㉔お祭りだよ! 全力で楽しもう!
「建国際に来たぞー!」
「…来たぞー」
太陽が天頂に届くころ。わたしは溢れんばかりの人ごみを前に拳を突き上げていた。横ではヒヅキもわたしを真似て、控えめにだが拳を掲げている。
周囲を見回せば笑顔の人、人、人! 通りには屋台が立ち並び、肉を焼く香ばしい匂いや、種々の香辛料の香りが鼻孔をくすぐる。さらに少し向こうには屋外スタジオらしきものが見え、いまはフェスをやっているようだが、他にも色々な催しものをする様子。
ザ・祭り! その賑やかさに自然とわたしのテンションもぶち上がる。
「よっしゃ、行くぞ! ロリッ娘!」
「…おー! だれがロリッ娘じゃいハゲ」
同時に駆け出し、人の群れに突っ込むわたしとヒヅキ。そんなこんなでしばらくのあいだ屋台巡りを楽しんでいると、少し風変わりな屋台を見つけた。赤いカーテンを基調とした屋台で、どうやら紙芝居をしているらしい。ピエロの格好をした話者が、子供やその保護者らしき大人たちを前に紙を捲っていく。
内容は……
「極楽の神は池をお覗きになりました。その池の下は丁度、地獄となっており、そこには生前、悪逆の限りを尽くした非道な男がいたのです。しかしその男も生前、一つだけ善い行いをしておりました。それをお思いになった神は、地獄で藻掻くその男に救いの手を差し伸べることにしたのです。丁度、池の蓮には一匹の……」
なんか聞いたことあるな……確か〇川龍之介の……
「一匹のアラクネがおり、傍には美しい銀の糸がかかっています。神はアラクネの糸をお摘みになると、地獄へ向けて真っすぐとお下ろしになりました。さて一方、地獄では……」
アラクネ!? 蜘蛛じゃなくて!?
わたしの知っている話との違いにちょっと驚くが、よく考えればここは異世界。まあそんなもんだろう。むしろ、この世界に日本の名文学に似たものがあることを驚くべきか……
そこでわたしはふと、ヒヅキがいなくなっていることに気が付いた。慌てて周囲を見回せば、少し向こう。大層な行列のできた屋台の前で揺れる赤髪が見える。
あいつ……勝手に動きおって!
ヒヅキの身勝手さに少し腹立たしさを覚えながら、焼き鳥片手にそちらに向かうと、なにやら甘い香りが鼻をくすぐる。なにを売っているのかと覗き込み、わたしはぎょっと目を見開いた。
「ク、クレープ!?」
この世界にはないと思っていたスイーツに、思わずド肝を抜かれる。そして、その屋台の主を見てわたしはさらに驚きの声を上げた。
「ブルー!?」
「あら、カエデちゃん。それにヒヅキちゃんも、いらっしゃ~い。ご注文は?」
「…ん。スーパー・ミラクル・スーパー・エクセレント・ザ・クレープを1つ」
「あらぁ、ラッキーねヒヅキちゃん。スーパー・ミラクル・スーパー・エクセレント・ザ・クレープは数量限定で、ちょうど最後の一つなのよ~。せっかくだからお姉さん、サービスしちゃう~!」
そう言ってクネクネと奇妙な動きで、クレープに具材を包んでいくブルー。その横からひょっこりと、ピンクの頭が現れる。
「あれ、ヒヅキさん? お祭りに来るなんて珍しいね」
「…ん。カエデに誘われたから」
「なるほどー」
「ちょ、ちょっと待った」
普通に進む会話について行けず、わたしは間に割って入った。
「なんでブルーとモモがいるの?」
「なんでって、もちろん売り上げ1位の屋台になるためよ~」
「う、売り上げ1位? どゆこと?」
わたしが首を傾げると、モモがクレープ生地を焼きながら説明をしてくれる。
「建国祭では毎年、売上1位の屋台に豪華景品が贈られるんだ。ぼくたちはそれを目的に毎年、建国際で屋台を出店してるんだよ」
「あとは単純に、一人の料理人として腕が鳴るのよね~」
「さ、さいですかぁ……」
祭りに参加って、普通に屋台巡りしてるのかと思ったら……まさか屋台の運営側だったとは。予想外でびっくりである。だってナイトクランって裏組織よ? 目立たないようにお忍びでの参加だと思うじゃん。それが屋台運営して思い切り目立ってるとか予想できんて。
というかひょっとして、ビャクヤやライトも屋台を出店していたりするのだろうか? ちょっと気になる。
