第一話 暗転
老人は教壇の高みから、ぎろりと講堂を見渡した。
学生の数は多くない。というよりむしろ少ない。
そのまばらな学生達も真剣にノートを取っているのはほんの数人。
あとは内職をしているものあり、寝ているものあり、携帯にうつつを抜かすものありと、講義に耳を傾けている者の方が少数派という有様だった。
峰川大学。とある地方都市の三流私立大学であり、これからの少子高齢化の流れを受け経営を危ぶまれ……と、そこは本筋ではないので割愛する。
老人、鷲塚宗治は中央アジア研究の民族学教授として教鞭を取っている。峰川大は地方の私大としては珍しく、民族学の研究室に力を入れていた。
2011年現在では「民族学」というカテゴリーは日本ではほとんど見られない。「文化人類学」へ吸収されてしまったからだが(そもそも「民俗学」とも違 う)、教授は「教える方がころころ変わってどうするんじゃ」と大学経営陣を一喝し、今でも堂々と「民族学」の看板を掲げ続けていた。
御歳六十八歳ながら百八十センチ近い身長、後ろに撫で付けた白髪に大きなワシ鼻、白いカッターシャツにボウタイ、折り目正しいスラックスに黒革靴、外出 時には山高帽にインバネスコート……と、まるで十九世紀ロンドンの住人のような出で立ちとあいまって、日本人離れした雰囲気の持ち主だった。
嘘かまことか、交換留学生が母国語で話しかけたとか、大きな都市に出ると警官に呼び止められてパスポートの提示を求められるとか、そういった噂には事欠かない怪人物である。
老人は講堂をぐるりと見渡し、一言怒鳴ってやろうと息を吸い……終業のチャイムに息を飲みこんだ。
学生達はそんな教授の葛藤を知ってか知らずか、めいめいに席を立つ。
「むう……仕方ない。本日はここまで。次回は中央アジアの牧畜についての概論じゃ」
あざーとか何だの、不思議な言葉で挨拶をする学生達に鷹揚に頷くと、鷲塚教授も教壇に散らばった資料をまとめる。
その資料の幾つかは、彼が若い頃に現地に赴きまとめた論文や書籍だ。
シルクロード沿いの中央アジアやトルコといった地方の研究が、鷲塚教授のライフワークなのだった。
だが。教授は葛藤する。
(これでいいのだろうか)
(誰も聞かぬ講義。ワシの知識を継ぐ者のいない授業で)
(このまま、研究を埋もれさせていいものか)
否。鷲塚教授は微かに首を振る。
(わしは教鞭を取り、誰かに伝えたい。教えたいんじゃ)
(しかし、わしも老いた。あと数年もすれば退職……)
「それまでに……はは、ムリな話じゃな」
今、彼の元にいる研究生で教授を継げる、または越える人材はいないと見ていた。
能力、そして覇気の面で。
確かに利口でうまく立ち回るが、小さくまとまりすぎている……彼はそう見ていた。
「しかしわしは、誰かに伝えたいんじゃ……」
口の中で呟き、資料を小脇に抱えて教壇から降り……
意識が途切れた。