黄昏の日々
───1999年、6月
今年、中学二年生のボク、木高泰美は、進路どころか人生を見失っていた。
当然だろう。
向上し続ける技術力、拡大を求められ続ける供給力、ならば本来は減り続ける労働者需要、なのに一方で進まない設備投資、結果として広がり続ける雇用ギャップ、国内の経済規模を削り続ける税と、それを容認する無知な国民……
それで一体どうやって『将来の夢』なんて描けって言うのさ。
おかげで『将来、社畜になるための』授業にも身が入らず、学校をサボる事も多かった。
この国は間違いなく衰退して行く。
そして、それを誰に語ったところで『想像力が豊かだね』などと一笑に伏されるだけなのだ。
ボクが何の力もない一介の中学生に過ぎないから。
もちろん、幼なじみで親友の上川などは聞いてだけはくれる。
でも、真面目に取り合ってくれてるかと言えば、そういうわけでもない。
「ふむ、であればクーデターなり何なり起こして、一気に変えてしまうしかないではないか」
「……だったら自衛隊が近道だろうね」
「うーんむ、しかし自衛隊ともなれば規律も厳しかろう。やろうと思って動けるものだろうか」
「……ボクが見るに自衛隊は安寧で腐り始めている。そのうち、また射撃訓練中の発砲事件でも起きたりするんじゃないかなぁ? 内部に組織を作ってしまえば、自浄作用は働かないだろう。気を付けるべきは公安くらいなものだよ」
「むむむ、目的には都合が良いとは言え、我が国の平和を守る組織がそのようになっているのは複雑な気分だな」
「……まさか本当にやろうとか思ってないよね?」
「何を言う、祖国のために、やるとなればやる男だぞ俺は! ガハハハ!」
「……一応、友人に危険な事をされたらと心配なんだけど」
なんて、中学生同士のバカ話で終わるだけ。
ボクが大人になる頃には、この国は今より酷い状況になってるだろう。
だと言うのに……
何とはなしに窓の外を眺める。
2階の教室からの、変わらない景色。
男女二人で下校する姿なんかも、少しいる。
暗澹たる未来しかないのに、よくもまぁ恋愛なんてしてられるものだ。
少なくともボクは、誰かに将来の幸せを約束してやれる自信なんて無い。
……まぁ、それ以前に『自分の問題』として、一般的な恋愛関係というのを考え難いのでは、あるけれども。
気を利かせたのか、上川が言った。
「コダカ、そろそろ帰るか」
「……うん」
「ヤスミ!」
声に振り返る。無視なんてできない。
だって……
セーラー服にショートヘアの女子生徒。
顔で言えば……まぁ……普通?
可もなく不可もなくっていうか、でもそれが逆に……いやいや、何考えてるんだか。
名前は、咲山千寿。
けどボクは、
「……センジュ……何?」
「今帰るトコか? 間に合って良かった! この前借りたやつ返そうと思って」
「そう。ありがと」
「それとな? オレ、買っちゃたんだ。じゃーん!」
「ぇ、それっ、『カーマインの消失』!? 最新刊だよね!?」
「うん! で、もう読み終わってるから貸してやろうかと思って」
「いいの!? ありがと!」
上川ほど前からの付き合いじゃないけど、センジュも同じ小学校からの入学で、一年からの友達だ。
いつも気さくに話しかけてくれて、同じ小説シリーズが好き。
中学生の小遣いなんて、たかが知れる。
『ほしい物』だって、小説ばかり買ってもいられない。
だから、センジュが持ってない巻をボクが貸して、ボクが持ってない巻をセンジュが貸してくれる、そういう約束をしていた。
「……たしか『プロンプト症候群』持ってなかったよね? 明日、持って来るから」
「お、マジか! サンキュー! けど、もう読み終わってんのか?」
「うん、大丈夫」
本当は、まだラストまで読めてない。
けど、そんなのは返してもらってから読めば良い。
センジュに限って借りパクなんて、するわけないし。
それよりも、感謝というか、気持ちに応えたいというか、
その、少しでも……
明るくて頼もしいセンジュは、ボクの憧れだ。
いつぞや廊下を歩いていた時、クラスでも不良として有名な山田が、たまたま虫の居処が悪かったのか、突然ボクを突き飛ばしてきて……
「フラフラ歩いてんじゃねぇぞヒョロチビ」
ガチのケンカにならないよう、わざわざ気を遣ってボクは言った。
「……いきなり何するのさ。冗談キツいな」
だけどアイツは愛想笑いが逆に気に入らなかったらしく、
「おぅ、何だ? ヘラヘラしやがって。やろうってのか」
……いい加減ボクも頭にキて、
(……そんなに命のやり取りしたいなら、殺してあげようか?)
