第2話 近い近い、近いって
「先生、ごはん行こうよ」
「あ、ああ。」
看護師の日高友紀が唐突に声をかけてきた
このナースは5年目だ。
病棟ではしっかり患者を視てくれていて、頼りになる。
頼りにはなるが、いつも病棟で大きな声をかけてくる。
俺は詰所では無口で最低限の会話しかしないので、病棟で話しかけてくるスタッフは、このナース以外は、師長と看護助手のおばちゃんくらいだ。
なぜか看護助手のおばちゃんは、気さくに話しかけてきてくれて、そのおばちゃんはなぜかいつも飴をくれていたが、コロナ禍以降は感染の観点からだろうが、飴をくれなくなったのはなんだか寂しい。
その看護助手のおばちゃん以外で気軽に話しかけてくるのがこのナースだ。
「先生、じゃあ、着替えてくるから駐車場で待ってて」
「う、うん」
病棟で食事に誘われるとなんだかちょっと気まずいが、若い女性が食事に誘ってくれるのはまんざら悪い気はしない。
柄にもなくちょっと浮かれて、医局に戻った。
出しっぱなしのラップトップの電源をいそいで落としてカバンに入れて帰り支度をして、いそいそと病院を出た。
病院近くに借りている駐車場に着くと、日高ナースはもう私の車の横に立っていた。
「先生遅いって」
「いや、日高さんが早すぎるって」
「先生の車、耳が赤いから目立つね。おじさんが乗るの、恥ずかしくないの」
「言いにくいこと言うね。コレ、もともとドアミラーは赤いんだよ」
「へー、そうなの」
興味なさそうに返事をした。
マーチに乗り込んでエンジンをかけた。
しばらくして、レジュームがかかっていたガジェットが起動してNetFlixの映画がかかった。
「え~、ネトフリが視れるの? このナビって」
「そう、視れる」
「じゃあエッチな動画も視れるんだ」
「ああ、視れる」
「エッチな動画も視るんだ」
「うん、視る」
「へぇ~、じゃあ、この後エッチなことしようか」
「いや、しない」
「え~、なんで~、ひょっとしてそっちの人なの?」
「そう」
「先生ってなんでそんなに流れるように嘘つくの?それに、どうでもいいような嘘ばっかりつくのよね。この前、背の高い女の人と歩いてるの見たって、後輩が言ってたよ。」
「それ、妹だよ。で、ラーメンでいい?」
「妹って、先生、この前、男三人の兄弟だって言ってたよね。みんなお医者さんだって」
「で、ラーメンでいいよね」
「なんで誤魔化すのよ。えっと、ラーメンでいいよ。私ラーメン好きよ」
このナースとはいつもこんな具合だ。
男女に友情は生まれないというのが定説だが、そうなんだろうか。恋愛感情というより、そっちの感じがしてならないと私では思っているが、何となくこんな感じだ。
「どこのラーメンにする?」
この車は吸・排気系とコンピューター系のチューニングが入っている。
走りだすとエンジン音が少々大きく、ハイグリップのタイヤノイズと相まって、助手席の人との会話を精一杯邪魔してくる。
「えっ?聞こえない」
「どこのラーメンにする?」
ナースが顔を近づけてきたので、こちらも視線を前に向けたまま助手席側に顔を少し近づけると、不意に頬に触れるか振れないかのキスをしてきた。
ひょっとして触れていないかもしれないが、びっくりした
「近い近い、近いって」
「あはは、焦ってる」
「いやいや、だめでしょ、そんなことしたら」
「怒ることないでしょ」
昭和のラブコメでもあるまいし、令和のこの時代にこんなことをする若い女性がいること自体が驚きだ。
とにかく、普段病棟で無口で無表情な俺がドギマギするのが、楽しくて仕方ないのだろう。
ちょっとこってりしたラーメンを食べて、そのままナースのマンションまで送って行ったら
「本当に送ってそのまま帰るのね」
「はい、お疲れ様」
そのまま帰ったのは、職場で揉めたくはなかったからだ。
まあ、揉めなければいい話だが、揉めない自信は全くない。いや、絶対揉めるだろう。
立ち去り際に
「ちょっとかっこいいな」
と、すんなり送って帰った自分に酔いしれてしまった。
それに今日は早く帰って仕事をしたかったからで、もちろん聖人君子でもなんでもなく、普段は下心が服を着て歩いているような男だ。
それが何もせず送って行ったという、自分自身に酔いしれてしまった。
自宅マンションに着いた。
デスクトップを起動して、Google Earthを立ち上げた。
