そしてきみは前世の墓を暴いた
「俺が君の首を刎ね損ねたのもこんな雨の日だったね」
運転をしていた幼馴染が唐突に投げてきた言葉に、片岡露は目を見開いた。
彼、朝日時春はいつも通りの安全運転で、前方を向いたままちらとも助手席の露を見ることはない。
「俺は勇者で、君は魔王だった」
おかしなことを、と。露は冗談として話に乗ることも、話題を変えることもできなかった。彼女にもまた、その記憶があった。
「孤児で都合のいい人身御供だった俺と、部下に慕われ人類鏖殺という使命に燃えていた君。俺たちは何もかもが違っていた」
高速道路を走る車からは、降りて逃げることもできない。ただ、雨が窓を打ち付け、タイヤが雨水を蹴り上げる音だけが車内に響いている。
「次こそは」
淡々と時春が、前を見据えながら呟いた。
「俺に君の首を獲らせてね、ラーク」
その、今や誰も知らぬはずの名をなぞられ。露は己の血の気が引いていく音を聞いた。
◇
片岡露が、己の中にあるそれが「前世の記憶」と呼ばれるものであることを自覚したのは八歳のころだった。それまでは彼女は、言動が年齢に見合わず、さらに言えば絵空事をまるであったことかのように語る、おかしな子供として知られていた。
記憶は、きっと赤ん坊のころから露の頭の中に眠っていた。そして成長に合わせ、くるくると露の脳の中で踊るようになった。しかしどれほど記憶の露が当時では立派な魔族の王であろうと、今はただの人間の幼児でしかない。幼児の脳に、前世だの、記憶だの、矛盾だの。そんなものは分からない。分からないけれどそこにある。ゆえに、彼女の言動はちぐはぐだった。
両親のことを「ぱぱ」「まま」といとけなく呼んだかと思えば、「ちちうえ」「ははうえ」と誰も教えていない呼び方をした。幼児語と大人びた口調がよく混ざって、周囲を困惑させた。
無論両親は早くから狼狽え、娘を医者へと連れていった。自分たちが我が子に何かしてしまったのかと、あるいはこの子に何かあったのかと不安でたまらなかった。けれど診察では異常なしとされた。父母はあまりの不安に娘を抱き締めておいおい泣いた。
その温もりの中で、片岡露は「正しく生きねばならない」と強く意識した。何が正しいのかも。私の何が二人をこんなに不安定にしてしまうのかもまだ分からないけれど。それでも。この人たちに報いる私に必ずなろう。
「ちちうえ、ははうえ、だいじょうぶよ。こわいものなんてなんにもないわ。つゆがまもるからね」
露はそう笑ってさらに両親を泣かせながら、くるくると頭の中で踊る何かを睨み据えた。
そして。元々よく本を読む子供だった露は、八歳でようやく、「前世の記憶」という概念と遭遇した。
前世。前の命。前の世界。私ではない私。魔王ラーク。
子供部屋にいた彼女はドアを乱暴に開けて飛び出すとそのまま洗面所へ駆け込んだ。鏡を凝視する。知っている顔が、そこにはあった。肌や髪、瞳の色、頭部にあった大ぶりの角の有無など、細かな違いはあったけれど。知っていた。ずっとずっと知っていた。だから一度も違和感を抱かなかった。
(誰だ)
誰が! こんな、悪趣味なことを!!
八歳の脳は複雑な思考ができない。いくら成体のころの記憶があろうと、それはただ「ある」だけで大人のような思考をさせるわけではない。けれど、それでも。彼女が憤怒を抱くには十分だった。
私は魔王ラークではない。だのにどうして同じ顔をしている。どうして世界が違う。どうして両親が違う。どうしてこんな記憶がある?
(どうして、よくも! 「私」の墓を暴いたな!)
