㊼地下通路に逃走! バエルとバ〇ル
「ふぅ……」
薄暗い地下通路。わたしは背負った小さな赤髪の少女を床に下ろした。細心の注意を払いながら、少女の小さな身体を壁にもたれかからせる。
ヒヅキは目を覚まさない。それを確認してから、わたしは周囲を見回した。
両手を広げれば壁に手が触れるほどの細い地下通路。壁はしっかりと舗装されているものの明かりは一つもなく、暗視のスキルがなければなにも見えない。
群衆の手から逃げおおせたわたしは、身を隠せる場所としてこの秘密の地下通路を選んだ。建国際の日、ビャクヤにスラム街まで案内されたときに使用したものだ。
そうして一先ずの安全を確保し、わたしは小さなため息を吐く。
脳内は混乱しっぱなしだ。さっきの男は何者なのか? 父親と言っていたが、ヒヅキといったいどんな因縁があるのか? 世界の破壊と再生とは? わたしとヒヅキがそのためのピースとはいったい?
次々と湧いてくる疑問は尽きない。
……これからいったいどうするべきだろう。一先ず本部に戻って、ほんでビャクヤたちに今日の出来事を話して、それで……
「…ん」
わたしが思案に耽っていると、小さな呻き声を上げるヒヅキ。その瞼が小さく震え、ゆっくりと開く。
わたしは彼女に駆け寄った。
「大丈夫!? ヒヅキ! 目が覚めた!?」
赤い4つの目がわたしを見つめる。その瞳が恐怖にみるみる見開かれた。
「…こ、こないで! うっ……」
慌てて飛び退こうとして、痛みに表情を歪ませる少女。わたしは咄嗟に彼女の身体を支えるも、強い力で払いのけられてしまう。
わたしはそんな予想外のヒヅキの行動に、動揺を隠せない。
いったいどうしたの? いつも冷静なヒヅキらしくない……もしかして混乱している? と、とにかく落ち着いてもらわなきゃ!
「お、落ち着いて! ヒヅキ! ここにあの男はいないから!」
その一言に、ピタリと動きを止めるヒヅキ。しかしわたしを映す赤い目には、より一層の混乱が見える。
「…あの男って……」
「白い男のことよ。バエル……だったけ?」
少女の目がありえないものでも見たかのように見開かれる。
「…どうして? なんで覚えて……ありえない。もしかして罠……? でも……」
ぶつぶつと独り言をつぶやく少女。
……この様子を見るに、どうやらヒヅキがなにかしらの事情を知っていることは間違いないらしい。
「ねえ、ヒヅキ。いろいろと説明してくれないかな?」
「…それは……」
視線を泳がせるヒヅキ。しばしの逡巡のあと、小さく首を縦に振る。
「…分かった。でもその前に確認させて。カエデは、さっきの出来事を、あいつのことを覚えている?」
「もちろんよ。さっきの今で、忘れる方が難しいわ」
まるで操り人形かのような不気味な人々。KP310億という衝撃。そしてなにより、殺されかけた恐怖。忘れられるわけがない。
しかし納得がいかないようで、思案顔のヒヅキ。わたしは再度、問いかける。
「どうしてそんなことを聞くの?」
「…それは……あいつの能力のせい。あいつは七大罪の一人。暴食の王『バエル』。その能力は自身への認識阻害……そして認識した人物から自身の記憶を抹消し、自分のことを忘れた人物を意のままに操ることができる」
ふむ……つまりどういうことだ?
