名前
「すみません、あなたの名前を教えてください」
僕に話しかけてきたのは、そうして話しかけられることではじめて存在を認識するような、とても影の薄い男だった。
「随分と重そうな荷物ですね」
彼は背中にも腹にも、両肩にまでもリュックを背負い、時代遅れのウエストポーチまでつけていた。そのどれもが今にもはち切れそうに膨れ上がっているので、つい目がいってしまう。それに気づいた彼は荷物を取り出し、僕に見せた。
「これはね、ひとつひとつが大切な想い出の欠片なんです」
手に握られていたのは、いくつも重ねられた小さな紙切れ。たくさんの名前が書いてある。彼は今まで出会ってきた人たちにずっと名前を書いてもらってきたのだと言う。
「想い出の欠片……? だけどこれではそのうち抱えきれなくなって、捨てなきゃいけないときがきますよ」
そんな僕の言葉に、彼は出していた手を引っ込める。そしてペンを取り出し、僕の手に握らせた。
「抱えきれなくなったらまた袋を増やして、それでも無理なら荷台を買って、そして旅を続けますよ」
そこまでして紙の山を持ち歩く意味が分からないと言うと、彼は何やら哲学的なことを言い出した。
「この先、あなたがこの世界からいなくなったとき、もし私があなたの存在を私が忘れてしまったら、この出会いがはじめから無かったことと同じになってしまうとは思いませんか? もしもそれが私だけでなく、すべての人々の心からあなたがいなくなってしまったとしたら、あなたが最初からいなかったことと同じになってしまうとは思いませんか? だから私は、名前と一緒にすべての出会った人たちのことを覚えているんです」
ふーんと聞き流しながらも名前を書いた紙を渡すと、彼はありがとうと会釈をしてその場を去ろうとした。その後ろ姿に向けて、僕は声をかける。
「あのー、ここで出会ったのも何かの縁ですし、あなたの名前もお聞きしていいですか」
彼は笑った。
こんな表情はこの先何度も見られないのではないかと思うほどに、強く印象に残る笑顔だった。
たとえば君の存在がどんなに些細でも、生まれてきた意味がありますように。
僕の名前が、どうか少しでも長く君の心に刻まれていますように。
僕は君の名前を、覚えておこう。