元婚約者に鉄槌を
婚約破棄され仲間の、新聞王のご令嬢のお話です。
元婚約者が私の家に来た。
要件はおそらく、自分たちが可愛がっている男爵令嬢に、マナーを教えてほしいという頼み事だろう。
応接室ではなく、情報屋と会う時に使う、古びた木の机だけの部屋に通した。
お茶の準備をしようとする侍女に、私は軽く首を振った。「客ではないの」。
元婚約者は、私の意図に気づかず、戸惑った顔をしている。
「それを教えるのは、マナー講師の仕事です」
予想どおりの要求をされたので、ばっさりと切り捨てる。
「だが、マナー講師は、そのような細々としたことまで気がつかないようなんだ。
元平民の君なら、色々と苦労しただろう? それを教えてあげるだけでいいんだよ」
頼み事をする立場で、こちらを平気で愚弄する。
悪気はないのだろうが、侯爵家の面々はこんな性格をしているのだ。初対面でその華やかさに憧れた自分の幼さを、呪いたくなる。
「それで……彼女が大きなお皿に盛られたお菓子を、人の分まで気にせずに食べてしまうと? あなた方が注意して差し上げればよいことでしょう」
「いや、彼女は下町で育ったから……甘い物が食べられて嬉しいと言われると……ほら、ね」
なにが「ほら」よ。嫌われたくないだけでしょうが。下町といっても、愛人の子として裕福に育ったと聞いていますよ?
まあ、私も、あなたに嫌われたくなくて、たくさんの言葉を飲み込んできたから、わからなくもないけれど。
それでも、言わなければと、勇気を出したことはあるわ。
「おおかた、殿方だけが侍った状態で、『遠慮せずに食べるといい』と皆でおっしゃっていたんでしょう? だから、食べ尽くしに気がつかなかっただけ……違いますか?」
「そうなんだ! こんなの食べたことがない、と喜ばれたら、勧めたくなるものだろう?」
同意を得たりと言わんばかりの反応に、思わず眉をしかめてしまう。
「フィッツウィリアムズで、デザートのプレートを手で持って、あなたの方に差し出したんですって?」
「お互いの味を交換しようという、かわいいおねだりだ」
正気かしら。
フィッツウィリアムズは、ただのレストランじゃない。格式と客を選ぶプライドの高さ。
私は家庭教師に「侯爵家のレベルに届いたら行きましょう」と言われて、それを目標にマナーの授業を受けていた。
――婚約破棄になって、子爵レベルはすでに身についているからと、授業は中断している……つまり、行ったことがないのよ!
「気軽なお店なら許されますけれど、あのお店では給仕に分けてもらうのが筋でしょう。
彼女がお皿を持ち上げたとき、あなたは何も言わずに、デザートのやりとりをした……あなたも同類と見なされたことを理解していますか」
「それなら、どうすればよかったというんだい?」
肩をすくめて、キザなポーズをとる。
これぞ貴公子だと、ときめいた日もあったと思い出してうんざりする。
「テーブルに置かれる前に、給仕に適量を分けてもらえばいいのでは?」
「なるほど。やはり君は頼りになるな。ぜひ、彼女の教師になってくれたまえ」
会話が元に戻ってしまったわ。ここは、ガツンと言うべきね。
「店内にいた他の方々が顔を引きつらせていたのに、気付いていらっしゃらないのですか?
ご承知のとおり、わたくしは元平民でございますゆえ、少しでも評判を損なうようなことはいたしかねます。
マナーが全くなっていらっしゃらない方と共に行動するなど、笑われる原因を作るわけにはまいりませんわ」
わざと、慇懃無礼な言葉を選んでやったのだけど……嫌味が通じたかしら?
「婚約者でもない令嬢を、フルコースのディナーにお誘いになったのですよね」
元婚約者が顔を赤らめる。
私が婚約者だった間に誘ったことすらないと思い出せたのかしら?
彼は首をさすり、言葉を探す。
「い、いや……ただの食事で……深い意味など……」
舞踏会で続けて二回踊るのと同じくらい、婚約者以外とやってはいけないと家庭教師に言われたわ!