「他の二人はなにしてるの? お祭りに参加してるって聞いてるけど」
「ビャクヤちゃんは知らないけど、ライトちゃんならあそこよ~」
ブルーの指差す方に視線を移す。しかしライトの姿はない。お面屋さんがあるだけだ。
「え? いないけど?」
「…よく見る」
「……?」
首を傾げながら目をよく凝らす。すると、
「ん……? は? えぇっ!? ライトの顔がお面の中に!?」
お面が並ぶ商品棚。そこに笑顔を浮かべたライトの顔が並んでいた。
「なにしてんのあいつ!?」
「美女が自分を買ってくれるのを待ってるんだってさ」
「アホなの!? 完璧で究極のアホなの!?」
よく見れば、綺麗な女性が前を通過するたびにライトはウインクをしてアピールしている。なにあいつ、キモォ。
「はい、スーパー・ミラクル・スーパー・エクセレント・ザ・クレープよ~」
そうこうしているうちにクレープができたらしい。クリームや果物のたっぷり入った、自身の顔よりも大きなそれをブルーの手から受け取るヒヅキ。
「…ん。ありがとう。会計はカエデが」
「なんでだよ! 自分で払え!」
「…VP持ってない……お願い。一口あげるから」
「いらないよ!」
そう言いつつも結局は払ってあげちゃうわたし。トホホである。まあ約束通り一口貰うけど。パクッ、もぐもぐ……あら、美味しい。
ザワザワザワ……
その時、周囲が急に騒がしくなった。なにがあったのかと思えば、人垣が二つに割れて、その向こうから白の法衣を纏い、丸々と太った中年の男が現れる。マッシュヘアと同じ色の茶色いちょび髭を生やしたその男の背後には、御付きであろう色白の女性が三人。
その一団は並んでいる客たちを押しのけながらこちらに歩いてくる。そうしてでっぷりと肥えた腹を揺らしながらわたしたちの目の前で立ち止まると、尊大な態度で人差し指を立てた。
「スーパー・ミラクル・スーパー・エクセレント・ザ・クレープを一つ貰おうか」
「申し訳ございませんお客様~。そちらは数量限定商品となっていまして、たったいま売り切れてしまったところなんですよぉ」
見事なビジネススマイルとともに頭を下げるブルー。そんなオカマの言葉に男は憤慨する。
「なんだとぉ!? とても甘く珍しいスイーツがあると聞いたからせっかく来てやったと言うのに! ないとはどういうことだ!」
「そう言われましてもぉ。申し訳ございません。代わりにこちらの商品などいかがでしょうか? こちらも甘くて美味しいですよ~」
そんなやり取りを見ながら、わたしは男のクレーマーじみた態度に苛立ちを覚える。そもそも突然現れて、並んでた客を押しのけてクレープを買おうなど言語道断だ。わたしは堪らず声を上げる。
「ちょっとすみません。ブルー……じゃなくて店員さん困ってるじゃないですか。売り切れは売り切れなんですから、諦めて他の商品にしたらどうです? というかそもそもおじさん、順番待ちしてる人の列が見えないんですか? クレープを早く買いたいのは分かりますけど、最低限のマナーくらいは守って下さいよ」
「あぁ? なんだこの小娘は」
おじさんがいまさら気が付いたようにわたしを見ると、威圧的な目で見下ろしてくる。しかしわたしは怯まずに言い返した。
「わたしが誰かなんてどうでもいいですよね。それよりもおじさんは店員さんを困らせないし、割込みせずにちゃんと列の後ろに並んでください」
「うるさいうるさい! そこをどけ! 小娘が!」
わたしを押しのけようとする太った男。その時、わたしが持っていた焼き鳥が男の法衣に触れ、白の生地に茶色い汚れが付いてしまった。そのことに気が付いた御付きの女性の一人が悲鳴を上げる。
「なんてことを! 神聖な法衣に汚れが!」
「うん? あ……あぁ!? なんてことをしてくれるんだこのクソ女が!」
「それはあなたがわたしを無理に押しのけようとしたからでしょうが!」
自身の服に着いた染みを見て悲鳴を上げるおじさん。言い返すわたしに顔を真っ赤にしながらプルプルと震えたかと思うと、怒号を上げる。
「そもそもおまえはさっきからなんなのだ! 我の邪魔ばかりしおって! 我がグレゴリー3世と知っていての狼藉じゃあるまいな!?」
誰よ、グレゴリー3世って。有名な人?
