変人美人は笑う
隣の部屋の住人は、美人である。安くて狭いボロアパートに咲く、一輪の花だ。
――しかしながら、それは見た目の話であった。
住人同士、顔を合わせれば軽く挨拶を交わすが、彼女の声はか細く、数年の付き合いになるお隣さんでありながら、殆どちゃんとした声を聞いた試しがない。近所付き合いもあまりなく、物静かなのは良いが、生活音もほぼ聞こえてこないので、本当に隣の部屋で生活しているのかと疑いたくなるほどだ。
同じアパートの住人の間では、陰で〝変人美人〟などと呼ばれている。
中村が玄関を出て鍵をかけていると、隣から変人美人――楠木も顔を出した。
「おはようございます」と中村が声をかけると、楠木は相変わらず唇を少しだけ動かし会釈をして、外階段を下りていった。
もう少し――いや、大分頑張って愛想を良くすればきっとモテるだろうに、などと埒もない考えが頭を過る。中村にはタイプの顔ではないが、世間一般の多くの男性が好む顔形ではあるだろう。
ノブを回して戸締まりの確認をして自分も階段を下りていくと、一階に住む家族達の母親が二人、眉を寄せた顔を突き合わせていた。
「やっぱり、怪しいわよね」
「そうよねぇ。いつも暗いし、何考えてるのか解らないし」
ヒソヒソ話にしては、大きな声である。
二人は中村の存在に気づくと、声を明るくして表情も笑顔に掏り替えた。変わり身の早さが少し怖い。
「あら、中村さん。おはよう」
「お仕事、頑張ってね。いってらっしゃい」
「おはようございます。いってきます」
中村が挨拶を返して前を通り過ぎると、おばさん二人は再び大きな声の噂話を始めた。
最近、このアパートで噂になっているのは、数日前に一階の角部屋で起こった殺人事件のことだ。
被害者は、中村と同年代の佐藤という男である。
彼は近所に住む女性――上田と交際しており、デートの待ち合わせに来ない彼を心配した彼女が部屋を訪れたところ、倒れている佐藤を発見し、事件が発覚したという。恋人の死の第一発見者になってしまうとは、何とも不運なことである。
佐藤は頭を床に強く打ったことで絶命しており、部屋が荒らされていたことから、強盗の犯行であると警察は決定づけたそうだ。
しかし、このアパートの住人はそうは思っていないようなのである。
中村の隣人――楠木が犯人ではないかと疑っている。
というのも、佐藤が楠木と二人きりでレストランにいるのを住人の誰かが目撃したというのだ。
恋人がいながら、異性と二人だけで食事に行くだろうか。そこに理由をつけるとするならば色々と考えられるが、多くの人間が真っ先に思い浮かぶのは一つだろう。
佐藤は楠木と浮気をしていたということである。
上田と別れる様子のない佐藤に痺れを切らした楠木が、恋人と別れるように佐藤に詰め寄った。二人は言い争いになった挙句、楠木は激情に任せて佐藤を突き飛ばし、運の悪いことに頭の打ちどころが悪く殺してしまったのではなかろうか。そして、強盗の犯行に見せかける為、故意に部屋を荒らした――ということらしい。
因みに、本来の恋人である上田には、佐藤の死亡時刻に近くの喫茶店でコーヒーを飲んでいたというアリバイがある。
これといったアリバイもなく、普段大人しくしている人物こそ、いざという時に何をしでかすか判らない、ということから楠木に注目が集まったようだ。
仮にもしそれが真実だったとしたら、二股をかけていた佐藤にも責任はある。まあ、彼とも挨拶程度の仲なので、中村には何とも言えないのだが。
しかし、ペット不可のアパートであるにもかかわらず密かに猫を飼っていたような男だから、あまり信用はできなかっただろう。今までよくバレずに飼えたものだと思ったが、どうやらあまり鳴かない静かな猫だったようだ。
しかしながら、たったそれだけの理由で犯人扱いされる楠木も可哀想ではある。確かにミステリアスでよく判らない人ではあるが、だからといって犯人と決めつけるのは早計だろう。
*
いつも通りに一日の業務を終えて定時に会社を出、アパートに向かっていた中村は途中で上田と行き合った。
