㊲サマエルを追え! 張り巡らされた罠
神の毒を追い始めて丸一日が経った。
神の毒が通った場所は、草花や動植物が死に絶える。だから草木が枯れたところを追っていけば、敵の居場所に辿り着くはずなのだが……
「ここも死んでる……」
夕日の差し込む森の中。目の前の枯れ木に触れると、枝がサラサラと塵にり、風に吹かれていく。ただ死んでいるというよりも、腐り落ちているという表現の方が近いか。
目の前の木だけじゃない。わたしの周囲には、そんな木々が無数に存在している。青々と茂る森の中、まるでぽっかりと空いた穴のように、広範囲に枯れた木々が密集しているのだ。
ここに来るまで何度も似たような光景は見てきた。だがここは特に酷い有様である。少し向こうには、巨大な熊まで倒れている。
「あんな大きな生き物まで……」
「…きっと神の毒が長時間滞在していた場所」
周囲を観察していた赤髪の少女がわたしの独り言に応える。
神の毒が長い時間とどまれば、それだけ周囲に大きな影響を与えるということだろう。すなわち、ただ通過するだけなら葉が落ちる程度で済むが、しばらく留まった場合は周囲一帯の木が枯れるということ。
そんな荒れ果てた森の中、わたしは一本の木の前に立ち竦むビャクヤに気が付く。なにかを考え込むように、顎に手を当てる黒衣の女性。
「どうしたの?」
「うん? いや、大したことじゃないんだ。ただ周囲の様子を見る限り、神の毒はかなり長い時間この森に滞在していたように感じてね。もしかしたら敵は、わたしたちが追って来ていることに、気が付いていないのかもしれないと思って」
確かに、追われる身の人物が、悠長に同じ場所に滞在するとは考えにくい。神の毒がこちらの存在に気が付いていない可能性は高いかもしれない。
「だとしたらチャンスだよ。不意打ちで倒せるかもしれない!」
「そうだね。でも……」
しかしどこか釈然としないビャクヤの表情。そんなわたしたちを先行するブルーが呼ぶ。
「みんな、なにしてるの? 早く行きましょう!」
「あ、うん! いま行く!」
わたしは小走りでブルーに追いつくと、スマホを取り出す。スマホを操作するわたしの手元を覗き込むヒヅキ。
「…なにしてるの?」
「ちょっと調べもの」
「…調べもの? なんの?」
「それはね、サマエルの───」
「お、おい、あんたら!」
突如わたしたちの会話に割り込む男性の声。
声の方に視線を向けると、枯れ木の影から一人の中年男性が現れる。麦わら帽子を被り、つなぎを着た、一見ただの農夫のような男性だ。その男はどうやら足を怪我しているようで、破れたズボンからは痛々しい裂傷が見える。
普通なら男性に駆け寄る場面だ。しかし動くものはいない。それどころかヒヅキやブルーなど、いまにも飛びかからんと身構える始末。
まあそんな反応になるのも仕方ないと言えば仕方ない。目の前にいる男が神の毒の手の者でない保証などないのだから。もしかしたら罠で、怪我した男性を助けようと近づいたら、毒を喰らってしまう……なんてことも考えられる。
一方、そんなわたしたちの様子に困惑した表情を見せる男性。必死に助けを求めて声を張り上げる。
「助けてくれ! 足を怪我して動けないんだ! おい! なんで無視をする!? なんとか言ってくれ!」
本来なら慎重を期す場面。だけどわたしなら……
ちらりとビャクヤを見ると、黒の瞳と目が合った。頷く黒衣の女性。どうやらわたしの意図を汲み取ってくれたらしい。
それを確認して、わたしは一歩を踏み出した。「カエデちゃ……」と、ブルーがわたしを止めようとする。それをビャクヤが手で制するのを横目に映しながら、わたしは男に近づいていく。