あの魔族はあの城で眠っていなければいけなかった。魔王となるために生まれ、家族を愛し、魔族を愛し、人を害し、――彼と出会って、恋をして、殺された。それで全部だった。それで終わりだった。それなのに、よくも。死者の墓を暴いて屍を引きずり出して踊らせるような真似を、よくも。
誰も、あの終わりの先が欲しいなんて願ってない。ただ眠っていたかった。ただ終わっていたかった。
ぼろりぼろりと涙がこぼれる。子供の涙腺は言うことを聞かない。しゃくりあげ、ずるずると床に倒れ伏す。うわあん、と。遠慮のない幼子の泣き声が響き渡った。
「露!?」
どうしたの、と女が洗面所の扉を開ける。母だった。言葉もうまく話せぬほどに泣き喚いている露を、彼女はよしよしと抱き締めた。
「どこかぶつけたの? 嫌なことがあったの? 教えてちょうだい、お母さん絶対露を助けるわ」
えぐえぐと母に抱き着いてなお泣き止まない露に、ひとまず怪我ではなさそうだと判断した彼女はリビングへ移動するとソファへ腰かけた。
「よしよし、いいこ、いいこ、かわいいこ。かわいい露ちゃん。いっぱい泣いていいからね。お母さんここにいるからね」
ああ、と。心が軋んで悲鳴を上げた。どうして、こんな人から無垢な赤ん坊を奪ったの。この人に相応しいかわいい子を、どうして奪ったの。この手は、この腕はきっと、別の誰かのためのものだった。それをどうしてか私なんかが奪い取ってここにいる。正しい誰かからこの人たちを取り上げて成り代わったのは私なのだ。ねぇ、どうしてこんな恥知らずな真似を私にさせたの。
いらない記憶が翻る。角を持った異形の男女。撫でられた手。抱き上げられた腕。与えられたさまざまなもの。満たされた愛情。父上、母上。私の、私の。
(ちがう!!)
ぎゅうと母の服を握る手に力を籠める。違う、違う、そんなことあるものか。
今、私にここまでの情を注いでくれる人たちを裏切って、もうとっくに終わった命が慕う誰かなどを、私の両親と誤認などするものか。
彼らは彼女の大切な人たちで、私が愛しているのはこの人たちだ。そんな、誰も彼もを侮辱するような真似、この私がするものか。
(……ああ)
これが、罰か。愛しい両親に前世なんていらぬものを抱えた忌み子を育てさせ、必要のない苦労と心配をかけて。それでもなお、生き長らえている。これが前世、それが役目だったとはいえ、数多の命を殺め続けた罰か。
露は落ち着いてきた呼吸で、とろとろと泣き疲れたために迫りくる眠気に身を委ねながら、強く強く決意した。手のかからない子でいよう。両親にとってよい子であろう。それがせめて、まっさらな子供を彼らから取り上げてしまった私にできることだ。
できること、なのに。
記憶のことは、なんだかんだ高を括っていた。露は子供だった。それなら、これからいくらも進んでいく人生で、限りなく増えていく新たな記憶に全ては埋もれていくだろう。それを待てばいいだけだと思っていた。人の記憶など儚い。本にもあった。ゆがんで、ひずんで、全く異なるものと成り果てるか、忘れていくのだ。それが正しいと安心していた。
安心していたのに。
「露、お隣に越してきた朝日さんよ。挨拶してね」
ある日、隣家へ越してきた一家だと紹介された家族の中にいたのは。滲んでいく記憶の中でなお閃光のように煌めく、過去の想い人の面影を持つ少年だった。
「時春くんね、あなたよりひとつ年が下なの。無理にとは言わないけど、二人とも仲良くなってくれたら嬉しいわ」
「露、時春くんはあまりお話が好きじゃないみたいなんだ。露を無視しているわけじゃないから、怒ってはいけないよ」
ひそりと父に囁かれた言葉に、露は辛うじて頷く。
その後随分経ってから聞いた話では、時春の両親はいい人たちで、時春は彼らを困らせないよう、余計なことを言わないよう、無意識に話さないようになっていたとのことだった。盛大に自分の両親を困惑させた露は耳が痛かったし、その自制心に呆気にとられた。
露十歳、時春九歳の秋だった。
(この子……記憶あるの? ないの?)