「こんばんは」
「あ、こんばんは。お仕事の帰りですか?」
「はい」
彼女とは、時々こうして挨拶を交わす。深く会話をしたことはないが、上田の声は優しいので、毎度癒されていた。
中村は、彼女がペット用のゲージを持っていることに気がついた。
「ペット、飼っていらっしゃったんですか?」
「ああ、はい。彼が飼っていた猫ちゃんを、引き取ったんです。今、動物病院に行った帰りで」
上田の表情が僅かに曇る。彼女がゲージの扉をこちらに向けると、格子の間から猫の双眸がぎょろりと光った。
背を丸めた純白の長い毛が逆立ち、街灯に照らされた。
「あら、珍しい。獣医さんにも怒らないような大人しい子なのに」
「俺の何かが気に食わなかったんでしょう。――ペルシャ猫ですか。可愛いですね」
中村が手を伸ばすと、猫は更に怒ってゲージを揺らした。
「おっと……はは、嫌われちゃったかな」
「あ、手、どうかされたんですか?」
頭を掻いた中村の手を示す上田に、彼は手の甲を見遣って「ああ」と呟いた。
「ちょっと紙で手を切ってしまって。書類に血でもついたら困るので、大袈裟ですけと大きめの絆創膏を貼っているんです」
中村は心配そうにする上田ににっこりと笑ってみせた。
「恋人が亡くなって、色々と大変でしょう。何かあったら力になるので、いつでも声をかけてください」
「はい。ありがとうございます」
*
事件に関して気に掛かることといえば、こんなボロアパートに強盗が入ろうと思うのか、ということだ。
見るからに金持ちが住んでいるようには見えないし、わざわざこんな場所を選んで盗みに入るだろうか。
まあ、考え方は人それぞれであるし、暗くてよく見えなかった、急に入り用になって目に入ったアパートに突発的に、などといったこともあるだろう。
……そんなことを考えていたら、不安になってきた。
中村は寛いでいた座布団から腰を上げ、窓と玄関の施錠を確認した。
ピンポーン。
丁度その時、インターホンが古びた音を響かせた。
中村が壁にかかった時計を見遣ると、現在時刻は午後十時である。こんな夜更けに、一体誰だろうか。
直前に考えていたことが不穏だっただけに、僅かに身体が硬くなる。
どうしたものかと思っていると、もう一度インターホンが鳴った。
居留守を使うことも考えたが、灯りが点いているのは外から丸見えだし、テレビの音も漏れ聞こえているだろう。何か重要な用件であったとしたら、出なかったことを後悔するかもしれない。
中村は恐怖心を押し込めて意を決し、ドアチェーンなどといった気の利いたものもない簡素な戸を細く開けた。
「ど、どちら様でしょう……?」
「こんばんは。夜分に失礼します」
細く小さな声――聞き覚えがある。
記憶に重なる顔を思い浮かべながらドアを押し開くと、予想通りに楠木が外に佇んでいた。
彼女が部屋を訪ねてくるなど、初めてのことだ。中村は不審に思いながらも笑みを浮かべて見せた。
「えっと……どうかされましたか?」
「少し、お話がありまして」
「はあ」
会話らしい会話も今この時が初めてというくらいの関係だというのに、一体何の話があるというのだろうか。
彼女は相変わらずの蚊の鳴くような声で口を開く。
「私、上田さんとお友達なんです」
それは初耳だ。少なくとも中村は二人が一緒にいるところを見たことがないし、あの優しい上田と変人美人の楠木が仲良くしている図はあまり想像がつかない。同じ大学に通っているという話は聞いたような気がするが、まさか友人関係にあるとは。
もしかしたら、楠木の周囲の悪評価に同情した上田が仕方なく付き合ってあげているのかもしれない。そういうことなら容易に想像できて、中村は「そうですか」と軽く相槌を打った。
「上田さんと佐藤さんがお付き合いをしていたことも知っていましたし、私も佐藤さんと仲良くさせてもらっていました」
中村の脳裏に噂話が過る。
まさか、本当に楠木は佐藤の浮気相手だったのだろうか。