わたしが困惑していると、ブルーが背後から耳打ちをしてくれる。
「彼は世界一の勢力を誇る宗教、ミトス教のトップ……教皇様よ」
「まじか……」
ただの嫌なおじさんかと思ったらめっちゃ偉い人やん……それなら周囲の人達がやけに大人しいのも、ブルーが迷惑客に対して丁寧に接していたのも頷ける。そしてわたしはそんな人をおじさん呼ばわりしたどころか、喧嘩を売ってしまったわけで……
わたしの額に冷や汗が浮かぶ。そんなわたしの様子を見て、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる教皇。
「自分の立場がようやく分かったか? ん? 今すぐ謝罪すれば、これまでの無礼な行いを許してやらんこともないぞ? どうする?」
「…………すみませんでした」
こんな傲慢デブに頭を下げるのは癪だが、ここで事を荒立てるほどわたしは愚かじゃない。長いものには巻かれろの精神だ。わたしは素直にこれまでの行いを謝罪する。しかしグレゴリー3世はそれだけでは満足しないらしい。
「聞こえんなぁ? うん?」
このクソジジイ……
「すみませんでした……これでいいですよね?」
「あー、全然ダメ。まずその帽子は脱がないと」
そう言って教皇はわたしが被っているオレンジ色のニット帽を指差す。
「目上の人に対しては帽子は脱ぐのが礼儀だ。そのうえで、地べたに這いつくばりながら謝罪するというなら許してやろう」
「お、お客様! それはあまりにも……」
「ええぃ、黙れ! これは我とこの小娘の問題だ! 屋台の店主ごときが口を挟むんじゃない!」
ブルーがわたしを庇ってくれようとするが、グレゴリー3世の怒声がそれを遮る。
そのやり取りを聞きながらわたしは、教皇の要求に拳を強く握りしめた。このニット帽を脱ぐのは絶対に嫌だ。周囲には集まってきた野次馬の目もある。そんな大勢の人の前でツルツルの頭部を晒すなんて、そんなの一人の女として死んでも御免だ。
だけど相手はこの世界でも有数の権力者なのも事実。要求を飲まなければなにをされるか分かったもんじゃない。ましてや暴力に訴えるなんて言語道断。
わたしがその葛藤に揺れていると、教皇はニヤニヤしながらわたしを見下ろした。
「なんだ? 帽子が脱げない理由でもあるのか? コブがあるとか? それとも禿げているのか? わははは! まさか若い女子がそんなこともあるまいな!」
ゲラゲラと下卑た笑い声を上げるデブ男。わたしは屈辱に歯を食いしばる。しかしどうすることもできず、仕方なくニット帽に手を伸ばして───
「…ん」
「な、なんだこのガキは!?」
突如、自身の持ったクレープを教皇の目の前に突き出すヒヅキ。少女の奇行にたじろぐグレゴリー3世に、仮面の少女はさらにクレープを突き付ける。
「…これをあげる。代わりにカエデを許して」
「ヒヅキ……」
わたしを守ろうとして……
感動にわたしの胸が打ち震える。
一方、そんなヒヅキの言葉に教皇はギリギリと歯を鳴らす。
「そんなもので我は────」
「…カエデを許してくれたらあげる。だけど許してくれなかったらわたしが食べる。これ、欲しかったんでしょ?」
そこでクレープとわたしを交互に見るデブ男。「チッ……」と舌打ちをすると、ヒヅキの手からクレープを奪い取り、わたしをギロリと睨みつけた。
「今日はこのクレープに免じて許してやる。だが次はないと思え!」
そう捨て台詞を吐くと、教皇はその場をあとにした。それを皮切りに、集まっていた野次馬たちも解散していく。そんな中、真っ先にわたしに駆け寄って来るブルー。
「大丈夫!? カエデちゃん?」
「あははは……大丈夫」
わたしはグイッと顔を近づけるオカマに力ない笑みを返す。
「ごめんなさいね。守ってあげられなくて」
「ぼくもごめん……どうしたらいいか分からなくて……」
「ううん、気にしないで。もしわたしが逆の立場だったら、二人と同じようになにもできなかったと思うし」
ブルーとモモの謝罪に、ゆっくりと首を横に振って応える。続けてわたしはヒヅキへと視線を移した。
「ありがとうね、わたしを守ってくれて」
「…ん。感謝するといい」
