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第10話 金曜日の憂鬱

 今日は金曜日、いつも金曜日は憂鬱だ。

 今日一日がんばったら、土日は休みでのんびりできるはずだが、憂鬱だ。

 休みといっても病棟を診て回るが、それでも休みはありがたいはずだが、憂鬱だ。


 なぜ憂鬱かというと、金曜日はいやな曜日だと深層心理の中に焼き付いているからだろう。

 そのきっかけはこうだ。


 外科医だった頃は、毎週金曜は朝7時半から医局会だ。

 よくドラマである、みんなが集まって患者の治療方針を決定するのではない。それは症例検討会といって、また別の集まりだ。そうではなく、教授以下医局員全員参加の、運営に関しての会議だ。

 全員参加といっても、外勤の当直明けで7時半に間に合わない医局員など、出席しない人も多い。


 俺の所属していた消化器外科の医局は、労働基準監督局、いわゆる労基の監査が2回入った。他の医局では、高度救命救急センターも2回目の監査が入り、指導だか警告だかが入っている。

 医局員を多数抱えている消化器外科だが、大部分の医局員と労働契約を結ばずに無償で病院で働かせていたのだから、労基の監査が入るのは当たり前だ。私も大学病院とは労働契約を結ばずに月に一度程度の無償での病棟当直と、週一度の病院外来での大腸内視鏡検査のノルマを課せられていた。

 そして、労働契約を結んでいる病棟医師も、労働時間に関していえば過労死レベルの月100時間以上の時間外労働をはるかに超えている。


 今回の医局会は、この労基の監査対策の話だ。対策といっても、特に対処方法があるわけもなく、大学病院からの予算が下りない限り、多数の医師を無償で働かせるしか膨大な仕事を回す方法はない。

 教授が言った。

「秘書に言って、出勤簿を書き換えさせなさい」

 その言葉に即座に反応して、助教授が言った。

「教授がそんな考えだから、若い外科医が育たないんです。」

 おお、さすがだ。男気がある。それに比べて教授は保身ばかりのクソヤロウだな。

 そもそも人格者では教授にはなれないのだろう。

 それにしても”全国の若き外科医の減少を憂う会”の会長を務めているこの教授が、若い外科医を大学に呼び寄せて無償で働かせていること自体が、諸悪の根源と言える。

 「そのような指示は書面で示してください」

 医局長も続いた。すごいな、こんなこと言って大丈夫なのか、医局長は。

 腐りきった医局だと思っていたが、捨てたもんではないな。



 朝の医局会から戻って、医局の机に座ってさっそくメールを送った。

「秘書さんに勤務簿を提出する前に私にコピーをください。何かのときのために保存しておきます」

「書き換える前の勤務簿を切り札にとって置こうぜ」

 と医局員全員の前で宣言したようなもので、こんなバカげた内容を、教授以下全員が読む医局メールで流したのだ。


 私はその時、医局でくすぶっている無給の医局員医師の外勤係、つまり当直や診察、カメラなどの検査の外部への派遣依頼の窓口、医局のハローワークだった。

 そんな私の立場なんて、助教授や医局長から比べたら、クシャトリヤとスードラ、いや、クシャトリアとダリットほどの身分の差があることを、私自身が全く理解できていなかった。

 クシャトリヤである助教授や医局長がバラモンの教授にモノ申すのと、ダリットの私がバラモンに盾突くのとでは、全く違う。


 助教授と医局長が教授にモノ申したのにつられて、教授に見事に盾突いた私は、一週間後の金曜日にさっそく医局長に呼び出された。

「すまんな、来月から行ってくれ。2-3年辛抱してくれ」

 この枕詞の「すまんな」がなんだかシュールだ。医局長の意に反しての人事異動なのはこの一言でわかるが、見事に場末の病院に飛ばされた。大した手術もないであろう病院であり、我々第一線の一流を自負している外科医が配置される病院ではなく、明らかに島流しだ。

 2-3年というのは、バリバリ手術ができる実働部隊をいつまでも島流しにしておくデメリットを、医局自体もわかっているのだろう。


 元々手術が性に合わなかった私は、あっさり外科医局をやめて、内科に転向することにした。

 外科専門医まで取ってもったいないという人もいるが、専門医なんて外科医のほんの出発地点だ。

 外科専門医を取って初めて、各学会の専門医や指導医を取る資格ができる。

 外科学会の専門医の次は消化器外科専門医とその次の段階の指導医、消化器病学会専門医、内視鏡学会専門医、数えきれないほどの肩書を取っておかないと、その先、ちょっとした規模の関連病院の部長、副院長、院長には就けない。

 なので、今の時点で外科医をリタイヤするのは、ちょうどよいタイミングだと思う。


 早速医局長とアポイントメントをとって、医局から抜ける旨を伝えた。ちょうどこれも金曜日だった。

 何を言われるだろうか、引き留められるだろうか、それとも罵られるだろうか、とかなり警戒して臨んだが、医局長から出た言葉は意外だった。

「おお、次に行く病院は決まってるのか。がんばれよ」

 全く拍子抜けだ。罵声を浴びせられるどころか、こちらの身の振り方を心配する様な言葉までかけてくれたので、危うく涙が出そうになった。

 ちょっとした知り合いの心臓外科医で、他の大学の医局を辞めた人は、辞めた直後は、医局員が部屋に何度もか押しかけてきて

「お前は非国民だ」

 と罵声を浴びせたという話を聞いていたので、この「がんばれよ」にウルっと来てしまった。


ということで、医局に逆らった内容のメールの送信事件が金曜日、医局長から島流しの刑を言い渡されたのも金曜日、医局を抜けた、いわゆる辞表を提出したのも金曜日だった。


 金曜日の憂鬱は、内科に転向した今でも引きずっている、ちょっとしたトラウマだろうか。

お読みいただきありがとうございます。

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