友人の恋人を奪うような度胸があるようには見えないが、人は見かけによらないことも往々にしてあるものだ。人間の恐ろしいところである。
割と失礼なことを考えている中村の脳内を知ってか知らずか、楠木は続けた。
「佐藤さんが大家さんに黙って飼っていた猫ちゃん、上田さんが引き取ったんです」
「ああ、はい。さっき帰りにばったり会って、本人から聞きました」
「ええ、私も上田さんに中村さんに会ったと聞きました」
一呼吸。
その短い間に、楠木の瞳の奥が冷たく光った気がした。
背筋がぞくりとして、中村はそれを誤魔化すように体重をかけている足を左右入れ替えた。
「――その手の絆創膏、どうされたんですか?」
射貫くような、闇に似た黒の双眸。
それに見つめられると、身体の奥の、実際にはありもしない心の底まで見透かされているような気になる。
中村はごくりと唾を飲み込み、しかし笑ってみせた。
「紙で切ってしまって。書類を汚したくないので大きめの絆創膏を貼ったんですが、やっぱり目立ちますかね?」
「本当ですか?」
言下に問い返し、それなのに中村に答える間も空けず楠木は続けた。
「本当は、猫に引っ掻かれたのではないですか?」
中村は笑みを崩さず、意味が解らないというように小首を傾げた。
「何を言っているんですか。俺は猫は嫌いではないですけど、それほど好きというわけでもありません。野良猫を見かけても近づいたりはしないので、引っ掻かれるなんてことはあり得ませんよ」
「……では、質問を変えましょう」
楠木が長い黒髪を耳にかける。
「貴方、上田さんのことが好きでしょう?」
一瞬、息が止まった。すぐに口を開いたが、口の中が渇いて声が掠れる。
「そ、そんなわけ……」
「声が震えていますよ」
毅然とする楠木に、中村は二の句が継げなくなる。
上田のことが好きだということは、誰にも言ったことがない。彼女とは何度も会話を交わしているが、他の人と変わりなく、あくまで近所付き合いの範囲の接し方なので、悟られるということもないだろう。
秘めていた想いを指摘され、中村の身が竦む。
「貴方は上田さんが好きだった。けれど、彼女には既に恋人がいた」
中村を置いて、楠木が話を進めていく。
「恋人である佐藤さんを邪魔だと思った貴方は、彼の弱みを探った。そして、このペット不可のアパートで、彼が密かに猫を飼っていることを知ったんです」
楠木の瞳が、中村の目を真っ直ぐに見据える。思えば、彼女とこうしてしっかり目を合わせるのも初めてだ。
彼女の目は黒々として、ともすれば飲み込まれそうになる。
中村は恐怖を抑え込むように、右手で左手首を強く握った。身体の何処かを流れる冷や汗が気持ち悪い。
「貴方は佐藤さんを脅しました。『猫のことをバラされたくなかったら、上田さんと別れろ』と。しかし佐藤さんは屈しなかった。互いに譲らず揉み合いになり、バランスを崩したか何かに躓いたか、佐藤さんは頭を床に落とし――そのまま命も落とされた」
楠木の声が淡々と語る。あまりにも淡々としているので、まるで別次元の話をしているみたいだ。
「殺すつもりはなかったのでしょう。慌てた貴方は自分のいた痕跡を消し、強盗が押し入ったように偽装する為部屋を荒らし、逃げるように現場から立ち去った」
「――何を」
喉の奥から出た声は思いの外小さかったが、しっかりとしていて自分でも驚く。
「何を言ってるんですか。確かに上田さんは可愛い人だなと思っていましたけど、恋人がいる人に手を出そうなんて思いませんし、ましてや脅すなんて……そもそも俺は、佐藤さんが猫を飼っていることなんて知りませんでしたよ。別の人と勘違い――」
「していません」
静かな声なのに、怒鳴りつけられたみたいに身体が動かなくなった。いや、怒鳴りつけられた方がまだマシだったかもしれない。
足許に得体の知れない何かが這い寄ってきているような、それでも動くことができないような、そんな感覚に近い。
だが、中村はそんな恐怖を振り払って首を振った。