記憶していた住所を入力すると、目的の建物のEarthビューが映し出されたので、ストリートビューに変えた。
この邪鬼退治を始めたころは、車を走らせて住所に直接出向いて、車の中で寝入って患者の中に入り込んでいた。
たまたまGoogleEarthを立ち上げたまま寝入って、その状態でも精神体内に入り込めることを知ったのだが、目的の患者に入り込むきっかけは建物のネット画像でもよいとわかったのは、大きな発見だ。
第一、エンジンをかけて長時間路上で停車していたら、職務質問してくれと言っているようなものだし、燃費も悪くない。
職務質問より燃費より気がかりだったのは、なんだかニスモのチューニングの入ったエンジンにも悪い気がしてならなかった。
今回は40代の女性だ。
主訴は左下腹部で、慢性的な憩室炎か卵管炎かと思ったが、血液検査でもCTでも異常がなかった。念のため婦人科にも回したが、至急にも卵巣にも異様がないので婦人科ではないと突っ返された。
触診ではピンポイントで同じ場所を痛がり、再現性が高い。
先ほどのナースとのやり取りのせいか、寝入るのに少し時間がかかったが、寝入ってしまうととすんなりこの女性の精神体内に入りこめた。
腹腔内はすさまじい内蔵脂肪だ。大網にべっとり脂が乗っているし、腸間膜もギトギトの脂だ。腸間膜や大網が脂でギトギトという表現は、外科医なら理解してくれるだろうが、一般人や内科医には理解しにくいだろう。
入り込むといつも肝鎌状間膜に立っているのが不思議だ。ちょうどここが東洋医学でいう丹田かな?とも思ったが、丹田はへその下三寸のはずだ。
どちらにせよ、出発点がいつも同じところだとありがたい。ロケーションがつきやすい。
肝鎌状間膜の走行方向と横隔膜から頭側と尾側を認識して、胸腔内を一通り回り、腹腔内を右側から回って、最後に左下腹部に向かった。
出てきた出てきた、かなりの大型の人型のヤツだ。
「デカいな。突き、蹴りが効くんだろうか。メリケンサックでも持参すればよかったかな」
持参といっても、こちら側にどうやって持ち込めばよいかさっぱりわからない。
小説やアニメだと現実世界でアイテムにお札でも張っておけば、こちらに持ち込めるというのがありきたりな設定だろうか。
しかい、神道や仏教など、特定の宗教を信仰していない俺は、どんなお札を貼ったらいいのだろうか。
いやいや、ポケットに入れていたハバネロが、こちらでもポケットに入っていたから、身につけておけば持ち込めるのだろうな。
「メリケンサックって密林で買えるんだろうか。なんか、バタフライナイフとか特殊警棒みたいに銃刀法とかで規制されてそうだけどな。」
バタフライナイフと違って、メリケンサックと特殊警棒は銃刀法に引っ掛からないのは、あとから知ったことだ。
「さあこいよ、木偶の坊。相手してやるよ」
先日の犬型のヤツとはまた少し違った変な唸り声をあげながら向かってきた。
人間と似たような攻撃スタイルで、殴ってきたり、組み付いてきたり、噛みつこうとしたりする。
ナメクジのヌルヌルよろしく、表面が若干ヌルヌルして気持ち悪いが、直接触ってもナメクジみたいなヌルヌルがつかないのはありがたい。
殴ったり蹴ったりするが、とにかくデカいので効いている感触がない。
さて、どうしたものか。やはりメリケンサックかバタフライナイフを持参すべきだったな。
人間の様に利き腕がないのだろうか。半身に構えず向かってくるので、右の前蹴りがきれいにヤツの左下腹部に入った。
前足底がピンポイントで左下腹部にめり込んで、ヤツが悶絶を打って、最後に動かなくなった。
「なるほど、患者の不調の訴えの部分がこいつも急所なのかな。でも先日の犬型はどう説明がつくんだろう。あれはあれで脊椎をやられたからかな」
なんにせよ終わった。
しかしこんなことして一体何になるんだろうか。
父は昔、休みの日に近所の原っぱの草刈りを黙々としていた。
むろん他人の所有する土地だが、近所の子供たちが遊べるようにと、草刈りをしていた。
今思えばおかしな行為だが、俺のこの行為も似たようなものかな。
とにかく疲れた。
あちらに帰って温かいミルクティを飲んで寝よう。
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