第12話 好きなもの
午前の診察の日だ。
実は一般内科の診察は嫌いじゃない。向き不向きではなく、好きか嫌いかでいえば、外科より内科のほうが好きだ。外科医になって手術の腕が少しずつ上がって、手術を任されるようになって、気が付いた。
手術が性に合ってない。
いや、手術が嫌いだ。
外科医時代、食道癌の開胸手術中に、肺の血管を損傷して、出血がなかなかコントロールできず、最終的に8リットルの出血で何とか手術を終えて抜管待ちのとき、疲労でその場に座り込んでしまった。
その時隣の手術室で手術を終えた先輩の医師が顔を出して
「君、何リットル出血?へー、8リットルか。僕、最高12リットル、うひゃひゃ」
この時、今まで頑張ってきた緊張の糸がプツッと切れる音が聞こえた気がした。
「あっ、だめだ。外科医に向いてないな、俺。こういう感覚は持ち合わせていない。外科医の道へはこういう人たちが進むべきなんだ。手先が器用で手術が上手だからとか以外に、こういう感性の人が進むべきなんだ」
それ以来、手術の日は朝から何も食べられなくなった。
なので、手術の執刀の当日の朝は、砂糖たっぷりのミルクティーを飲むのが習慣になった。
それ以来、何となく外科医である自分に違和感を感じ始めた。
手術の出血がトラウマになったのではなく、手術という行為のプレッシャーで、手術当日に体が朝食を全く受け付けなくなった。そして手術が終わって抜管待ちのとき、手術室の隅に座り込んで、そのまま意識を失うように眠ってしまうようになった。
外科の医局をやめた最後の一押しは、件の左遷だが、それがなくても早かれ遅かれ外科医をやめていたのは間違いない。
さて、今日の診察の一人目は、甲状腺機能亢進症の再診の患者で、気心が知れているとまでは言わないが、ある程度お互いの距離がつかめているので、いろいろ話しやすい。その患者が
「先生、グルコサミンって効きますか」
「藪から棒に、どうしたんですか」
「藪から棒って、おじいちゃんじゃあるまいし。50を過ぎて膝が痛いといったら、友達からグルコサミンのサプリを勧められたんです」
「えっと、医学的に言うと効きません。効かないというか、データ的根拠が全くありません。効果を示すデータもありますが、そのデータはどれも根拠となるほどのモノはありません」
「一刀両断ですね」
「いえ、だからと言って否定するわけではありませんよ。私もサプリメントは飲んだりしますから。ただ、医師として効果はどうかと質問されると、お答えとしては効果は無いとしか言いようがありません」
「先生もサプリを飲んだりするんですね」
「はい、飲みますよ。そのグルコサミンは一か月でどれくらいの値段ですか」
「8000円くらいでしょうか」
「絶妙な値段ですね。払えないことはないけど安くはない。どの製品ですか」
二人でネットでその製品のホームページを見てみた。後ろで師長がクルクル指を回して診察を早くしと言ってる。
そんな苛立っている師長を横目にホームページを見ながら説明した。
「これを見てください。膝の関節の成分の一つにグルコサミンがあると書いてありますね」
「はい」
「膝の関節のグルコサミンが減ると痛みが出ると書いてあります」
「はい、書いてあります」
「で、この製品にはグルコサミンがこれだけ入っていると書いてありますね」
「ちゃんと書いてありますね」
「で、ここからがポイントです。じゃあ、このサプリメントを摂取したら、関節の成分のグルコサミンが増しますとは書いていませんね。それに、このサプリメントで関節の痛みが和らぎますとも書いていません」
「ほんとうですね」
「証明されていない効果を書けば、法律的に問題なんです。薬事法違反です。ここでミソなのが、人間は自分の都合の良いことを勝手に予想します。”膝にはグルコサミン” で ”このサプリにはグルコサミンが入ってる” という情報を与えると、勝手に、”じゃあ、これを飲めば膝のグルコサミンが増えて膝の痛みが良くなる” ということを勝手に想像します。」
「それじゃあ、効果がないんですね」
「でも、金銭的にご負担にならないで、気持ちが救われるなら、今飲んでおられるお薬との飲み合わせには問題ありません」
「金銭的にちょっと苦しいです。勧めている友達が副業でやっているサプリ販売なんです」
「私だったら飲みません。お断りするのは勇気がいるでしょうけど、金銭的に負担になるなら、その人と少し距離を置いたらどうでしょうか」
「先生、ありがとうございます」
「はい、いつものお薬を出しますので、血液検査をうけて帰ってください。異常があったらお電話します。お電話番号はここでよいですか」
電子カルテの表紙の電話番号を見せて確認した。
「お電話がなければ、そのままの量で飲んでおいてください」
そのあと忘れたないように、メモ帳の ”やることリスト” にカルテ番号と甲状腺Hとメモした。
後で外来師長にこっぴどく怒られた。
血液検査の結果はちゃんと再診させて伝えるべきだと。
自分一人で完結しようとしたら、確認をし忘れたときとんでもないことになると言われた。確かにそうだ。しかし、定期的な血液検査の結果だけのことで病院を再度受診させて、1時間以上まって診察は結果だけを知らせるだけの15秒、なんて、あまりにも気の毒だ。これくらいだったら電話で済みそうだが、組織としては許容しないということだろう。窮屈だな、大きな病院の傘の下での医療行為は。しかし、今後は気をつけよう。
夜は佳子と晩御飯に出かけた。佳子はウイークデイは仕事をしているようで、金曜日にこちらに来て、一緒にすごす。二人でどこかに遊びに出かけたりはあまりしないで、何となく一緒にいるだけだ。
今日も夕食のために二人で出かけたが、歩いていて、ふと頭に浮かんだ。
「佳子ってさ、何が好き」
べつにどうでもいいんだが、つい口をついて出た。
「亮ちゃんは何が好きなの」
「俺はね、真夏にキンキンに冷房が効いた寒い部屋から暑い直射日光に出た瞬間が好きかな」
「へー、そうなんだ。あたしは亮ちゃんの汗のにおいが好き」
「えっ、俺って腋臭があるんだ。自覚ないけどな」
「腋臭じゃないわ。でも、ヒトってみんな特有のにおいがあるじゃない。あたし、亮ちゃんの匂い、好きよ」
「なんだかこそばゆいな、そんなに褒められると」
「褒めてなんかないわよ。でも、亮ちゃんのこと嫌いになったら、好きな匂いも苦痛になるかもしれないわね」
「なんかショックだな」
「うふふ、私に嫌われないようにしなくちゃね。」
この後一緒に歩いていて、何となく自分の腋臭が気になって仕方がなかった。それを見透かして佳子が
「亮ちゃん、臭くないわよ。心配いらないわよ」
「いやいや、そういわれてもな。気になって仕方ないよ」
その夜はいつもの赤いのれんの定食屋で食事をした。そのあと部屋に帰って規定コースの後に眠りに就いた。
眠りに就いて気がついたら、昼間の甲状腺の患者の体内にいた。
「マジか、甲状腺機能異常が邪鬼のせいだったのか」
一通り見回ったが、ヒョロヒョロのヤツが左の卵巣あたりにいただけだった。ヒョロヒョロだけあって、ローキック一発で倒れこんで、踏みつぶしたら死んだ。。
月経随伴症候群なんかがあったのだろうか、この患者は。
踏みつぶした瞬間、元の世界に戻ると、見覚えのあるほくろの背中が見えた。佳子が壁の方を向いて眠っていた。
俺もほどなくして眠りに就いた。
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