「俺が犯人なわけないじゃないですか。証拠――そう、証拠はあるんですか?」
「証拠、ですか」
楠木が軽く握った拳を細い顎に当て、視線を僅かに逸らす。
その瞬間に少しだけ緊張が解けて、中村は息を吐いた。長いこと息を止めていた時のように、肺が楽になる。
しかし、それも束の間だった。
「貴方は現場から逃げる際、佐藤さんの猫に手を引っ掻かれましたね。それが証拠です」
「さっきも言いましたけど、これは紙で切ったんです。そんなの、証拠になんて――」
「なりますよ」
既視感、だろうか。身体が硬直する。
「猫の爪には、引っ掻いた誰かの血が残っていました。今、警察がその血液の身元を調べています。それも時間の問題でしょう。――さて、それが佐藤さんが猫を飼っていたことも知らなかった貴方の血であったなら、どうしてなんでしょうね?」
楠木の背後から夜風が吹き込む。彼女の髪が広がって、妖艶に微笑む姿を引き立たせた。
頭の片隅で、それが綺麗だと考える自分がいる。
「少しでも罪を軽くしたいのなら、自首をお勧めします。それでは」
静かに扉が閉まり、夜気と共に彼女の姿が見えなくなる。
いつもの光景に戻った玄関で、中村は暫く放心していた。
*
恋心というものは、どこまで自制が効くものなのだろうか。
楠木自身はそういった経験がないので想像するしかないのだが、きっと人によって違うのだろう。
内心を表に出すことも叶わなかった者もいれば、想いを行動に乗せ過ぎて自ら破滅の道を前進する者もいるだろう。
少なくとも自分は、自身や周囲にとって悪いようにはならない選択をすることができる――
(……と、思う)
若干の不安は許してもらいたい。何せ、経験がないことなのだから。
正直なところ、その時になってみなければ判らないというのが本音である。人生なんて、そんなものだ。
いつものように玄関に鍵をかけ、隣の部屋の玄関をちらりと見遣ってから外階段を下りる。
「中村さん、自首したんですって」
「嫌だわぁ。そんなことする人には見えなかったのに……」
「人は見かけによらないって、本当なのねぇ」
相変わらずの大きな声の噂話。
この手の話は、内容が自分に関わることであろうとなかろうと、気分は良くない。
「でも、警察の方も中々犯人が特定できなくて焦っていたみたいだから、自首してきてくれて助かったみたいよ」
「あら、そうだったの。それじゃあ、そのまま黙っていたら、もしかして……」
「知らないで、ずっと同じアパートに殺人犯がいたことになっていたかもね」
「嫌だこわーい」と二人が声を揃えたところで、楠木の存在に気がついて会話を中断する。見るからに貼りつけた笑顔がやや硬い。
「あ、あら、楠木さん。おはよう」
「…………」
黙礼を返すと、そのまま二人の前を通り過ぎる。背後で彼女達が楠木の話を始めたのが、気配で判った。
先日の唖然とした中村の表情を思い出す。
故意的でないにしても、彼は殺人犯であることに変わりはない。そもそも脅迫までして他人の恋路に割って入ろうとした人間である。同情する余地もないが、本当に自首をしただけ、マシというものだろう。
猫の爪に血痕が残っていたかどうか――それは楠木にも判らない。
中村が猫に引っ掻かれたのは事実らしいが、猫は自ら毛繕いをする習性のある生き物である。爪も同様に研いだり舐めたりするから、既に血痕も舐め取られた後と考えて良いだろう。
悔やまれるのは、心配をかけまいと上田には内緒で佐藤が楠木に脅迫のことを相談してくれていたのに、彼が殺害されるまで何もできなかったことだ。もっと早く何か動けていたら、こんなことにはならなかったかもしれない。
「あ、おはよう」
「おはよう」
道の途中で上田と行き合い、彼女は楠木の隣に並んだ。
「大学、一緒に行こ。ねえ、聞いてよ。昨日テレビでさ――」
佐藤が亡くなったあの日から、上田はいつも以上によく喋るようになった。笑みを浮かべるその目元の赤が痛々しい。
もう二度と、親友にこんな顔はさせたくない。
楠木は密かな決意を胸に、上田の話に笑顔を零した。