ずいッと胸を張る少女。実に彼女らしい返答だ。わたしはそんな仮面少女に苦笑い。するとヒヅキがわたしに手の平を差し出す。
「どうかした?」
「…お礼を要求」
「あぁ。なにか奢れってことね」
それくらいまぁいいかな……
しかしそんなわたしの思いに反して「…違う」と首を横に振るヒヅキ。
「…一緒にお祭りを楽しむ。それがお礼」
わたしはその言葉に目を丸くする。きっと彼女なりにわたしを気遣ってくれているのだろう。その少し不器用な優しさが嬉しくて、わたしの頬には自然と笑みが刻まれる。
わたしは小さく頷いた。
「ん、了」
「…あ、わたしの真似した」
「してないです~。自意識過剰~」
「…むぅ」
可愛らしく頬を膨らませるヒヅキ。そんな彼女の手を取ると、わたしは通りを駆けだす。
「ほら! はやく行こう! 祭りで嫌なことは吹っ飛ばしちゃおう!」
「…ん。了」
小さく微笑み返すヒヅキ。
それからわたしたちはあらゆる屋台を巡った。陶芸屋、毛皮屋、服屋など、様々な屋台を見て回る。タンスや机などの木製品屋に立ち寄った際には、ヒヅキがタヌキに似た奇妙な置物を買おうとして必死に止めに入ったものだ。
当然、豚の丸焼きを始めとした飲食店にも立ち寄った。鮭のクリームシチューやベーコン、ハム、ホットドッグ、ソーセージ、果てはパスタまで、VPに糸目を付けずに買い食いしまくった。こう並べてみると、かなり肉に偏っているのが分かる。まあヒヅキチョイスなので仕方ないのだが……しかしヒヅキの食いっぷりには相変わらず驚かされてばかりだ。
また、珍しいところでは香料屋に寄った。香水やアロマなどを売っている屋台なのだが……ハーブの香りを嗅いだヒヅキの表情が傑作だったのが印象深い。目をギュッとつぶり、口は酸っぱいものでも食べたかのように窄められて───普段から表情の変化に乏しいヒヅキの貴重な変顔だ。もちろん写真は撮った。あとで皆に見せてあげるとしよう。
そうして楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、気が付けばオレンジの夕日が街を照らしている。
帰るにはちょうどいい頃合い。わたしはヒヅキと二人、帰路についた。祭りは夜まで続くため、まだまだ人は多い。そんな人混みの中、わたしとヒヅキは肩を並べて通りを歩く。
「今日は楽しかったね」
「…ん。楽しかった。また来よう」
ちらりと横目で見ると、夕日に照らされたヒヅキの口元には微かな、しかし確かに満足げな笑みが浮かんでいる。どうやら心の底から楽しんでもらえたらしい。少女の満ち足りた笑みを見つめたわたしの心にも、じんわりと温かいものが拡がる。
「そうだね。また一緒に来よう」
わたしは目一杯の笑顔と共に、大きく頷いた。その時だった。
ガッ
誰かがわたしの手を掴み、そのまま引っ張る。突然のことに抵抗する間もなく、わたしはそのまま路地裏に引き込まれてしまった。人混みのせいでヒヅキともはぐれてしまう。
慌てて犯人の方を振り返って、わたしは驚きの声を上げた。
「ビャクヤ!?」
「やぁ、突然すまないね」
驚くわたしに反して、にこやかな笑みとともに応える白髪、眼帯、黒コートの女性。突然のことにわたしは戸惑いを隠せない。
「な、なんでここに?」
「まぁまぁ……ちょっと付いてきてくれるかな」
ビャクヤはわたしの質問に答えることなくそう言うと、わたしに背を向けて路地の奥へと歩を進める。わたしは薄暗い路地裏に躊躇するが、結局はビャクヤの背中を追って路地奥へと進んだ。
「建国際は楽しめたかい?」
歩きながら、こちらを振り返ることなく話かけてくるビャクヤ。
「え? う、うん。すごく楽しかったよ」
「それは良かった。途中で面倒ごとに巻き込まれていた様子だったけど、それは大丈夫だったかい?」
「あぁ、グレゴリー3世とかいう教皇のこと? 大丈夫だったよ。ヒヅキが助けてくれたから。てか見てたならビャクヤも仲裁に入って欲しかったよ」
「あははは、ごめんごめん。だけどわたしは一応、祭りの裏でフェイカーが暗躍することを防止するために来ていたからね。あれは管轄外だよ」
ビャクヤが祭りに来た目的は仕事だったのか。ならわたしを助けられなくても仕方がない……のか?
