデルから様々な懸案について相談を受けるようになっていた。役職が付いたことで手当てを貰えることになり、教授はウェルナーシュに用立てて貰っていた金銭を返したり(向こうはそんなつもりはなかったようでひと悶着となった)、仕立て屋で談判して自分のシャツやズボンに似たものを作らせたりした。


 教授が着ていた白いカッターシャツと黒いスラックスは、「良く似たもの」はシューリッツア王国にもあり、仕立て屋でも作られている。だが襟の形やボタンの配置など、教授が持ち込んだものは数段洗練されている事もあり(そもそも素材からして化学繊維だ)、仕立て屋は苦心して複製してくれたようだった。

 仕立て屋はその新しいデザインの服を売り出しに掛かっているようだが、それはまた別の話。

 

 さて初めて役場を訪れた際、ウェルナーシュは「役人もそれほどいない」と言っていたのも当然で、オルデンの町を含めた子爵領の大半での役所仕事は、リンデルとその下に付く下級役人二人、兵士四人の計七人で振り回しているというのだ。

 それでも仕事が回るのは何故かと言えば、役場の仕事量の少なさだった。


 第一に戸籍の管理。地球では長らく宗教(キリスト教や仏教)がその役を担っていたが、どうもこちらの世界では宗教観が希薄で大きな組織を作る宗教は存在しないらしい。聞くところでは多神教があるようだが、それも土俗信仰と混ざっていたりと存在感の薄いこと夥しい。

 なので出生や死亡、結婚離婚といった届けは役場に届けることになり、その受付や管理を行う。


 第二に揉め事の収拾。なのだが、大抵の揉め事は村長・町長レベルで治めてしまい、どうにもならないような話が役場に持ち込まれる事になる。また役場で解 決出来ないレベルの揉め事の場合、子爵の裁可を仰ぐか王国政府の介入を要請することになる……幸か不幸か、政府介入は今まで一度もないそうだが。


 第三に税。ありがたいことに戸籍も役場が受け持っているため、税の算定自体は正確な数字が出せる。が、国から良く分からない税金を掛けられることがあるの で、現場が混乱する事はままあるようだった。秋の収穫シーズンが一番忙しくなり、役場総出で徴税に乗り出すのだそうだ。大らかな話だ。


 仕事は大雑把に言ってしまえばこんなものだった。現在地球の役場と比べれば、仕事量は半分以下に違いない。

 何故かと言えば、こちらの世界の役場が住民に対して「サービス」……保険や年金、公共工事などの「福祉」を行っていない、という点に尽きるだろう。それらの許可や申請、審査の業務があれば、到底七人で回るはずもない。


 薄暗い執務室を歩きながら講義する教授に、メモを取るリンデル。

 

「保険に年金ですか。あれば理想ですが、財源がないと難しいですね」


「その通り。まぁ、そんなものもあるということじゃな」


 地球で医療保険が一般化したのは、当時の先進国であるドイツですら十九世紀の終わり頃だ。封建社会らしいこの国に根付くには時間が掛かるだろうし、国庫に掛かる負担も大きいはずだ。


「それと……えぇ、こりゃ何と読むんだね」


「人名ですね。ハーツェル大臣ですよ」


 ふむふむと教授は手元の羊皮紙に書き込んでいく。

 教授は執務の時間中、ほとんどリンデルの執務室に入り浸るようになっていた。リンデルから様々な質問や相談を受けるからであり、また教授がこちらの文字を覚えるための教師役としてもぴったりの人物だったからだ。


 リンデルはこの世界の女性の知的水準からすると珍しいほど、高度な知識と知性を持った女性だった。特にこの国では教育水準が低いらしく、男性ですら読み書きはともかく算術は特殊技能に近いのだという。


 デクセン村長は読み書き程度は出来る(リンデルへの紹介状を書いたことからもわかる)がこの国で覚えたものではなく、生地であるユグラスで覚えたものら しかった。ユグラスは交易が盛んな国だそうで、農民でもある程度の読み書き算術を覚える事で商人となり、土地に縛られる生活から抜け出す者もいるとい う。……成功者は、常に少数であろうけど。


「今回の件ですが、子爵からハーツェル大臣ご臨席の上で詳しい説明を聞きたいと」 


「ほう。そりゃ大事になってきたの」


 教授は嬉しそうに手をすり合わせた。

 初めてこの町を訪れてから一ヶ月。教授は精力的に動き回った。鍛冶屋のジェンギンのところへ幾度と無く訪れては農具の出来を相談し、放牧地を訪れては羊飼いたちに混じって羊を追った。町の外れを流れる川で子供に混じって魚を追い、デクセン村に戻って麦の相談をした。

 白兎亭で羊乳酒をかっ食らい、デクセン村長相手に麦酒を掲げ、ウェルナーシュと共に蒸留酒を空けた。


 一ヶ月前、教授がリンデルに告げた「セールス・トーク」は現実のものになりつつあった。


「明日にはウェルナーシュ氏が里から戻るんでしたね。それに合わせて王都へ出発すると……予定に変更はありませんか」


「うむ。大丈夫じゃ。……馬車を使うと言っておったが」


 リンデルは頷いた。荷馬車ですが、と彼女は薄く笑った。


「今は車屋に預けてあります。明日の朝には役場前に回ってきますよ」


「ふむ。どんな馬車が出てくるか、今から楽しみじゃの」

 