「バエルってやつのことは誰も覚えておくことができず、そして一度忘れてしまえば操り人形にされてしまう。こんな理解でいいのかな?」
「…ん、それで間違いない」
なるほど。確かにあの住民たちの様子。それにバエルの指示で現れた2体のフェイカー……雷獣とイフリート。それらを鑑みるに、ヒヅキの話には一定の信憑性がある。
しかし、そうなるとおかしい。わたしは暴食の王を忘れていない。接触し、認識しているにも関わらずだ。
現時点で考えられる可能性は……バエル自身がわたしに記憶を残した? なんのために? いやそもそも、それはありえないはず。それはバエルの最後の言葉を思い出せば証明できる。
『ヒヅキを僕の巣まで連れてきてね』
この言葉は、わたしが自身の意のままに動くことを確信していたことを意味する。なら暴食の王が、わざわざわたしに記憶を残すはずがない。
ならいったいどうして……
しかしいくら考えても答えは出ない。そこでわたしは視点を変えてみる。
そもそもわたしの他にもう一人、バエルを忘れていない人物がいる。それは……
「当然のように話してるけど、そもそもヒヅキはどうしてバエルのことを忘れないの?」
なにか考え込んでいた少女が顔を上げる。
「…わたしはあいつと血が繋がってる。だから能力が効かない」
「つまり、肉親にはバエルのスキルが発動しないってことね」
うーん……肉親……肉親か……でも関係ないよねぇ。わたしが実はバエルの肉親ってことはありえないだろうし……うーん……
……ん? あれ?
そこでふと、わたしは暴食の王という名に既視感を覚えた。なんだ? どこかで似た名前を聞いたような───
バエル……バエル……バアル……
「そうだ! 豊穣の王だ!」
「…バ……アル?」
視界の端で首を傾げるヒヅキ。それを無視し、わたしはチュイッターをポチポチ。質問投稿をすると、すぐに返信が返ってきた。それを見て、わたしは得心を得る。
「やっぱり。暴食の王と豊穣の王は同一の存在なんだ!」
どうやら豊穣の王は、もとはカナン人が崇める嵐・豊穣を司る神だったらしい。それが別の宗教で異端とみなされ、悪魔となった。そして悪魔となった豊穣の王の名が暴食の王。
つまり豊穣の王と暴食の王の関係は、互いの半身、あるいは同一の存在。憤怒の王と神の毒が兄弟同士なのと同じ関係だ。つまりわたしとバエルは肉親のようなもの。だから能力を無効化できた。そうに違いない。
そこで怪訝な表情を浮かべたヒヅキが口を挟んでくる。
「…カエデがあいつを忘れない理由は分かったけど……そもそもカエデのナイトメアスキルは傲慢の王のはず。豊穣の王っていうのは……」
「あれ? 言ってなかったっけ? わたしの2つ目のナイトメアスキルだよ」
本日もう何度目か。表情を驚愕に染めるヒヅキ。
「…2つ目のナイトメアスキル!? それはおかしい! ナイトメアスキルは1人1つが原則。2つ以上取得すれば死ぬはずなのに……!」
「ししししし死ぬってなによ!? 怖い冗談、言わないでくれる!?」
急に死ぬとか言われ、わたしも赤髪の少女に釣られて慌てふためいてしまう。首を横に振る少女。
「…冗談じゃない。1つの身体には1つの魂。これが普通。2つ持つだけでも大きな負荷がかかる。3つ以上になれば、身体が耐え切れずに死ぬことは免れない」
そんな……! 確かにナイトメアスキルがいくつ取得できるのか疑問に思ったことはあるけど……まさか1人1つが普通だったなんて。わたしが例外なの? これも傲慢の王の効果? それともわたしが異世界人だから?
……考えたところで仕方がない。いまは関係のない話だ。それよりも───
ヒヅキはいま、ナイトメアスキルではなく『魂』と言った。これはどういうことだろう?
わたしは大きく深呼吸をすると、静かな声で問いかける。
「魂って、どう意味?」
「しまった!」という風に、少女の表情が歪んだ。わたしは間髪入れずに畳みかける。
「あなたはいったい、なにを知っているの? あなたがバエルの娘ってどういうこと? 過去になにがあったの? バエルの目的って?」
黙り込む赤髪の少女。小さな拳が、ぎゅっと握られる。わたしは首を傾げ、少女の顔を覗き込んだ。
「…………あなたは、いつもそうだよね。大切なことをひた隠しにして、自分の過去についても、なにも答えない。ねえ、ヒヅキ。わたしあなたのことを知りたい。もし話してくれるなら……聞かせてくれないかな?」
ヒヅキの瞳が大きく揺れる。しかし沈黙を貫く少女。
だがわたしには彼女の心が揺れているのが、手に取るように分かった。わたしは彼女の目を真っすぐ見つめる。
「……ヒヅキ」
観念したように目を伏せる赤髪の少女。そうして小さな少女は、自身の過去について語りだした。