背後からの鋭い視線を感じながら進むこと数秒。わたしは何事もなく男のもとに辿り着いた。こちらを見上げる男性に手を差し出す。
「立てますか?」
「あ、あぁ。手を貸してもらえれば、たぶん」
男の肩の下に潜り込み、「せーの」と、掛け声と共に立ち上がる。血の流れる右足を庇いながら、よろよろと立ち上がる男性。「うっ」と表情を歪ませる。
「大丈夫ですか? 痛みますか?」
「あぁ……立つことはできたが、歩くのは厳しそうだ」
「分かりました」
一先ず、男に怪しい動きはない。もしなにかされても、わたしなら問題ないと考えて接近してみたが……どうやら神の毒とは無関係そうだ。そう判断し、わたしはビャクヤに頷いて見せる。
それを見て、表情を和らげるリーダー。横のブルーに指示を出す。
「彼を背負ってくれるかい?」
「えぇ。それは構わないけれど……まさかビャクヤちゃん、彼を送って行くつもり?」
「ああ。怪我人をこんな場所に放っておくわけにもいかないだろう」
目に見えて納得のいっていないブルー。先を急がなければという焦り、怪我人を見捨てられない優しさが葛藤しているのだろう。しかし特には異を唱えず、わたしの腕から男性を受け取ると、軽々とおぶってしまう。
オカマの巨体に背負われた男性に声を掛けるビャクヤ。
「わたしたちが責任もって、あなたを安全な場所まで送り届けよう。家がどちらの方角か分かるかい?」
「ありがとう。おれの住む村はあっちだ。小一時間も歩けば着くはずだ」
そう言って男が指を差したのは、木々の枯れた道が続く方角。神の毒の通った方向だった。
視界の隅で、ビャクヤが目を細めるのが映る。しかし特に何か言うでもなく、彼女は「行こうか」と告げた。その言葉に従い、わたし、ヒヅキ、ブルーも男性の村へと足を踏み出す。
その道中、男性にいくつかの質問をした。①なぜあんな所にいたのか? そして②その足はどうしたのか? といったことだ。
それに対する男の回答は以下のようなものである。
①森の様子がおかしかったため、その調査に来ていた。
②調査の途中で転んでしまい、その際に尖った岩で切ってしまった。
とのこと。特に変なところはない。森の木々が急に枯れれば気にはなるだろうし、森の中には足場の悪いところもある。転べば大怪我を負うことだってあるだろう。
そう、変なところはない。唯一気になることと言えば、質問に答える男の声が少し震えているように感じたことくらいか。まあ気のせいかもしれないし、考えすぎかな?
そうこうしているうちに、一つの村に辿り着いた。森の中にある小さな村だ。男性に言われるまま村の中へと足を踏み入れる。
通りを進んでいくと、わたしたちに視線が集まる。ヒソヒソと囁き合う主婦たち。家の窓を「バン」と閉める村の人々。中にはこっそりとこちらの様子を窺う人たちも。総じてあまり好意的な視線ではない。どうやら歓迎はされていないようだ。
部外者に厳しい慣習なのだろうか? それとも───
「ここだ」
そうこうしているうちに、一軒の家の前に着いた。木造のなんてことはない、平凡な一軒家。男性に促されて扉を潜ると、温かい空間がわたしたちを迎え入れてくれる。ランプと暖炉に明るく照らされたリビング。中央にはテーブルが置かれ、椅子が四つ。部屋の奥には別の部屋に続くのであろう、木製の扉。そして正面のキッチンには、穏やかな雰囲気を纏った中年の女性の姿。料理中なのだろう。彼女の立つキッチンからは良い匂いが漂ってくる。
彼女は急な来訪者に驚いた様子だったが、ブルーが背中から男性を下ろすと、飛び上がってこちらに駆け寄ってきた。
「あ、あなた! どうしたんです!? その怪我、大丈夫なんですか!?」