露はあったら気まずいどころではないと戦々恐々としながら時春と接した。他人の空似であることを祈った。
しかし、己の中にあるものに「前世の記憶」とラベルを貼ったところで、露は十歳の子供でしかなかったし、複雑なことはやはり考えられなかった。
「時春! 公園行きましょう!」
ゆえに。恐怖よりも「新しい友達ができた」という興奮が勝つのはあっという間だった。体を動かす遊びが好きだった露は、近所の公園で小学校の友人たちと散々時春を巻き込んで走り回った。きゃらきゃらと露が笑えば、つられたように時春がふいに口角を持ち上げた。
「露、顔に泥ついてる」
彼の母親が持たせたのだろうハンカチでそっと拭われる。間違いなく、その顔には笑みが浮かんでいた。「前」、一度として見ることのなかった柔らかな笑顔だった。
露はもう一度恐怖した。この子がいる限り。「魔王ラーク」の墓が静穏を迎えることはない。何を忘れても。何を歪めても。彼の、記憶だけが。綺羅星のように閃いて。何度だって、露の目を焼くのだ。
彼はどこからどう見ても彼女の想い人なのに、彼とはちっとも似つかない、素直で優しい少年だった。それなのに。彼を見るたびに、風化して忘れ去っていくばかりだったはずの記憶が、何度もなぞられてその輪郭を取り戻していった。
彼の背中、横顔、太刀筋、癖、眉間の皺がほんの少しだけ緩む一瞬。そんなことばかりが、我が事のように思い出されて。ラークのものであったはずの恋心が、この胸から消えなくて。露はそのたびに墓を埋め直すように目を閉じた。
(どれほど、どんなに、「私」は彼が恋しかったか)
他のことはいくらも忘れられたのに。彼との日々だけが、色濃く脳裏に焼き付いて。共に見上げた月の色まで思い出されて。そのたびに、片岡露は魔王ラークを殺し続けた。
綺麗な緑の髪。美しい剣技。寂しい目。何度も何度も思い出して。何度も何度も埋め直した。
それなのに。露は呆然と「幼馴染」を見詰める。緊張で喉が渇いていた。
「あなた、覚えて」
「うん、ずっとね」
友達ごっこも退屈しのぎにはなったよ。そう酷薄に笑う横顔は、確かに「前」、魔王を殺す使命を帯びた勇者であった「彼」と初めてまみえたときに見たそれと似ていた。今日まで見たことのないものだった。
優しい眼差し。柔らかな笑顔。安心していたのに。彼は尻尾を一度たりとも出していなかっただけなのだ。
人気のないパーキングエリアで静かに車が停止した。ドアを開けて逃げようとした露を、強い腕が掴む。ドアはロックされて開かなかった。もがく露を嘲笑うように、時春は悠々と彼女の手首と顎を捕まえると、無理矢理視線を合わせてきた。
「離して! 私は魔王ラークじゃないしあなたは勇者スネイルじゃない!」
「いいや、君はラークで俺はスネイルだ」
「違う! 私たちはただの幼馴染で、友達よ!」
逃げようとしても掴んでくる腕はびくともしない。前世、対等であった力は、今は人間の男女となって、大きく差をつけられていた。
「万が一にも逃げられないようにずっと待ってたんだ。逃がさないよ」
じっと何を考えているのか分からない真っ黒な目で見下ろされ、絶対に露が逃げられない、二人きりになる時期をじっと待っていたのだと覚る。
『気晴らしにドライブしたいんだ。付き合って』
その言葉に無警戒に頷いてしまう程度には、この幼馴染に気を許してしまっていた。
「なにが、目的。まさか本当に、今ここで、私の首を刎ねるつもり?」
一旦抵抗を諦め、目の前の不気味な男を睨み上げる。露の怒りの滲む視線に、時春は嬉しそうに微笑んだ。その口の端に、嗜虐がわずかに浮かんでいるのに気付いた露は舌打ちをする。