つい、ポケットのリスカ用カッターに手を触れた。
だけど……
「よ! ヤスミじゃん! 何してんの?」
山田は「……チッ」と舌打ち一つ、去って行った。
物怖じしない人で、場合によっては突っかかって行く、けど一応女子のセンジュは、カッコつけたい連中にとっては対応に困るタイプだった。
それを見送ったセンジュは、
「……でさぁ!」
恩着せがましい態度も見せず、さも『ただ本当に話しかけただけ』みたいに話し始めた。
助けてくれたのは、丸分かりなのに。
……うん。正直に言えば、センジュの事が好きだった。
上川のヤツは、まぁ……嫌いじゃないけど『友達』という意識の方が強い。
他の男子は『カッコいい』とまで思えない。
……いつもボクに突っかかってくる今井って女子は、可愛くないわけじゃない、というかクラス一の美少女だとは思うし、普通の男子なら声かけられて喜ぶんだろうけど、ボクにとってはウザいしムカつくだけだ。
だけど、ボクはセンジュに『あと一歩』を踏み出せない。
だって、ボクは……
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夜、ボクは『いつものように』女の子の姿で散歩に出かけた。
母の帰りは深夜になるから、それまでは誰にも気にされないのだ。
良く『顔は可愛い』などと言われるので、今くらいの年齢ならメイクも最小限で充分バレない。……もちろん誰かに見せるつもりなんて、ないけど。
誰もいない夜道で、もしくは一人ぼっちの自然公園のベンチに座って、
夜空を見上げながら思い耽る。
どうして『こうなって』しまったのだろう。
いや、人間が『生まれ』を選べないのは理解してるし、自分は『まだマシな方だ』とは思っている。
だけど、それにしたってままならない事が多すぎる。
手首を見る。
今日は塞がった傷しかない。
前にセンジュが心配してくれた事がある。
「痛くね?」って。
ボクは、
「……むしろ、心が痛いんだ。例えば、だけど……うーん……蚊に刺された時、かゆみを誤魔化したくて抓ったり、頭痛が酷くて頭に爪を立てたりした事、ない? あんな感じかな。
もっとツラいけどね。
暗い洞窟に閉じ込められて、出たくて、誰かに助けてほしくて、手がボロボロになるのも構わず壁を殴ったり引っかいたりする気持ちにも、ちょっと似てるけど」
そう応えた。
「……そっか」と返事をくれた時、何か他の言葉を飲み込んだように見えて、それが嬉しくて寂しかった。
あとは将来の事……も、そうだけど……
今は『ボク』であるためのお金も、そんなには必要ない。
けど、これからは今より多く必要になると思う。
骨格も筋肉も変わるし、ヒゲも生えたりするだろう。
『かくあれかし』という周囲からの視線も、今より強くなるだろうから。
そして、そんな余裕は、きっと無い。
多分『ボク』には、遠からず終わりが訪れる。
そして、誰でもない消耗品、社会の歯車として消えるだけの人生が続く事になる。
いっそ全部、今すぐ吹き飛ばしてもらえないものだろうか、などと、星が堕ちて来ないか夜空を見上げた。
でも、そんな事になったらセンジュに会えなくなっちゃう、と、思い直して視線を地上に戻した。
センジュと名付けたのはボクだ。
小学生の頃、お互い存在は知っていても、会話する機会はなかった。
それぞれの友達、あとボクの場合は嫌いやヤツに絡まれ続けたせいで、顔を合わせる時間なんてなかったから。
中学に入ってから、同じ小学校の誼で初めて言葉を交わした時、改めて『下の名前』を認識して、読み方を間違った。
とっさにボクは謝ったけど、なぜか「いいねソレ! 今度から呼ぶ時ソレな!」と喜ばれた。
以来、ボクはセンジュと呼び続けている。
けど、その呼び方をする人は他にいない。
そして、みんなボクの事をコダカと呼ぶけど、センジュだけはヤスミと呼んでくれる。
だから、何となく、『センジュ』という呼び方は、ボクにとっての宝物に感じていた。
いつもボクは、心の内を隠すように、どこか冷めた顔をして生きている。
でも、もし、誰の目も気にせずいられたなら、きっと意味もなく「センジュ!」と嬉しそうに何度も呼んでしまっただろう。
そんな事したらウザがられそうだけども。
