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第1話 犬の姿をしたヤツ

 患者にはいろんな主訴、つまり病状の訴えがある。

 

 複数の症状の訴えがあるとき、医師はそれらすべての症状を一度に説明できる病気を想定する。

 そして病気をいくつかピックアップして、その中で一番可能性の高いものに絞り込んでゆく過程を鑑別診断といい、視診・触診・聴診、血液検査、画像検査etcをしてその鑑別診断を一つの診断に絞り込んで確定する。


 例えば、『熱、咳、倦怠感』の場合、熱は風邪から、咳はアレルギーから、倦怠感は甲状腺機能低下症からと、一つ一つの症状の原因を別々の病気と想定しない。

 すべてを一つの原因で説明できる病気を想定する。

 もちろん、『熱、咳、倦怠感』の場合はすべてが感冒・上気道炎で説明がつく


 これは診断のストラテジーでの一元論だ。


 『熱、咳、倦怠感』を生き起こす病気として他に考えられるのは、肺結核、膠原病etc 、これらの病気が鑑別診断として挙がる。

 そこから聴診、血液検査、画像検査、その他検査を行い、一つの病気に絞り込んでゆく。診断のプロセスとしてはこのように行う。


 ただ、稀にどうしても説明のつかない症状が一つ二つ混じっていたりする。

 そのような孤立した症状は、現場では、往々にしてメンタルの症状と片づけられることが多い。

 しかし、その説明がつかない症状の中の一つには、内面に巣食う何かが引き起こしているものもごく稀にある。


 内面に巣食う何かを、俺は『邪鬼』と呼んでいる。


 俺は眠りに入ると人の精神体内の中に入り込める。

 入り込めるといっても、前述の『邪鬼』が触接診察した症状のみで、そして、俺が眠っていて、さらにその患者が俺の近くで眠っている場合に限られる。

 こんな設定はあり得ないが、そうなのだ。


 それはちょうどBluetoothの自動接続のような感じだ。

 Bluetoothの自動接続も、一番最初には一度だけ接続設定をする必要があるが、私の場合は、その接続設定は診察に当たる。


 その条件がそろえば、その患者の精神構造の中の体内に入り込めるので、その中に潜む邪鬼をdespose(処理)することができる。


 今夜も夢の中で患者の邪鬼をdesposeする。

 医師の時給の相場は2万円だが、このdesposeの治療はもちろん無報酬だ。

 そりゃそうだ。

 勝手に他人の精神体内に入り込んで邪鬼退治をするのだから。



 さて、仕事が終わって愛車のマーチに乗って患者のマンションの近くに着いた。

 カルテから患者の住所を抜き出して、その住所に行く。

 やっていることはストーカーさながら、いやいや、「さながら」というよりストーカーそのものだ。

 それに、それ以前にカルテから患者の住所を抜き出せば、個人情報保護法違反だ。

 厳密にいえば、医師は個人情報保護法より厳格な「守秘義務」で縛られているので、守秘義務違反に当たるのだろうか。


 とにかく住所は紙に書き留めたりせず、必死に暗記して、今回その記憶をたどってマンションまでやって来た。

 紙に書き留めないのは、なんとなく後ろめたい行為へのexcuse(いいわけ)だ。


 Bluetoothの接続範囲内、つまり患家の近くに到着したので、あとは患者が寝入っていれば、俺がここで眠りに就けば自然に患者の精神体内の中に入り込むはずだ。


 今日は大学の診察の当番日で、朝から15時まで休みなしに診察した。

 他の先生は俺の1.5倍の患者数の診察をこなしたと言われればつらいのだが、俺的には頑張って診療をしたので、疲労困憊状態だ。


 これだけ疲れていれば抗ヒスタミン薬を飲めば、すぐに眠ってしまうだろう。

 寝付くまでは車でネット映画でも見て時間をつぶそう。

 以前興味本位で買ったがそのまま埃をかぶっていた動画視聴のカーナビ用ガジェットが役に立つのはうれしい誤算だ。


「さて、薬を飲もう。あっ、水がないな。缶紅茶でいいか。次からはOD錠にするかな」


 抗ヒスタミン薬を飲んでほどなくして、俺は車の中で寝入ってしまった。



 眠りに就くと、あっち側で目が覚めた。そしてそれは人体の中だ。

 新鮮な生臭さが漂う見慣れた風景だ。

 手術の時にさんざん嗅いだ匂いで、生きた人体の内蔵の匂いは、一般人が想像するほど不快な匂いではなく、生臭くも無い。