「うん。そう。俺の首、俺の獲物、俺の宿命、俺のラーク。あの日のやり直しをしよう。君の命は俺のものだったのに、最後の最後、手に入らなかった。それだけが心残りで、ずっとそれだけが生きる意味だった」
「この世界ではあなたが私を殺すことは英雄的行為ではないわ。ただの殺人よ。私の両親と、何よりあなたの両親を地獄に落とすと分かっていて言っているの。それとも完全犯罪の自信があるのかしら」
「別に君を殺したら俺も死ぬから後のことには興味ないかなぁ。まぁ、お優しい父さんと母さんは苦しむと思うよ。悩んで悩んで、最後には許してくれるさ。そういう甘っちょろい人たちだよ」
「おじさんとおばさんのことをなんだと……!」
怒りのあまり低く唸る露に、時春はやや退屈そうに、けれど瞳の奥に確かな歓喜を滲ませて薄く笑う。
「知らないよ。俺はね露。次があったら絶対に手に入れるって決めてたんだ。君が、俺だけが君を手にかけていいと言ったんだ。君がくれた命だ。俺のものだよ」
吐息が唇にかかった。視界が彼の瞳でいっぱいになる。少し癖のある黒髪が頬にあたった。ぎちり、と囚われた手首が痛みを訴えた。
「君以外、なんにも要らない」
背筋を悪寒が走り抜ける。この男は、このバカは。墓を、自ら、暴いて。露の墓をも荒らして。そのうえで、片岡露たる己を殺めようとしているのだ。
「だからそれを言ったのは私じゃな……!」
「もう黙って」
あっと反射で口を閉じる。その引き結ばれた唇の上を、分厚い舌が這っていった。おぞましかった。ただただ、嫌だった。喜びに震える心がこの胸の内にあることが、許せなかった。
すき、すき、だいすき。私の宿命。私の一番星。
ずぅっとあなたに触れてほしかった。終わるならばあなたの手じゃないと嫌だった。
星のような人。
寂しい瞳をした男の子。世界全部を憎みながら、誰かに愛されたがって飢えていた。だからどんなに痛くても、苦しくても、疎まれても、愛されて認められるために、宿命に縋って、世界全部に憎まれる魔王を殺しにたった一人でやって来た。ボロボロで、哀れで、惨めで。愛しいと思った。
諦めない心が。世界を諦めきれない脆さが。愛に飢えた悲鳴が。明滅する光のように、視界を焼いた。彼の不屈の結晶である剣技は、流れる星のように美しい軌跡を描いていた。
私を殺すもの。そのために生まれた命。
『あらまぁ、みすぼらしい勇者サマだこと』
余裕ぶりながら、心は甘くときめいていた。己の誇りにかけて負けるつもりも殺されるつもりもなかったけれど。この命が終わるならば、彼の手で縊られたかった。
――ちがう。ちがう、ちがう。それは私じゃない。これは私の心じゃない。墓の中の死体のものだ。こんな蛮行許してはいけない。喜んでるなんてありえない。
こんな、こんな暴力が! 命を奪うという、尊厳を踏み躙る行為が!
とっくに終わった恋なぞで「めでたし」になんてなるものか!
口を開けば舌を捻じ込まれると分かっていたので、顔を背けようとしたが顎も掴まれていたためにできなかった。露は内心舌打ちをしながら、唇だけではなく頬に落とされる口付けに肩を震わせた。殺すと言いながら、まるで恋人に触れるような温もりがそこにはあった。
どうやってこの男が露を手にかけるつもりなのかは分からない。ただ、本気なことだけはひしひしと伝わってきた。
(許さない、こんな蛇足ぜったいに許さない! 「私たち」は終わったの! カーテンコールはない! アンコールもない! 私は露であってラークじゃない! あなたも時春であってスネイルじゃない! こんな馬鹿げた後日譚、誰が許しても私が許さない。私たちはただの令和の一般人よ!)
気取られないよう慎重に呼吸を整える。今生で初めて、己の肉体を隅々まで意識した。体を、武器として使う感覚。そして、時春がふいに顔を離した、瞬間。
ガツン!!