微妙な表情を浮かべるわたしを置いて、木造の小さな小屋に入るビャクヤ。床の一部を外したかと思うと、地下へと続く階段を降りていく。わたしもそれに続いた。
階段の先は地下通路になっていた。両手を横に伸ばせば壁に手が触れるくらいの幅の細い通路だが、壁はしっかりと舗装されている。わたしの前を行くビャクヤが持ったランプの明かりがゆらゆらと揺れ、わたしたちの影を壁に映す。
「しかしヒヅキが祭りに来るとはね。驚いたよ。カエデが誘ったのかい?」
「うん。誘ったら二つ返事で了承されたよ。正直、わたしもびっくりだった。だってあの子って、基本的に外出したがらないじゃん?」
引きこもり少女の顔を思い描きながら頷くわたし。しかしビャクヤの返答は「うーん。そういうことじゃないんだよね」と、どこか歯切れが悪い。
「え、違うの?」
「そうだね……カエデは知らないかもだけど、ヒヅキはあまり人付き合いのいい方じゃないんだ」
うん、べつに意外でもなんでもない。むしろイメージ通りだ。
「実際、これまでは誰が誘っても祭りに来ることはなかったんだよ。そんな彼女が、カエデが誘った時だけ祭りに来た。どういう風の吹き回しだろうね」
「さあ? 気まぐれじゃない? ヒヅキって割と気分屋だし」
「あはは。そうかもね。ところで……」
そんな他愛のない会話をしながら歩くこと数十分。階段を上るとわたしたちは小さな小屋の中に出た。そしてビャクヤに付いて外に出ると、猛烈な悪臭が鼻を突き、わたしは咄嗟に鼻を抑える。
そのまま周囲を見回して、わたしは絶句した。
「これは───」
目の前にはスラム街が拡がっていた。いや、スラム街よりも酷いかもしれない。寒さはおろか、雨風さえ防げないだろうボロボロの家屋。人々は痩せこけ、肌は土気色。ろくに風呂にも入れていないのだろう。壁に寄りかかる人の周囲には小蠅が飛び交っている。さらに通りには人々の糞尿が垂れ流されており、凄まじい悪臭が周囲を覆っていた。
その光景に思わずわたしはえずいてしまう。そんなわたしの身体を支えてくれるビャクヤ。真剣な眼差しで目の前の景色を見つめる。
「この国は一見、幸せそうに見える」
そうだ。この世界は優しさと善意で回っている。そのため貧しい人に施しを与えてくれる人は多い。だから貧しくても、最低限の生活は保障されていると思っていた。けれどこれは───
「けれども目の前の人たちのように、とても人とは思えないような生活をしている人たちが一定数は存在している。君にはそんな現状を知っておいて欲しくてね」
わたしはもう一度、視線を前に向けた。やはり、とても人間が生活できるような環境ではない。垂れ流される汚物、ぼろぼろの小屋。こんな環境では伝染病、飢え、寒さ───いずれにしろ長くは生きられないだろう。いや、そもそも彼らは生きたいと思っているのか? 濁った眼を見るに、とても生に執着があるようには見えない。
わたしは吐き気を堪えながら顔を上げると、ビャクヤに問いかける。
「これを見せて、わたしにどうしろって言うの?」
「べつになにも。言ったろう? ただ君に、この現状を知って欲しかったと。それだけだよ」
そう言ってニコリと微笑むビャクヤ。その笑顔の裏になにか薄ら寒いものを感じ、わたしは小さく身震いするのだった。