「……そういえば、馬にも乗れると伺いましたが?」


 教授はからからと笑い声を上げた。


「羊を追った時の話かね。いや懐かしかったわい」


 かつて教授が若かりし頃、中央アジア踏破に挑んだ時に習い覚えたのが騎乗だった。

 さすがに車のある時代ではあったが、天山山脈の奥地で故障やガス欠に見まわれでもしたら目も当てられない。そこで馬や駱駝ラクダと言った動物の騎乗を覚えたのである。


 三つ子の魂とは言うが、キルギスからタジクへ、羊飼いの家族と共に羊を追いながら旅をした時の感覚はしっかりと身体が覚えていた。

 ……時代が時代だけに、国境警備隊に追い掛け回されたりしたのもご愛嬌だ。


「……まあ、私が馬車に乗るので、無駄にはなりませんか」


 口をつぐんだが遅かった。教授は興味津々の態でリンデルの顔を覗き込んでいる。


「ええまあ、残念ながら乗馬は物になりませんでした。結構長く習ったんですが」


「……ふむ。やはりか、それで得心いったわい」


 リンデルは溜息をついた。クロプト。良く言ったものだ。


「いつ、誰に聞いたんです? ……その、私がオルデン子爵の庶子だと」


 それを耳打ちしたのは他でもない、白兎亭のデッシュだった。


 "リンデル徴税吏は子爵の隠し子だって噂でしてね……"


 それを頭から信じた訳ではないが、役場でのリンデル本人を目の当たりにして疑いは強まった。この国の教育水準からすれば、彼女の知的水準が高すぎたのだ。それこそ農民や市井の民にはありえないほどの……。

 そして、羊飼いや牛追いでもなければ貴族ぐらいしか教わらないであろう乗馬を習ったという。疑惑が確信に変わった瞬間だった。


「庶子ですが、子爵は見栄っ張りですので。私にも貴族として最低限の教育を施しました。

 計数に強かったので徴税吏として働いている訳ですが」


「そして、父である子爵を快く思っていない。かの」


 リンデルは顔に憮然とした表情を浮かべた。


「表に出さないようにしていた、つもりでしたが」


「人生経験の差じゃよ。若者よ、人生の秋を生きる者を舐めるでないわ」


 隠し子と聞き、またそんな人物が王都の子爵のもとでは無く離れた領地で、代官ではなく徴税吏をしている。そんな色々と含みのある状況では、子爵に対して隔意があると見えて当然と言えた。

 また子爵もリンデルを扱いかねているのかも知れない。目に入れても痛くないほどの可愛がりようなら手元に置くだろうし、そうでなくても代官に推すだろう。

 第一、たとえ本人が望んだところで、独身でいられるとは思えない。


(本心を韜晦するのが、まだまだ甘い……)


「お主が子爵について語る時、何と言うか……敬意が見えなかった、というのも大きいの」


「ええもう、わかった、わかりました」


 リンデルは苦く笑いながら立ち上がった。この分では他に何を読まれているか知れたものではない。……この老人だけではない、他の誰かにも。


「いつか話せる日が来たら、私の口からお話します。……教授、この事は御内密に」


 いつになく真剣なリンデルの視線を受け、鷲塚教授は胸を叩いた。

う・ん・ち・く


日本においては、国家が管理する戸籍は古代律令制の崩壊後は江戸時代まで存在せず、江戸時代に「人別改帳」として復活しました。これは寺によって行われるものでしたので、住人は必ずどこかの寺に登録をしなければならない、という制度でした(隠れキリシタン対策でもあった)。

現代にも続く「檀家制度」というのは、この名残です。

欧州においても古代ローマ崩壊後にキリスト教の教会が地域の戸籍管理をするようになったあたり、似た流れになっています。キリスト教が古代ローマ時代の知識を保存する役目を負った事と、何か関係があるのかも知れません。


税は様々な形で掛けられます。オルデン領ではほぼ一般的な形で土地と、住民一人あたりからの徴収をしていますが(人頭税)、かつての地球では眼鏡税、ヒゲ税、髪の毛税なんてものも存在したことがあるそうです。


公的医療保険は1883年、ビスマルク宰相時代のドイツで始まったものが最初とされています。それ以前はどうしてたのかと言えば、高い医療費を払って医者に見てもらうしかなかった訳です。

ちなみにアメリカには「公的」医療保険が存在しませんが、代わりに企業が医療保険を負担しています。これは退職後も保障されるものだそうですが……景気のいい時ならそれでもいいんですけどね。


当時、キルギスはキルギス・ソビエト社会主義共和国、タジキスタンはタジク・ソビエト社会主義共和国として、それぞれソ連の衛星国でした。当時のいわゆる「東側」は結構シャレの効かない軍事国家でしたので、教授のように国境線近くをふらふらしていたら追い回されて当然だと思われます。

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