鍛えていない筋肉は悲鳴を上げた。けれどそんなことはどうでもよかった。全身全霊でかました頭突きはお互いにダメージを負ったが、隙はきちんとできた。堪らず離された手をそのままドアに伸ばす。ロックを解除するとそのまま雨の中を飛び出した。
許せないだけ。ただそれだけのために闇雲に駆け抜ける。終わった話を蒸し返されるのが嫌なだけ。あの世界のラークの、スネイルの。墓を暴かれるのが許しがたいだけ。静かに眠っていてほしいだけ。
露の動きに一拍遅れてついていく髪が翻り、月の光がひらと反射した。
「待って、露! ……ラーク!」
「うるせぇ~~前世引きずってんじゃないわよこの寝坊助!!」
背中にぶつけられた懇願の声を切って捨てる。よかった。声の遠さから、それなりに距離を稼げたことが分かった。
(早く静かに眠りたいわね)
必死に足を動かしながら、心の中でそう呟く。
ほんとにね、と。大きな角の異形の女の子が目蓋の裏で苦笑していた。
◇
まだ見失っていない小さな背中を死に物狂いで追いかける。見失っても問題ないと分かっていたのに、時春は肺が痛むほどに足を動かしていた。露は知らぬだろうが、とっくの昔から時春は彼女のスマホを機種変更のたびに隙を見て位置情報やメッセージ履歴などを把握できるよう悪さをしていた。
ずっとこの日を夢見ていたのだ。逃がしてなるものか、と彼はぬかるみに苛立ちを覚えながら駆け抜ける。
いつ殺したってよかった。その機会は、幼馴染であればいくらでもあった。間抜けな彼女はあっという間に警戒を解いたから、ほんとうに、いつだってその細い首を絞めてやることが、時春にはできた。
ただ、少しだけ穏やかな日々が惜しかったから。今日まで先延ばしにしてしまった。
前の世界で、王として魔族に慕われていた彼女は、今の世界でも人からよく好かれた。それでも彼女の一番近くは時春のものだったから、彼はいつかのように誰彼構わず慈しむ彼女を許していた。
けれど。
『俺、片岡さんと結婚したいなぁ』
そんなことを、同じゼミの男がほざいたせいで。時春は、露が決定的に己のものではなくなる日が来ることを理解した。愛情深い女だ。伴侶や子供ができたなら、何よりも彼らを優先し、命を容易く懸けるようになるだろう。
許されないことだった。
『たとえ私たちが神の手違いの命だとしても。人間を間引きするための機構だとしても。それがなんだというの。私たちは生きて、ここにいる。私は私を誇っている。私は魔族を愛している。それさえ確かならば、どんな運命でさえ些末事だわ』
『誇りなさい、勇者スネイル。あなた、この世で唯一、私の命に手が届く』
満天の星のような魔族だった。夜空を閉じ込めたような髪と瞳。彼女が動くたびに、きらきらと光がこぼれるようだった。生まれてはじめて、誰かを美しいと思った。
言ったのに。彼女の命は俺のものだと。それなのに。
七日七晩の死闘の中で、少しずつ互いを知っていった。武器を下ろして、ただ共に月を見上げる時間もあった。君のための俺で。俺のための君だった。俺たちは宿命だった。
けれど、決着の、その瞬間。彼女を愛し、彼女に愛された魔族たちが、スネイルの前に立ちはだかり、既に致命傷を負った彼女を連れ去った。死ぬならばせめて、美しい場所で、と。そこがどこなのかも知らない勇者は、ただ目の前の魔族を端から切り捨てて、そして。彼女の最期を奪い損ねた。
許せなかった。何も与えられなかった一生で、彼女だけが、彼のものだったのに。彼女だけが、俺に笑いかけてくれたのに。だから、彼女が終わるのであればその瞳に最後に映すのは彼の顔であるべきだった。
だから決めた。あの幼い、再会の日に。今度こそ逃がさないと。
どれほど、どんなに。光瞬く姿がうつくしくとも。落とせば暗く沈んでいくばかりだとしても。星にどれほど憎まれようと。俺のものでなければ何の意味もなかった。
片岡露が魔王ラークであることなどすぐに分かった。初対面で既に目が泳いでいた。詰めの甘い女。だから勇者に後れを取ったのだ。
時春は幼い少女の目の奥にあの星があることを見付けると、固く誓った。次はない。今度こそ、俺が君を殺してやる。
