「誰からも見向きもされない一生を送りなよ」と婚約破棄された私ですが、今は捨てられた女性たち百二十人と会社を経営しています
「誰からも見向きもされない一生を送りなよ」と婚約破棄された私ですが、今は捨てられた女性たち百二十人と会社を経営しています
「君みたいな地味で何の能もない女を、妻として連れて歩く僕の恥ずかしさが分かるか?」
六本木の高級レストランで、翔太は婚約指輪を白いテーブルクロスの上へ滑らせた。指輪は水滴のついたグラスに当たり、澄んだ音を立てて止まった。隣の席では誕生日を祝う拍手が起こり、金色の紙吹雪が一枚、二人の間へ落ちてきた。
「結婚は白紙だ。僕の稼ぎに寄生するつもりだったんだろうけど、残念だったね。せいぜい誰からも見向きもされない一生を送りなよ」
綾乃は膝の上で、紺色のワンピースの布をつまんだ。それは一か月前、翔太が「妻になる女が目立つ服を着るな」と言ったため、給料日の帰りに買ったものだった。美容院へ行こうとした日にも、彼は長い髪を見て、このままのほうが慎ましくていいと言っていた。
「派手な女性は嫌いだと、おっしゃっていましたよね」
「君は地味なうえに、一緒にいても何の役にも立たないんだよ。取引先の前では会話も続かないし、僕の同期の妻たちと並べたら見劣りする。梨香なら華があるし、父親がうちの役員とも親しい」
翔太は腕時計を確認すると、伝票を綾乃の前へ置いた。彼が注文した二万円のワインと、ほとんど口をつけなかった肉料理の代金が並んでいる。婚約破棄された側が支払う理由を尋ねる前に、彼は椅子の背へ掛けていた上着を持ち上げた。
「最後くらい、僕の役に立ってくれよ」
翔太が去ったあと、給仕が冷めた料理を下げてもよいかと尋ねた。綾乃は伝票を二つに折り、自分が注文したスープとパンの代金だけをテーブルに置いた。婚約指輪を箱へ戻し、翔太が残した伝票と一緒に受付へ預けてから、店を出た。
新宿駅へ着くころには雨が降っていた。傘を持たない人々が地下道へ駆け込み、濡れた革靴と排気ガスの匂いが混じっている。綾乃は化粧室の鏡の前に立ち、翔太に選ばされた紺色のワンピースと、腰まで伸びた黒髪を見た。
バッグの底には、小さな手帳が入っていた。翔太の取引先の好み、同期の家族構成、上司の妻の誕生日まで、彼に頼まれて調べたことがびっしりと書かれている。接待の店を予約し、礼状の文章を考え、贈答品を選んでも、翔太はそれを自分の気配りとして話していた。
綾乃は手帳の最後の頁を開いた。翌週の予定には、「翔太さんの海外赴任に合わせて退職願を出す」と記してある。彼女はその一行を二本の線で消し、余白に別の言葉を書いた。
――人の役に立つ能力は、人の所有物になることではない。
翌朝、綾乃は退職願ではなく、異動希望書を上司へ提出した。結婚後に辞める予定だったため補助業務ばかり任されていたが、顧客対応の仕事をしたいと申し出た。ところが上司は書類を机へ置き、老眼鏡を外した。
「今まで表に出る仕事をしていなかった人を、急に営業へ出すのは難しいね。君は指示されたことを静かにこなすタイプだろう」
一か月後、綾乃の希望は却下された。婚約を理由に断っていた地方転勤も、今さら枠がないと言われた。昼休みに冷えた弁当を食べながら求人票を開いたが、三十歳を目前にして未経験から応募できる仕事は、どれも手取りが今より下がった。
その週の金曜日、綾乃は歌舞伎町にある会員制クラブの扉を叩いた。酒を飲むことも、男性に触れられることも得意ではない。それでも、客の顔と会話を記憶することなら、翔太のために何年も続けてきた。
店の面接を担当したのは、四十八歳の雇われ店長、冴子だった。黒いドレスの肩には薄いストールが掛けられ、左手の親指には細かな火傷の痕がある。冴子は綾乃の履歴書を読んだあと、化粧気の薄い顔を正面から見た。
「どうして、ここへ来たの」