「少しこけてしまってね。けど大丈夫だ。見た目ほど深刻じゃない。それに、この人たちがここまで付き添ってくれたからな」
奥さんに支えられながら、男性がわたしたちに感謝の眼差しを向ける。つられて視線を向けた女性。表情をはっとしたものに変えると、慌てて頭を下げる。
「主人が大変お世話になりました。ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」
彼女の目からは涙が溢れそうになっている。ビャクヤは優しい微笑みを浮かべた。
「いえいえ。お気になさらず」
「…ん、当たり前のことをしただけ」
ヒヅキも静かに頷く。そんな彼女たちの言葉に女性は、俯きながら肩を震わせる。
「それでは先を急ぎますので、わたしたちはこれで」
頭を下げ、「では、お大事に」と背を向けるビャクヤ。それに倣ってわたしたちも家をあとにしようとすると、
「あ、ちょっと待って……!」
男性が慌てた様子でわたしたちを呼び止める。振り返ったビャクヤがニコリと微笑む。
「どうかしましたか?」
「いや、なにかお礼をしたいと思ってだな……」
「お心遣い感謝します。ですが大丈夫ですよ」
「そ、そう言わず……せめて食事だけでも……な、なぁ! お前もそう思うだろう!?」
しどろもどろで言い淀む男性が、隣に立つ奥さんに視線を向ける。驚いたように肩をびくりと震わせた女性。壊れた人形のようにコクコクと首を縦に動かす。
「は、はい! ちょうど食事を作っていたところなんです。スープにパン……お肉もあります」
「…肉?」
ヒヅキが「肉」というワードに目を光らせる。
わたしもそんな少女に呆れ返る反面、食事という言葉に少なからず心惹かれる。昨日から碌なものを口にしていない身には、先程から漂ってくる甘い匂いはなかなか堪えるものがある。
グゥーとわたしの腹の虫が鳴った。
「ねぇ、御馳走になってもいいんじゃないかな?」
わたしの嘆願にも似た提案に苦笑するビャクヤ。固唾を飲む夫婦の様子を盗み見る。
「うーん……そうだねぇ……」
「待ってよ、ビャクヤちゃん。あたしたちには時間がないのよ? こんなところで油を売ってる暇はないわ」
「…ブルーの急ぎたい気持ちも分かる。けど時に休息も大事。突っ走り続けるだけじゃ、いずれ息切れする」
ヒヅキ……なんかもっともらしいこと言ってるけど、ただ肉が食べたいだけなのがバレバレである。せめて口の端から垂れるよだれを止めなさい。
わたしは天井を仰ぎ見る。しかし思いのほか、ビャクヤは赤髪の少女に賛成なようだ。
「ここまでずっと気を張り詰めてきたからね。ここらで一度、休憩を入れるのも悪くない」
「ちょ、ビャクヤちゃん───」
「君の言いたいことも分かるよ。だけど腹が減っては戦はできない。わたしたちの目的達成のためにも、休憩は大切だ」
下唇を噛むブルー。しかしそれ以上は言い返さない。リーダーの意見ももっともだと、頭では理解しているのだろう。それを確認してから、夫婦に向き直るビャクヤ。
「ご迷惑じゃなければ、ぜひご馳走にならせていただきます」
その返答に、夫婦はほっと胸を撫でおろす。しかしやはりブルーは納得いかないようだ。
「やってられないわ! あたしは外で待ってる!」
そう言って出ていってしまう。
「あ、ブルー!」
「好きにさせてやれ」
慌てて後を追おうとするが、そんなわたしの肩を掴むビャクヤ。わたしは後ろ髪を引かれながらも、渋々引き下がる。
それから数分後、テーブルを囲んだわたしたちの前には豪勢な食事が並んでいた。鹿肉のロースト、山菜の素揚げ、パン。まだ出てきてないが、台所では奥さんがスープの準備もしている様子で、食卓まで良い匂いが漂ってきている。