朝日家での日々は、悪いものではなかった。手ぬるい手ぬるい家族ごっこ。スネイルにはひとつとして与えられなかった多くのものが、時春には押し寄せるように降ってきた。
あたたかな食事。優しく撫でてくる手。安らかな子守唄。柔らかな布団。惜しみなく「愛してる」と告げてくる家族。あなたが特別可愛いと歌う声。おまえ愛しいと囁く目。何をしても、必ず信じられ庇われ心配をしてくる腕。
『時春、時春。どうしたの。いいこ、いいこね、うんと泣いていいんだよ。お母さんここにいるからね』
時春は昔からよく悪夢に魘された。神託で勇者として見出されるまでの惨めな日々。勇者となってからも変わらない忌避の視線。殺されると何度も何度も怯えた数えきれないほどの死闘。目の前から消え失せた、この世で唯一己のものだった女。救世の英雄として持ち上げられ、けれどすべてを捨てて誰もいなくなった魔王城で過ごした虚しい余生。
『ねんねんころりよ おころりよ ぼうやはよいこだ ねんねしな』
とんとん、と背中をさする穏やかな体温と。耳から流れ込む、いつくしみにあふれた歌声が。涙が出そうになるほど、時春の体の奥に棲み付く何かを容易く撫でてしまうから。彼はゆるゆると目を閉じて、今度は静かなまどろみへと落ちていった。
『私は魔王ラークじゃないしあなたは勇者スネイルじゃない!』
そんなこと。言われずとも分かっていた。ズタボロで生きてきたスネイルに、子守唄などはなかった。家族など、そんなものはいなかった。ただ宿命の女の首だけを人生の報酬として求めた男が。今の時春と同じであるはずがなかった。
それでも。
夜空の髪。閃く睫毛。鈍色の肌。強さを示す赤い角。感情がそのまま映る、星を散りばめたような瞳。魔族のくせに神聖な鐘を思わせる、凛と鳴り響く声。
君の、君のすべてが。欲しかった。
今生の君だけではなく。あの。血のように赤く燃ゆる星だった君ごと、欲しかった。
『私が死ぬならあなたの刃以外ありえないわ』
俺のための、俺に殺されるための命だった君さえいなければ、俺だって。俺だって、あんな過去などとっくに焼き捨てて、忘却の彼方へ葬ってしまっていたのに。君がいるから。ひとつも変わらぬ微笑みで。隣で光が瞬くように笑うから。星の輝きを纏うから。
どうしようもなく、きみのぜんぶがほしいから。
ならば俺は、スネイルだった。
だから、ほら。俺が俺で、君が君だから。俺の手は必ず君に届くのだ。そしてあとは、今度こそ、その首に手をかけるだけ。
捕まえた腕を引いてそのまま地面に引き倒す。時春は間髪入れず露の体に馬乗りになった。
「離して、離せ、離しなさい時春!!」
「うるさいなぁ黙ってなよ」
「黙るわけないでしょ!!」
ここまで走ってなおどこに体力が残っていたのか、力の限り暴れる露に堪らず手首を掴んで地面へ押し付ける。両手が互いに塞がっており、膠着状態となった。
なんとか抜け出そうと露はもがいたが、完全に押さえ込まれている己にふっと息を吐いた。諦めではなかった。その証拠に、その瞳は時春の胸を射貫くほどに、美しく明滅していた。
「時春。あなたがあの世界から地続きのラークとして私を見るならば、私は死体の皮を被らされて遊ばれる人形だわ。墓から引きずり出された骸そのものを愛でるよりも、もっとたちの悪い遊びよ。笑えない、悪趣味なままごとね」
いつも。いつだって。多くのものに満ち満ちて笑う女は。切り捨てることを躊躇しない。あの生を、己のものではないと。終わったことで、墓の下の出来事だと。断じることに未練はない。爛々と光る瞳が、時春をひたと睨み据える。
「『私』と、『あなた』の。墓を暴かないで。終わってるのよ、ぜんぶ。なにひとつ取り返せないの。変わらないの。ねぇ、分かっているでしょう」
泥濘をはねのけて、星が煌めく。バカ女。本当に。おめでたい。それを分かっているやつがこんなことをするわけがないだろうに。これほどまでに過去に焼かれて。まともになんて生きていけるものか。それでも全てを忘れて生きろと言うのならば。俺は、君を殺してはじめて。きっと、産声をあげるのだろう。