「誰からも見向きもされないと言われました。本当にそうなのか、自分で確かめに来ました」
「客に見てもらうためだけなら、一か月も続かないよ。ここでは、見られるより先に相手を見るの。靴が濡れているか、時計を何度見たか、笑いながら誰の悪口を言わなかったか。できる?」
綾乃は面接中、冴子が三度だけ左の腰へ手を当てたことに気づいていた。卓上の水には口をつけたが、用意されていた甘い菓子には触れていない。長時間座ると痛みが出ることと、食事を制限する病気があるのではないかと答えると、冴子は履歴書の端を指で二度叩いた。
「源氏名はどうする?」
「澪華にします。流される水ではなく、自分で流れる場所を選べるように」
最初の三か月、澪華を指名する客はほとんどいなかった。閉店後の更衣室で、ほかの女性たちが売上の入った封筒を数える横で、綾乃の封筒は薄いままだった。始発電車の硬い座席に座ると、足の裏が熱を持ち、借りた衣装のラメが膝へ付着していた。
それでも綾乃は、毎晩ノートを書いた。客が飲んだ酒の銘柄だけでなく、健康診断を控えていること、離れて暮らす娘が受験すること、部下の名前を出すときだけ声が低くなることまで記録した。次に会ったときは、高価な酒を勧める代わりに温かい茶を用意し、娘への土産を一緒に考え、部下との会話で困っている客には質問の仕方を提案した。
半年後、澪華の席では高額な酒より会話が売れるようになった。取引先との関係に悩む経営者、後継者と口を利けなくなった店主、定年後に家へ帰るのをためらう会社員が、彼女の前でだけ手帳を開いた。綾乃は答えを与えず、相手が自分で言葉を見つけるまで、水割りの氷を替えながら聞き続けた。
冴子が倒れたのは、綾乃が働き始めて二年目の冬だった。厨房の前で膝をつき、救急搬送された。治療のため半年休むと告げた翌日、店の経営者は冴子の荷物を段ボール箱へ詰めた。
「若くもない女を、戻るか分からないのに待てない。夜の女なんて、代わりはいくらでもいる」
綾乃は段ボール箱を抱えて病院へ向かった。中には二十年分の顧客名簿と、冴子が新人たちへ教えるために書いた接客ノートが入っている。病室の窓際には食べかけの蜜柑が置かれ、冴子は薄い毛布の上で退職届を折っていた。
「私、昼の仕事へ戻ろうと思います」
「どうしたの、急に」
「夜の店で働けなくなった人が、経験を捨てずに済む会社を作ります。聞く力も、顔を覚える力も、場を整える力も、昼になったら消えるわけではありません」
綾乃は貯めていた金で、小さな化粧品販売会社を買い取った。最初の事務所は雑居ビルの四階で、エレベーターはなく、雨の日には窓枠から水が染みた。冴子は治療を続けながら研修担当となり、接客経験を商品説明と顧客相談へ変える方法を教えた。
子供を育てながら夜に働いていた女性は、通販部門の責任者になった。夫から逃げて住民票を移せない女性には、弁護士と連携して生活を立て直すところから支援した。病気で立ち仕事ができなくなった女性は、顧客の相談記録を分析し、敏感肌向け化粧品の開発に加わった。
事業は何度も止まりかけた。取引先から元ホステスばかりの会社とは契約できないと言われ、銀行の融資担当者には継続性を疑われた。倉庫に積み上がった売れ残りの箱を机代わりにして、綾乃たちは夜明けまで返品理由を読み直した。
十年後、会社は美容事業と就労支援事業を持つグループへ成長していた。従業員は百二十人、その半数以上が病気、介護、育児、離婚、年齢などを理由に一度仕事から離れた女性たちだった。売上の数字より先に綾乃が毎月確認するのは、途中で辞めた人数と、その理由だった。
新たに建設する研修施設には、託児室、休憩用の個室、治療を続けながら働ける短時間勤務の事務所を設けた。最上階へ美容クリニックを入れ、収益の一部を就労支援へ回す計画も整えた。ところが、開所を一か月後に控えた朝、融資を担当する銀行から審査を停止するという連絡が入った。