「いただきます」と手を合わせるビャクヤとヒヅキ。わたしもそれに倣って手を合わせると共に、鹿肉を口に運ぶ。しかしブルーのことが気がかりで、あまり味がしない。
2,3口食べた後、わたしはバスケットのパンを2つ掴んで席を立つ。
「ちょっとブルーの様子を見てくる」
家の外に出ると、すぐ横に巨漢のオカマが腕を組んで壁にもたれかかっていた。ブルーはわたしに気が付くと薄目を開ける。
「もう休憩は終わった?」
「いや、まだだけど……これ」
わたしはおずおずと手に持ったパンを差し出す。そのパンをじっと凝視するブルー。
「やっぱりなにも食べないのは良くないと思って。だからこれ、ブルーの分……余計なお世話だったかな?」
「ううん。そんなことないわ。ありがとう」
首を横に振り、小さく微笑むブルー。なんだか久しぶりに見る、彼女の笑みだった。
「優しいのね……あたしの娘も、カエデちゃんみたいに優しい子だったわ」
パンを齧りながら、ブルーがぽつりと零す。彼女は酷く遠い目をしていた。わたしは思わず聞き返してしまう。
「娘さんはサマエルに……?」
「……そうとも言えるし、違うとも言える。前に話したわね。あの子を殺したのは、あたしなの」
たしかサマエルの毒に苦しんで死を待つだけだった娘を、楽にしてあげるために自ら愛娘を手にかけたんだったか?
わたしは毅然と、首を横に振る。
「違う。そんなのサマエルが殺したも同然だよ! ブルーは悪くない。だって娘を苦しみから救ってあげるためなんだから……もしわたしがブルーの立場でも、同じ選択をするよ」
「ありがとう……でも、悪いとか悪くないとか、間違ってるとか正しいとか、そういう問題じゃないの。あの子の心臓を刺した感触が、いまも手に残ってる。あの子の最期の表情が、脳裏に焼き付いて離れない。あの子を失った悲しみ、後悔。それらが棘になって、あたしの心に深く、深く突き刺さってる…………そんな苦しみを誤魔化すために、サマエルを憎んで、恨んで、憎悪して……あの子が死んでからの時間すべてを、復讐のために費やして、でもサマエルを殺すことはできなくて、そんな自分の無力さが嫌になって……でもいまさら立ち止まることもできなくて……」
初めて、ブルーの心の一端に触れた気がした。想像するしかない。だけど、それだけで分かる。彼女の深い、深い絶望が。
愛娘を手にかけ、仇を憎み、憎み、憎み、それだけを糧に10年以上も過ごすのがどれだけ辛かったか、苦しかったか。これまで見てきた彼女の笑顔の下に、どれほどの憎悪の炎が燃えていたのか。その炎がどれだけ彼女の身を焼いたか。それらを慮り、わたしはとてもやるせない気持ちになった。なんて声を掛けたらいいだろうか。浅い慰めの言葉など、彼の心には響かない。
わたしがどう声を掛けたもんかと悩んでいると、ブルーは小さく笑った。こちらに顔を少し傾ける。
「ごめんなさいね。せっかくパンを持ってきてくれたのに、こんな湿っぽい話をして」
わたしの頭を優しく撫でるブルー。その大きな手の温かさに、なんだか泣きそうになってしまう。ブルーの愛情の籠った瞳。わたしと死んだ愛娘を重なているのか……
「ううn───」
ガシャ───ン!
「ううん、そんなことない。ブルーのことを知れて良かった」と言おうとしたのだが、わたしの言葉は家の中から響いた食器の割れる音に遮られた。
何事!?
慌てて2人で家に飛び込むと、目に飛び込むのはひっくり返った食卓。そして男の首を掴み、女性とは思えない腕力で持ち上げるビャクヤの姿。
わたしはそばのヒヅキに尋ねる。
「な、なにこの状況? なにがあったの?」
「…スープに毒が盛られてるって、ビャクヤが」
ドク……? どく……
「毒!?」
ど、どういうこと!?




