悪役令嬢ヒロインに逆ざまぁされるゲームに転生した私の話
全方位的に、ひたすらