㊻傲慢の王を超えし者 〇エル
「初めまして、傲慢の王。突然だけど、僕と一緒に来てもらうよ」
微笑む白装束の男。なんてことはない、普通の笑み。だがそれを見た瞬間、わたしの心臓が凍り付いた。全身の毛穴が一斉に泡立つ。本能で理解した。
──こいつは”人間”じゃない。
「…見ちゃダメ……!」
ヒヅキの悲鳴にも似た声が飛ぶ。こんなにも焦った彼女の声を聞くのは初めてだった。
直後、わたしの視界を小さな手が覆う。だが、遅きに失した。
「はははっ!」
軽やかな笑いが、耳の奥で反響する。
「もう遅いよ、ヒヅキ。傲慢の王は僕を見た」
「…バエル!」
再び視界が開けたとき、赤髪の少女が白装束の男に躍りかかっていた。抜身の小太刀が、閃光のようにきらめく。しかし男の笑みは変わらない。
余裕。あるいは確信。
──次の瞬間だった。
群衆の中から、雷を纏った獣が飛び出す。そのすぐ後を追うように、炎をまとう魔人が咆哮とともに現れた。
──雷獣。そしてイフリート。
唐突に現れた2体の幻獣は、真っすぐヒヅキに襲い掛かる。差し迫る雷と炎。仮面の少女は咄嗟に身を捩って回避する。しかし炸裂した爆発までは避けきれず、吹き飛ばされてしまう。
地面に転がるヒヅキ。そこでようやく、わたしは理解した。
わたしたちは、フェイカーの奇襲を受けている……!
すぐにわたしは手の中に爆裂キノコを生成。ヒヅキの援護に向かおうとする。
「そう身構えないでよ。べつに戦いにきたわけじゃないんだから」
唐突に背後から声を掛けられた。振り返ると、にこやかに笑う白装束の男──バエルの姿。赤い双眸がわたしの顔を覗き込む。
いったい、いつの間に背後に……!?
動揺を隠せないまま、わたしは咄嗟に赤キノコを投げつけようとする。しかしバエルの手が動いたかと思うと次の瞬間、わたしの手は壁に縫い付けられてしまっていた。わたしと壁を縫い留める白い糸。
これは……蜘蛛糸!? てことは、こいつはヒヅキと同じ蜘蛛系のフェイカー……!
グッと手に力を籠める。しかし蜘蛛糸はびくともしない。強度はヒヅキ以上か。
わたしは男を睨みつける。男の頬が一瞬、ピクリと動いた。
「その目、なんだか不快だなぁ」
「カハッ!?」
目にも留まらぬ速さで、男の手がわたしの喉を締め上げる。ギチギチと食い込む白い指。
こ、呼吸が……! 苦しい……痛い……助けて……
……え、痛い?
わたしは驚きに目を見張る。痛みなんて感じるのは久しい。それこそ傲慢の王を取得して以来だ。
まさか──
「気が付いたようだね」
バエルが楽し気に口角を上げる。
「僕のKPは310億……君を殺すことができる。だから態度には気を付けた方がいいよ」
310億……! そんな! わたしの2倍以上……!?
到底信じられない。だが喉の痛みが、それが嘘ではないと如実に物語る。視界が徐々に狭まっていく。息が上手くできない。
やば……い……! 殺される……!
死を身近に感じた瞬間は幾度もあった。ゾンビの檻に囚われた時、サタンの火に焼かれそうになったとき、サマエルの毒に飲み込まれたとき……
だがいま目の前にあるのは、それらとは比べようもないほど濃厚な死の気配。
それはもはや、”死”そのもの。
わたしを見つめる赤い双眸。首を絞めつける、冷たくしなやかな五指……目の前の男がその気になれば、わたしの命など、たちどころに消え去る運命。
いやだ……
怖い……
怖い……!
恐怖が急速にわたしの心を支配し、視界が狭く、呼吸が浅くなっていく。助けを求めて、必死に手を前に伸ばした。しかし掴むのは虚空のみ。
いやだ……助けて……ヒヅキ……!
目に浮かんだ涙が溢れそうになった次の瞬間、視界の端を赤い影が横切った。
「…カエデを放せ!」
「おっと」
男の手が離れる。どさりと地面に落ちたわたしは、ヒューヒューと喉を鳴らしながら必死に空気を吸いこむ。そうしながら視線をあげれば、目の前にはわたしを守るように立ち塞がる赤髪の少女。煤で汚れた彼女は、肩越しにこちらを振り返る。
「…大丈夫?」
「う、うん。なんとか。ありがとう」
なんとか首を縦に振る。しかし言葉とは裏腹に、手の震えは収まらない。男がその気になれば、わたしは死んでいた。その恐怖が、身体の自由を奪う。
一方、肩を竦めるバエル。
「そう睨まないでよ。ちょっと脅しただけ。殺しはしないさ。なんてったって、傲慢の王は僕の大切な手駒……忌々しいあの女への切り札なんだから」
「…カエデをあなたの手駒になんかさせない」
「もう遅いよ。それは君自身がよく知っていることじゃないか。僕はもう、その子を好きに操れる」
「…させない。いまここで、あなたを殺す」
次の瞬間、目にも留まらぬ速さで飛び出した赤と白の彗星が衝突した。2色の軌跡が絡まり合う。
いつの間に生成したのか、バエルの手には蜘蛛糸刀が握られている。その切れ味を示すかのように響き渡る、金属同士のぶつかり合う音、飛び散る無数の火花。男が哄笑をあげる。
「驚いた! 強くなったねヒヅキ。お父さんは嬉しいよ!」
お父さん!? ヒヅキの!?
わたしは目を見開いた。しかしヒヅキは男の言葉を否定する。無数の蜘蛛糸が、バエルに躍りかかる。
「…あなたを父とは認めない」
「酷いことを言うね」
バエルも蜘蛛糸で迎え撃つ。銀の糸がぶつかり合い、火花を散らす。
「まったく……たった1人の肉親に対してさ。忘れたわけじゃないだろう? その剣術も、蜘蛛糸の操作も、教えたのは僕じゃないか」
「…もちろん、忘れてない。あなたがわたしの家族を殺したことも」
なんか話がややこしくなってきたな……
バエルがヒヅキのお父さんで? そのバエルがヒヅキの家族の仇で? あぁ、もう! まったく理解が追い付かない!
わたしが戸惑うなか、2人の戦いはますます激しさを増していく。スピードと精緻な操作を武器に蜘蛛糸を操るヒヅキに対し、バエルは圧倒的物量を繰り出す。ぶつかり合い、散り散りになり、まるでダイヤモンドダストのように舞い散る銀糸。その中で間断なく響く金属のぶつかる音と、舞い散る火花。
ヒヅキの小太刀がバエルを頭上から襲う。余裕の表情で受け止める白衣の男。そのまま流れるように鍔ぜりの状態へ。
歯を食いしばるヒヅキ。家族の仇を睨め上げる。
「…今度はなにを企んでる……?」
……? バエルには何か目的があるのか?
わたしは眉根を寄せた。
そう言えばバエルは、さっきわたしのことを『あの女への切り札』と言っていた……いったい、どいうことだろう?
そんなわたしとヒヅキの疑問に、にこりと微笑むバエル。
「なに、大したことじゃない。君も経験しただろう?」
「…まさか……」
「そう。世界の破壊と再生さ」
ヒヅキの目が大きく見開かれた。少女の肩に、一段と力が入り、バエルの身体を弾き飛ばす。
宙を舞った男の身体。すぐさまヒヅキが追撃する。しかし笑いながら、少女の猛攻を捌くバエル。
「僕はこの世界にもう飽きたのさ。善意でのみ動く民衆、自分の欲を満たすためだけに行動するフェイカー、そんなフェイカーの存在をひた隠しにしようとする天使たち……最初の頃こそ面白かった。けどもう──つまらない。特に、まったく僕の思い通りにならない天使たち! 僕は僕の思った通りにならない奴が一番嫌いなんだ。だから全ての生命を皆殺しにし、世界を破壊する。そうしてから、僕の理想の世界を、もう一度作り直すんだよ!」
「…そんなことさせない! わたしがあなたを止める!」
激高するヒヅキ。男はそんな少女を嘲笑する。
「ふーん……その程度の実力で? 面白い冗談だ。ヒヅキも、ジョークが言えるくらいには成長したんだ……ね!」
ヒヅキの腹に、バエルの膝がめり込んだ。「カハッ……」と小さな呻き声を漏らす少女。その小さな身体が吹き飛び、壁に衝突する。
「ヒヅキ!?」
わたしは慌てて彼女に駆け寄る。土煙の向こうで、よろめく少女の身体を慌てて支える。
「逃げよう!? 一度態勢を立て直して、ビャクヤたちにも応援を頼んで──」
「まさか逃げられると思ってるのかい?」
ヒュッと喉が鳴る。恐る恐る視線を横に向ければ、そこには笑みを浮かべる白装束の男の姿。
まったく気配がなかった……いったい、いつの間に……?
首筋に刀が当てられる。鋭い痛みと共に、生温かいものが首筋を伝っていった。
死ぬ……今度こそ殺される……
「あ、う……あ……」
恐怖に上手く声が出せない。まるで喉が張り付いたかのよう。
そんなわたしの怯えた様子に、愛好を崩すバエル。蜘蛛糸刀がふわりと解け、地面に落ちる。
「そんなに怖がらなくていいよ。君とヒヅキ、どちらも僕の計画には欠かせないピース。殺しはしないさ」
そのまま背を向けると、手を叩いて物言わぬ群衆に声を掛けるバエル。
「それじゃあ僕は帰るから、ヒヅキを僕の巣まで連れてきてね。反抗するようなら、死なない程度に手足の2、3本、折ってくれて構わないから。あ、君もちゃんと僕の巣まで来るんだよ?」
わたしを振り返るバエル。わたしはただガタガタと震えることしかできない。しかし、頭の片隅では一つの疑問が首をもたげる。
なんでこいつは、わたしが命令を聞くと思っているんだ?
その疑問を口にするよりも早く、バエルの姿は群衆の中に消えていった。現れるときも、消えるときも唐突。神出鬼没なやつだ。
バエルが去ったことに、わたしは小さく息を吐く。しかし安心もしていられない。代わりに群衆がじりじりと、距離を縮めてきている。
ゆらゆらと揺れる、まるで意思のない人形のような人々。わたしはその群衆とヒヅキを見比べる。
バエルはヒヅキを連れてくるよう言っていた。ここで見逃された以上、殺されはしないだろう。しかしバエルの巣……そんな場所に連れていかれて、無事で済むとも思えない。
あぁ、くそっ!
震える足に叱咤して立ち上がると、わたしは凍結キノコを叩きつける。怯む群衆。わたしはその一瞬の隙を突いてヒヅキを抱えると、その場から逃げ出すのだった。