匿名の告発文が届いていた。綾乃が元ホステスだったこと、反社会的勢力との関係が疑われること、従業員の多くが信用に値しない経歴を持つことが記されている。さらに、建設を担当する大手デベロッパーの社内でも、綾乃の会社をテナントから外すべきだという意見が出ていた。
告発文には、一般には公開していない綾乃の源氏名まで書かれていた。綾乃が役員会議で資料を読んでいると、冴子が湯気の立つほうじ茶を机へ置いた。かつて火傷していた左手には、今は商品開発部長の名札が下がっている。
「書いた人に、心当たりがあるんじゃないの」
「あります。ただし、名前ではなく証拠で話します」
社内調査の結果、告発文はデベロッパーへ出向していた商社員の端末から送信されていたことが分かった。差出人は翔太だった。彼は施設の予定地を別の投資会社へ売却させれば仲介手数料を受け取れる立場にあり、綾乃の会社を審査から落とすため、過去の経歴を利用したのである。
開所式の日、施設の玄関前には報道関係者と取引先が集まった。白い布を掛けた看板の前で、綾乃は濃紺のスーツを着ていた。髪には白いものが数本混じっていたが、染めずに肩の後ろでまとめている。
壇上へ上がる直前、一人の男が人垣を押し分けてきた。襟の擦れたスーツを着た翔太だった。警備員に止められると、彼は綾乃の名前を何度も呼んだ。
「綾乃、待ってくれ。告発文は誤解なんだ。君の会社を潰すつもりなんてなかった。審査を少し遅らせて、予定地を別の会社へ譲ってもらうつもりだっただけだ」
「それを、業務妨害と呼ぶのではありませんか」
「会社の監査が始まった。取引先の情報を不正に使ったことも知られて、俺は懲戒処分になる。君から、誤解だったと説明してくれれば助かるんだ」
翔太はポケットから折れた名刺を取り出し、綾乃へ差し出した。かつて彼が自慢していた本社の部署名は消え、子会社の営業支援部と印刷されている。綾乃は名刺を受け取らず、彼の後ろに並ぶ社員たちを見た。
「私の会社の力が必要なのですね」
「昔は俺も若かった。君がここまでやれる女だと知っていたら、あんなことは言わなかった。もう一度、二人で話せないか。俺なら商社との取引でも役に立てる」
「あなたは今も、人の価値を、自分に役立つかどうかでしか測れないのですね」
翔太の差し出した手が止まった。綾乃は警備員へ連れ出す必要はないと告げ、そのまま壇上へ向かった。施設の前には、子供を抱いた社員、杖をついた社員、車椅子で受付を担当する社員が並んでいる。
綾乃は用意していた挨拶状を演台へ置いた。告発文によって集まった記者たちは、彼女が元ホステスだったという事実をどう釈明するのか待っていた。綾乃はマイクの高さを直し、正面を見た。
「私は十年前まで、歌舞伎町のクラブで働いていました。源氏名は澪華です」
会場の後方で、カメラのシャッター音が重なった。銀行役員と取引先の幹部たちは、互いの顔を確認している。綾乃は演台の端に両手を置き、言葉を続けた。
「あの街で、人の顔と名前を覚えました。言葉にできない事情を待つことも、昨日笑っていた人が今日も無事に席へ着いたか確かめることも学びました。私が今の会社を作るために必要だったものは、すべてあの場所で教わりました」
社員の列から、冴子が一歩前へ出た。黒いドレスではなく、会社の制服である柔らかな灰色のジャケットを着ている。胸には、創業時から使っている小さな銀色の社章が留められていた。
「病気で店を辞めたとき、四十八歳の私を雇う会社はありませんでした。綾乃社長だけが、二十年間働いた人に、何の能力もないはずがないと言いました」
続いて、通販部門の責任者が子供の手を引いて前へ出た。夫から逃げたあと入社した女性、がん治療を続けながら商品開発を担当した女性、親の介護で週に三日だけ働く女性も並ぶ。最初は十二人だった列が、壇上の前を埋めるほど長くなった。