「お茶や軽食ならまだしも、フルコースは別格ですわ。夜に、二人きりで。
個室でなければいいというお話でもないでしょう。
――翌日には社交界中に噂が広まると、考えなかったのですか?」
彼の顔色がみるみるうちに青ざめていく。
こんなに顔色が変わるということは、私の話術で追い詰められているということね?
その沈黙を、私は冷ややかに楽しんだ。
突然の叙爵、突然の縁談……どれも、私たちが望んだことではない。
押しつけられた元平民との婚約に、彼の母と彼が納得できないのはわかる。
だけど、気に入らないなら、成立する前に侯爵と宰相に文句を言ってほしかった。
私はゆっくりと椅子から身を乗り出した。
「婚約者である私よりも頻繁に、彼女とお茶会をしたのは、なぜですか?」
「そんなの、彼女が可愛いからだ」
そんな正直に答えなくても……聞きたくなかったというのは、私のわがままかなぁ。紳士なら、もう少しオブラートに包むとか、期待しちゃいました。
「では、『可愛い』ままでいいんじゃありません? 今までだって、マナーがなってなくても愛でられたわけでしょう?
だいたい、あなたたちは彼女をどうしたいの? 誰かが代表して娶るの? 皆で共有するつもり?
社交界は『集団で可愛がる女性』を『慰み者』と呼ぶそうですね」
「なんて、下品な!」
「え……あなたたちの行動が、そう見えるというお話ですけど?」
元婚約者の顔が、羞恥と怒りに染まって赤黒くなっていった。
身の危険を感じたので、机の天板の裏にある、警備員を呼ぶボタンを押しておく。
「私たちが彼女をお茶会に招待しないことを責めたわね?
他の出席者に配慮もせず食べ尽くし、傍若無人に振る舞うふしだらな女性……同席したくないからです」
彼は口を開きかけたが、言葉は出てこなかった。
「そんな彼女をたしなめない姿を、あなたたちは晒し続けてきた」
私は侍女から紙を受け取り、机の上に置く。
「これが情報屋から提供された『メニュー』です。どうかしら、当たっていて?」
一度ではない。三回も彼女と行っているなんて……涙がにじまないよう、目元に力を入れた。
「アミューズまで詳細に……誰が見ていたんだ」
――謝罪もなし、ですか。
あんな冴えない元平民じゃ仕方ないと、同情されていたのは知っている。けれど、こんなにも、ぞんざいに扱われるなんて……。
「新聞社の情報網を舐めないでください。
……で、フルコースはそれぞれお皿に分けて提供されるから気付かなかった、と?
そんな言い訳が通用すると思いますか?」
そして、社交界から孤立しつつあることも突きつけてあげる。
「最近、お茶会や夜会の招待状が減っているんじゃないですか?」
心当たりがあるようだ。
「き、君の仕業だったのかい? 僕と結婚したいからといって、そんなことをしなくても……」
「まさか! 新興貴族の我が家にそんな力はありませんわ。
浮気を許せないマダム、不誠実を嫌う家系の方々から徐々に距離を置かれ…婚約破棄のあとは宰相の派閥からお声がかからなくなった――とか?」
「そ、それは……ああ、そんな」
彼の口からは、意味のないつぶやきがこぼれた。
え……本当に気付いていなかったのかしら。なんとなく、おかしいと思っていただけ?
こんなボンクラと結婚しないですんでよかったと、心の底から思う。
思わず「宰相め、血筋だけの不良債権を押しつける気だったな?」と罵倒したくなった。
「招く側からしたら、醜聞はいりませんのよ。勝手にあの女をパートナーにして連れてこられたら、困ってしまうでしょう」
目の前の元婚約者は顔面蒼白になり、口を開けたまま呆然としている。
ご自分の行動が、家にどんな影響を与えるか、ようやくわかったのかしら。
私は一度部屋を出て、ついて出てきた侍女にあることをお願いした。
侍女はそれを執事に伝えて戻ってくるだろう。
廊下に待機してくれていた警備員に、部屋の中で待機するように頼み、一緒に戻る。
もう、堪忍袋の緒が切れた。
謝りもせず、図々しいことを言ってきた侯爵家次男に、鉄槌をくだしてやる。
後二話くらいで完結の予定です。