「君こそが、君だけが! 俺の宿命なんだろう! 君に手が届いていいのは俺だけだ!」
怒鳴った時春に露の肩がわずかに揺れる。あの魔王ならば眉ひとつ動かさなかっただろう。舌打ちをして、けれどその目の奥にいる星を追いかける。
「君が君なように、俺は俺だよ。あの七日間の、あの地獄のような人生の続きを歩いている俺こそが、俺だ。どんなに君が続きなどないと叫ぼうが。俺は続きを歩いているんだよ。それなら、ねぇ。君をくれよ。君のいちばんきれいなところを奪わせてよ。ぜんぶ、ぜんぶ俺のものになって」
ぎりぎりと加減せずに細い手首を締め上げながら、時春は言葉を落としていく。露はじっと黙って、彼の剥き出しになった激情を受け止めていた。
「今度も真っ直ぐ君のところまでやって来たじゃないか。君は、君だけは。ずっと、俺のものだよって笑ってよ。俺だけだって言ってよ」
とす、と時春の頭が露の胸に埋まる。子供が母の腕のなかへ飛び込むような仕草に、彼女は罵声を飲み込んだ。ちっとも力の緩まない彼の両手にひとつ舌打ちだけをする。
「許せないならそれでいい。殺してでもはねのけたいならそれでもいい。俺は、何をしてでも、どこまで逃げても、必ず君の全部を奪い尽くして俺のものにしてやる」
なぁ、――たのむよ。
「……逃げないで、つゆ」
息を呑む。「幼馴染」の哀願に、露は頭の中がぐちゃぐちゃになっていくのを自覚した。違う。私は、私は、ラークではなくて。片岡露で。ラークであったころの記憶なんて、もうとっくに、「この人」のこと以外ほとんど霞んでいて。ただ、ただ。この子が隣にいるから。あの美しい星の瞬きがずっとずっと忘れられなくて。恋しい気持ちが消えなくて。
ああ、だって、どうして。
私、まさか。
死者に、恋をしていた?
唐突に雷に打たれたような閃きを得て、露は戦慄した。あれほどにこの子を拒否しておいて。糾弾しておいて。この恋い慕う想いは、ラークだけのものではなかった? 私も、片岡露も、ほんとうは。「あの人」に恋をしていた?
己こそが「あの人」の続きだと吼える「幼馴染」が、苦しそうに、切なげに、痛そうに、私を、「私たち」を乞うている。「露」と「ラーク」を欲している。
許すな。
許すな、許すな!
認めてはいけない。受け入れてはいけない。墓を埋めると、決めたでしょう。誰にも触らせないと誓ったでしょう。あの子を眠らせると選んだでしょう。恋がなんだ。宿命がなんだ。全部全部終わったことだ。今は醜悪な後日譚に他ならない。それを許さないと言ったのはおまえでしょう、片岡露。己が踏み躙った両親を、正しい誰かから奪い取ったこの場所を、そうさせた何もかもを、絶対に認めないと叫んだのは私でしょう。
ならば、ならば、それならば! この男を! 断じて! 許しては!
「露、……露。ねぇ、君だけが綺麗に見える。この世でいっとう、君がきれいだ。君がいないと息もできない」
そんな。そんな馬鹿なことがあるものか。そんな酷いことがあってたまるものか。露はふるりと力なく首を横に振る。
「……あなたにはもうお父さんもお母さんもいるじゃない。友達だっているでしょう。私だけなんてそんなことない。そんなむごいことはない。あなたにはたくさんの人がいて。たくさんの選択肢が、未来があるわ」
「ないよ。昔も、今も。君だけだ。君だけだった。ずっと」
恋心が泣き喚く。どうか折れてくれと露に懇願する。彼に、この子に、応えたいと震えていた。嫌よ、と魂が叫ぶのに。それでも、と恋は食い下がった。記憶を越えて。心を越えて。境界線を跨いで。墓すらも暴いて。時春が欲しいとさめざめ泣いた。
「……時春、手を離して」
「いやだ」
「時春」
「いやだ。今度こそ君の首は俺のものだ」
「時春! 離しなさい!」
「っ」
年上の幼馴染が、年下の幼馴染を叱り付ける調子で露が声を張れば、咄嗟に、という風に時春は手を離した。そして、再び捕まる前に、露は勢いよく起き上がると両手で彼の頬を包んだ。
「あげるわ」
ああ。言ってしまった。もう戻らない。変えられない。振り切るように一度目を閉じて、露はじっと時春を見上げた。