 だから、「新鮮な生臭さ」という表現がちょうどよい。


 ここはおそらく精神構造の世界だが、周りの景色は手術中に見慣れた腹腔内や胸腔内の空間そのものだ。

 肝臓、胃、小腸、そして胃の裏側に回ると膵臓が背中に埋まっている。

 膵臓は後腹膜臓器と言われている。後腹膜は腹腔内ではなく、背中のスペースだ。

 後腹膜臓器は、ちょうど砂場にボールが半分埋まっているような感じだ。

 だから、お腹を開けて手を突っ込んでも、後腹膜臓器の膵臓や腎臓は手に直接触れない。

 背中にめり込んでへばりついている状態なのだ。


 最初にたどり着いたのは肝鎌状間付近だが、そこから大網の上を進むと下腹部に膀胱のふくらみが見える。

 頭側に戻って横隔膜を通り抜けると、胸腔内だ。

 開胸の食道癌手術やVATSで見慣れた光景の胸腔内には、薄皮饅頭の薄皮のような臓側胸膜に包まれた肺や、硬い心外膜に包まれた心臓がある。

 横隔膜を通り抜けるというのは、壁を通り抜けるような感覚で、意識しないで通過できてしまう。


 いつも腹腔内、胸腔内をざっと見回ってから目的臓器に向かって仕事をすることにしている。

 他の部位に異常が無いかを確かめるためだ。

 現実の診察で右下腹部が痛い患者の腹部触診では、いきなり右の下腹部を触らす、左や正中の触診をしてから右を触るのと同じことだ。


 さて、今日の患者は心窩部痛を訴えていた。

 つまりあいつらが居るのは胃かな?


「この辺りが胃だな。う~ん、それらしいのは居なさそうだ。となると背側に隠れてるのかな」


 胃の背側、背中に半分埋まってる膵臓の当たり、いたいた。


「さあ、来いよ、お前だよ、お前。そうか、言葉がわからないのか」


 今回の邪鬼は犬のような姿をしており、知能は低そうで、もちろん言葉はわからないだろう。


 高校を卒業して3年間、投げ・閉め・関節技ありのフルコンタクト空手に休まず打ち込んで初段を取った。

 その際、片手間だがボクシングや柔道も学んだ。

 その後大学で伝統空手に6年間打ち込んで、主将も任されてその流派で2段を修めたので、打撃系にはそれなりに自身がある。

 しかし、10年近く格闘技から離れているので、ジムにでも通ってもうちょっとパワーアップする必要はありそうだ。

 今後の課題だな。



 さて、犬のような姿をしたヤツは、ちょっと挑発すると直線的に突進してくる。

 いわゆる猪突猛進型の攻撃で、とうてい攻撃と言えるものではない。

 知能は低そうで、変な唸り声を出しながら低くとびかかってきた。

 払い気味のローキックを出したが、ヒットしても力が水平方向に逃げてしまう。

 蹴った感触は、ちょうどサンドバックの様だ。重い、なぜこんなに重いのだろうか。

 ただ、表面はちょっとぬるぬるしている。


「じゃあ、こうかな」


 正面から落とし気味にローキックを叩き込んだ。

 犬型の邪鬼の前頭部にカウンターでクリーンヒットして ゴンッと鈍い音がした。

 今回はローキック一発であっけなく死んだようだ。



 死んだというのが正しいのかわからないが、とにかく動かなくなった。


「これは処分しておかないと、異物として腹膜ネズミみたいになったりしないのかな」


 なんてことが頭に浮かぶ。

 まあ、単なる“念”の塊だから、異物反応は起きないのだろう。



 さあ、帰ろう。

 帰ってミルクたっぷりのフォションのアップルティーを飲んで寝よう。


 初めてこっちの世界に入り込んだ時は、帰り方がわからず若干焦ったが、もうずいぶん慣れてきた。

 こちらで眠るとあちら、つまり現実世界に眠った状態で戻る。

 こちらで強い刺激などを感じて覚醒すると、現実世界には覚醒状態で戻る。


 今回はハバネロ粉をポケットに入れて眠ったので、思惑通り、こっちの世界でもポケットにそれが入っていた。

 その粉を口に含むと、しばらくして強烈な刺激で目が覚めた。


こっちに帰ってもその激しい刺激は口腔内に残っている。


「これはたまらん、しばらく寝れそうにない」


 カレー屋でも甘口をオーダーするくらいだから、ハバネロは完全に選択ミスだった。

 次は別の方法で戻ってこよう。

お読みいただきありがとうございます。

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