第8話 おばちゃん、豚天定食
ベッドでまどろんでいる佳子を残して部屋を出た。
部屋を出たというか、単に出勤しただけだ。
休み明けの詰め所の雰囲気は嫌いだ。
ナースたちがなんとなく殺気立ってる。申し送りが大変なのだろう。
それはドクター側も同じだろう。朝一番で休み中の患者の状況を把握する必要があり、月曜日の朝はいつもの朝よりちょっと厄介で、気が重いはずだ。
俺はといえば、休みにも病棟に顔を出しているから、それほど間が開いていないので気が重くはない。
さて、詰め所に入るタイミングが大事だ。
誰にも気づかれないように入って、空いているパソコンを見つけてカルテをチェックして、さらに誰にも気づかれないように詰め所を出るのだが、途中、師長に見つかると大声で声をかけてくる。
今日はうまくパソコンの前に座れたので、昨日の患者の状況をさっと確認してから、外来に降りた。
相変わらずいろんな患者が予約に放り込まれていて、総合内科って何だろう、という疑問がふつふつと湧き上がってくるのは、毎度のことだ。
「仕事中手足、唇がしびれる。胸がジーンとする。症状は出たりでなくなったりする」
という、開業医からの紹介の患者だ。
開業医も忙しいのだろうな。どう考えても、過呼吸の症状で、メンタルヘルス科を紹介すべき患者だが、忙しい診療中に、
「あなたの症状は心の病気です。精神科を受診して下さい」
と説明するとしたら10分、15分、下手するともっと時間がかかるだろうから
「診断が困難なので大きな病院を紹介します」
と説明して紹介の段取りをするほうが手っ取り早いし、そんなときにはやはり”総合内科”に紹介することになる、なんて勘ぐってしまう。
そもそも診療所も総合病院も、診療報酬の保険点数が30年以上実質的にはほとんど上がっていない、下手すると下がって来ていて、日本の医療保険制度も破綻するのはそう遠くはないだろうなんて悲観的なのは、俺だけだろうか。
とりあえず患者さんに説明しよう。
「医師の診断の手順を説明します。えーと、あなたの症状ですが、手、足、唇がしびれる、胸がジーンとする、ということですが、全部の症状を起こす可能性のある病気をいくつかピックアップするのです。単に手足のしびれだと、脳梗塞、首や腰のヘルニアや脊柱管狭窄症、ギランバレーなんかの神経内科の病気、糖尿病の神経症状、低カルシウム血症なんかですが、症状的には過呼吸が一番考えられます。それ以外はかなり否定的です。症状が出るのはいつですか」
「仕事中にしびれが出ます」
「お仕事でストレスや悩み事はありますか」
この質問で泣き出してしまった。
やっと泣き止んだのでメンタルヘルス科に回ってもらったが、院内紹介の手続きが面倒だ。こんな場合にも紹介状を書かせるのは、病院評価の紹介率に数えられるのだろうか。デカい病院は現場を苦しめることに特化しているのだろう。
いかんいかん、また無意識に心の中で愚痴ってしまったな。
休み明けの診察のしょっぱなから湿っぽい話で、診察も長引いて押して押して、結局食堂の2時のランチに間に合わなかった。仕方なくカップ麺を医局ですすりながら、学会発表の準備をした。
医局で文献検索をしようとPubMedにログインしたら、パスワードがはじかれてログインできない。正確に言うと、IDかパスワードのどちらかが違っているのだが、どっちでもかわりない。
ログインできないのでどうしようもない。
今日は何から何までついていない。
いやいや、気を許せば真夏に汗が流れ落ちるがごとく、愚痴が心にあふれだしてくる。
いかん、もう負の連鎖の闇に落ちてしまっているのか。
そうじゃない、腹が減ってるんだ、そうに違いない。
今すぐ飯を食いに行こう。急いで食おう。
学会準備を切り上げて、行きつけの定食屋に行って晩飯を食べることにした。
佳子にLINEをしたら、もう自分のマンションに帰ってしまっていた。
ビールも飲みたいので、定食屋まではのんびり歩いてゆくことにした。