本当なら、ボクは、もっと、キミと……
今すぐ何もかもなくなってしまえば良いのに、という思いと、いつまでも今が永遠に続けば良いのに、という思いのアンビバレント。
そのくせ、一歩を踏み出してしまえる自棄を起こす事も、またできず……
そして、当然の事として、黄金に輝きボクを苛むモラトリアムが、永遠になど続くわけもなかった。
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卒業まで、あと数日。
ボクは一人で中庭のベンチに座り、夕暮れの空を見上げていた。
「こんなトコにいたのかよ、ヤスミ」
呆れたように笑いつつ、センジュが声をかけてくれた。
「や、センジュ。どうしたの?」
「ぁー、うん。まぁ……ヤスミは、さ、将来どうするとか、決めてんのか?」
「……うーん……正直、何も。実家の仕事とか? まぁ、研究者なんて、面白そうとは思うけど。センジュは?」
ボクが聞くと、少し
「……うん………………オレさ、東京の方に、行くんだ」
一瞬、心臓の圧力が増した。
「………………そ、か……なら……会えなく、なるね」
「……あぁ………………ぁー……で、さ! 卒業式の日、渡したいモンがあるんだわ」
「……何?」
「まだ秘密! だからさ……終わっても、ちょい待っててくんね?」
「……うん、わかった」
「うっし、忘れんなよ!」
結局、その日からは色々と忙しくて、あまり話せる機会も無いままに、卒業の日を迎えた。
中には泣いてる人もいたけど、ボクの心は不思議と凪いでいた。
学校玄関の前の、別れを惜しんだりで騒がしい人たちを余所に、ボクは中庭でセンジュを待っていた。
約束した場所がココだから、たぶんセンジュはココに来る、と、迷う事はなかった。
あれから少し考えて、ボクも渡したい物を持って来ていた。
「よ! ヤスミ! やっぱココだったか」
「うん……それで、渡したい物って?」
「いや、まぁ、何ていうか、その……ほら! 借りてたヤツ、まだ返してなかったろ? 返そうと思ってさ!」
貸してた二冊を、差し出して言った。
何だ、そんな事か。
最後の最後まで、律儀なんだから。
「……あぁ、そうだね。……でも、何なら持ってっても良かったんだよ?」
本心だ。たとえ、何の意味もない事だとしても、せめて何か繋がりを残したくて。
すると、センジュは
「……ぁー……そう? なら、さ!『ピュラーの憂鬱』だけ、貸しといてくれない?」
「うん、良いよ」
「じゃあ、『タングステン夜想曲』だけ、返すわ」
「……うん」
「……なんだけど、さ、まだ読んでる途中だったんだよね。だから、ソレのページに、アタシが描いた落書き、挿んであるから」
「………………そっか。分かった」
「……それじゃ!」
「あのさ!」
「………………何?」
「……これ、『無限パラドクス』まだ貸してないからさ、これも、貸しとく」
「……ありがと! 読みたかったんだ、コレ」
「うん………………それ、じゃ、元気で、ね」
「……あぁ……アンタも、ね!」
そして、どちらからともなく、ボクらは別々の方角へと歩き始めた。
最後の時、せめて笑顔で別れようとしたけれど、ボクは上手く笑えてたのか自信がなかった。
何故なら……これが単なるボクの自惚れか、もしくはボクの願望が見せた幻でなかったのなら……
センジュの笑顔も、少し、ぎこちなかったから。
帰ってからページを開いて見つけたのは、小説主人公のイラストだった。
絵が上手いとは知らなかったけど、原作とも違う自分のタッチで良く描けている。
ただ……原作で言えばカッコいい場面が多いはずなのに、何故か物憂げな立ち姿で描かれていて、それが何だか印象的だった。
それっきり、会う事も、連絡を取り合う事もなく、ただ日々は流れて行く。
それでも、あの日々の事は、センジュの事は、きっと永遠に忘れる事もできず、心の中の宝箱を重くしたまま残り続ける気がしていた。
そうして、ただ終わり続けるだけで、何も始まらない、
けれども、どこまでも美しくて、きっとずっと忘れられない……
そんな黄昏の日々を、ボクは、ただ見送ったのだった。
理想を掲げるのは素晴らしい。
けれども諦めてしまった人も実際にいて、その悲哀を理解できなければ綺麗事になってしまうと思う。