何もかもを塗り潰して。この、魔王ラークと片岡露がぐちゃぐちゃになった状態の「私」が。彼を、この子を、愛していると。たった今、決めてしまった。決まったならもう、覆らない。言霊は、吐いたら終わりなのだ。私は時春を今、まさに、限りなく、愛している。その言葉が、現実として呼吸をし始めてしまった。
「首をあげる。命をあげる。全部あげる。ねぇ、だから、死んでもいいなんて言わないで。私をあげるから、生きたいと言って、幸せになって」
「……君がいない世界で二度も生きるのは御免だよ」
「ダメよ。私を殺すなら生きなさい。でないと、大人しく殺されてあげない。何をしてでも生きて逃げ切ってあげる。前のように」
そう囁けば、時春は露の手を振り払うともう一度地面へ押し倒した。二人ともとっくに濡れ鼠だった。
「じゃあ、今殺さなきゃ」
「できる? ほんとうに?」
歌うように露は告げる。
「今も、昔も、こんなにも私を愛していて。できるの? ねぇ、あの夜に私を殺せなかったのがあの子たちのせいだって本当に思ってる?」
魔王に勇者の剣が届く一瞬。その剣先がぶれたことを、魔王だけが知っていた。
「時春、人生じゃダメかしら。人生まるごとあなたにあげたら、命をあげたことにはならない?」
露が笑えば、時春は飢えた獣のように喉を鳴らした。
「あなただけのために、生きてあげる」
それが、決定打だった。
ゆるゆると拘束する力を緩めた時春は、ふと、うっとりと微笑んだ。露が、己の言葉を違えられない生き物だと知っている顔だった。濡れた手が、彼女の頬を撫でる。猛獣が、仕留めた獲物を確かめるような手付きだった。
その手を甘んじて受け入れながら、露は己の魂が慟哭する声を聞いた。
ああ、ああ、ああ!
あの子の、彼の、墓が。暴かれてしまった。暴いてしまった。この手で、私が、暴いてしまった!
それでも私、裏切れないの。どっち付かずの私が、今ここで、決めたのなら。どうしようもないの。もう、私自身が、決めてしまったことだから。
墓を暴き、屍を踏み荒らして。それでもあなたが恋しいと。私の心が決めてしまった。
ぽろり、と泣き出した露に、この雨のなか、どうやってか時春は目ざとく気が付いた。最後の悔し泣きか、何なのか。そこまでは分からなかった。墓を暴かれた「ラーク」と「スネイル」を悼んで泣いているのかもしれなかった。
ずっとずっと、光を身に纏っていた女。星の瞬くように慈しみ深く、誇り高かった女。そんな女が、夜雨のなかでも閃く瞳を涙に滲ませるから。どこまでも、美しい女だと見惚れていた。
「君は」
すっと顔を近付け、黒の瞳で露を見詰めながら時春は口を開く。
「君は、俺が手に入れた、この世でいちばんうつくしいものだよ」
そうよ。私、ほんとは誰かに自分の全部を明け渡したりなんてしない。あなたが、あなただから。私は墓を暴いたの。
そう言い返す前に、もう唇は塞がれていた。いつの間にか、もう手首を押さえる手には力は籠っていなかったけれど。露はただ、目を閉じただけだった。
雨に濡れた唇は柔らかく時春を受け入れた。露は体を静かに震わせて、恥じらうように吐息を漏らした。逃げ出したいのを、彼女は彼女の言葉を裏切れないから静かに受け入れているのだと時春は理解する。
ああ、この女は、今この瞬間から。死ぬまで、死んでも。時春のもので。彼女は自ら、逃げる権利も、何もかもを時春に委ねたのだ。
「……帰ろうか」
ひとしきり露に口付けた時春は、彼女の手を取って立ち上がらせる。
泥に塗れた女は、それでも光り輝くように美しかった。
「許さない。あなたの、私の、墓を暴いたこと。あなたを人質に、私の何もかもを冒したこと。それでも愛してあげる。愚者の葬列を生きたまま死ぬまですること。あなたと私を踏み躙り続けること。許さないまま、愛してあげる」
「暴く墓も引きずり出す骸も君が教えてくれなかったせいなのに?」
「この期に及んでその責任転嫁、天晴れね!」
さて、帰り道はどっちかしら。宵闇の中、露はなんてことのないように足の下の骸を踏んだ。