最後に、入社したばかりの若い女性がマイクの前へ立った。化粧は薄く、借り物らしいスーツの袖が指先まで届いている。彼女は袖口を何度も引き上げ、社員証を両手で握った。
「私は面接を四十七社受けました。子供がいて、頼れる家族がいないと言うたびに、不採用になりました。誰からも見向きもされない人間なのだと思っていました」
女性の隣で、小学生くらいの男の子が紙袋を抱えていた。中には、施設の託児室で使うために寄付された絵本が入っている。女性は一度息を整え、綾乃へ顔を向けた。
「社長は、私に何ができないかではなく、今までどうやって子供を育ててきたかを聞いてくれました。毎月一万円ずつ貯金したこと、安い材料で一週間の献立を考えたこと、熱を出した子供を看病しながら資格を取ったことを、全部仕事にできる能力だと言ってくれました」
男の子が紙袋から一冊の絵本を取り出した。表紙の裏には、不揃いな文字で「お母さんを見つけてくれて、ありがとう」と書かれている。女性はその頁を開いたまま、綾乃へ差し出した。
「誰からも見向きもされなかった私を、社長だけが見つけてくれました」
綾乃は壇上から降り、絵本を受け取った。何度も補修された古い本で、透明なテープの端に小さな指紋が残っている。彼女は表紙を閉じず、その言葉が見えるように胸の前で持った。
「違います。私はあなたを見つけたのではありません。あなたがここまで歩いてきたところへ、椅子を一つ用意しただけです」
百二十人の社員が、胸元の社章を握った。取引先から拍手が起こり、銀行役員も椅子から立ち上がる。やがて施設の前にいた全員が立ち、灰色の建物を震わせるほどの音が続いた。
人垣の外で、翔太だけが名刺を持ったまま立っていた。彼は綾乃に近づこうとしたが、百二十人の社員とその家族が作った列の向こう側まで届かない。かつて地味で何の能もないと言った女性の前には、彼が知らなかった十年分の人生が立っていた。
翔太は取引情報の不正利用と業務妨害によって懲戒解雇となり、仲介手数料を受け取るために結んでいた裏契約についても損害賠償を請求された。綾乃へ何度か手紙を送ったが、秘書室から弁護士へ転送され、一通も彼女の机へ届かなかった。彼が突き返した婚約指輪も、あのレストランへ置いてきた夜から、一度も綾乃の手元へ戻っていない。
施設の開所から一年後、二階の託児室には毎朝、子供たちの靴が並ぶようになった。休憩室では治療帰りの社員が毛布を掛けて眠り、研修室では元接客業の女性が新人へ、人の話を途中で奪わない方法を教えている。入口の壁には、綾乃が新宿駅で書いた一文が、銀色の文字で掲げられていた。
――人の役に立つ能力は、人の所有物になることではない。
綾乃は仕事を終えると、一階の食堂で社員たちと夕食を取った。その日の献立は鶏肉と大根の煮物、ほうれん草の胡麻和え、少し薄味の味噌汁だった。冴子が大根を箸で割りながら、壁の言葉を見上げた。
「誰からも見向きもされない一生を送るはずだったのに、ずいぶん大所帯になったね」
「百二十人もいると、毎月のお給料を払うだけで大変です」
「じゃあ、後悔してる?」
綾乃は味噌汁の椀を持ち上げた。向かいの席では、例の新人社員が息子の給食袋を縫い直している。その横では商品開発部の社員が試作品の容器を取り出し、食事中だからしまえと注意されていた。
「いいえ。私はようやく、自分が連れて歩きたい人たちを、自分で選べるようになりましたから」
誰からも見向きもされないと言われた女は、自分だけが見られる場所を目指さなかった。
見過ごされてきた百二十人が、互いを見失わずに働ける場所を作った。
かつて彼女を捨てた男だけが、その輪の外で初めて、自分が何を捨てたのかを知ったのだった。