もうすぐ7時、下手したら定食屋は閉めてる可能性もある。定食屋のおやじ、本当にきまぐれだから、10時まで営業していたり、6時に閉めてしまったり。
ぶつぶつ言いながら15分ほど歩いていたら、定食屋の赤い屋根が見えた。
これってなんていうんだろう、と思って調べたら、店舗用テントというらしい。
両隣の高層ビルに挟まれた定食屋、赤い店舗用テントに黒い文字で「福来軒」と書いてあり、昭和初期のお手本のような店構えだ。
中に入ると数十年使いこんだであろうテーブルがならんであり、テーブルの上にはかけ放題のふりかけがタッパーに入れて置いてある。
冷蔵庫の中から瓶ビールを自分で取り出して、テーブルに着いた。
「おばちゃん、焼肉定食」
「あいよ、スペシャル一丁」
なるほど、正確には焼き肉スぺシャルだったな。
「あいよ、お待たせ」
相変わらず早い。注文して2分43秒で熱々の焼肉定食、いや、焼き肉スペシャルが目の前に現れたんだ。お待たせしてないぜ、ばあちゃん。
壁のビールのポスターの西田敏行さんの笑顔がまぶしい。15年くらい前のポスターだろうか。
隣のポスターの演歌歌手の人は知らないな。誰だろう。
そんなくだらないことを考えていると、突然昭和の定食屋に似つかわしくない電子音が鳴ったが、私のスマホの音だ。
ナースの日高さんからのメッセージだ。
(先生、今どこにいますか。ご飯一緒に食べましょう。そっちに行きます)
いやいや、普通は(食べませんか)だろう(食べましょう)はお断りは無しの前提だな。
(福来軒で食ってる。もう料理来てるから、食べるのは7分で終わるよ)
(待ってて、今行くから)
相変わらず強引だが、待つことにした。
隣のテーブルに座ったオヤジは、小銭入れの小銭を数えてから天津飯を注文した。天津飯も尋常ではない早さで完成して、腰か膝が悪いであろうばあさんが、ゆっくり運んできた。
別のテーブルに俺と背中合わせで座った痩せたおにいさんは、聞き取りにくいくらいの小さい声で注文したが、それも2-3分で定食が運ばれ、無言で平らげて、テーブルに金を置いて、ばあさんが数えるのを見届けることもなく店を出て行った
この店はそういう店なので、何となく長居するような雰囲気ではない。決して混んでいるわけではないが、ここで待つのはなんともばつが悪く、チビチビ飲んでいたビールも危うく無くなるところで、日高さんがやってきた。
「おばちゃん、豚天定食」
「あいよ、豚天一丁」
「日高さんって、ものの道理が良くわかってるね。ウジウジ迷ってはいけないわけではないけど、すぐに決めて大声で注文するって、いいね」
こういう店では、スパッと決めてスパッと注文するのが粋ってもんだ。
「そうかな。先生、このお店の豚天定食、お勧めって言ってたから、それを頼んだだけよ。ところで先生、今日外来で患者さんを泣かせたでしょ。かわいい女の子を泣かせたって、外来師長が言ってたわよ」
「あの師長、おしゃべり好きだな。メンタルですって診断名を伝えただけだよ」
「でもね、師長、先生のこと大好きよ。メンタルですってズバッと伝えて、そのあと丁寧に理由を説明してたんでしょ。その患者さん説明の途中で泣き出したってことは、先生の言葉がうれしかったんじゃないかしら」
「精神疾患の患者さんで病識がある場合、なんとなくそうだと思いながら認めたくないことが多いから、ずばり言われたら、高率で女性は泣き出すよ」
「多分感謝してるよ、その患者さんも」
「だといいね」
日高さんの注文の豚天定食が来た。
早い、早すぎるぜ、オヤジ。すげーよ。
「ところで、このあと先生の部屋に行って呑むなんてどうかしら」
「だめー」
「ケチ」
「でも一緒に歩いてた背の高い人は部屋に入れるんでしょ」
「そりゃ彼女だからね」
「へー、彼女って認めるんだ」
「向こうには違うって否定されたけどね」
「へんなの。じゃあ、また今度、ビールもって襲撃するわね」
「来ないでください」
何だろうね、この会話。
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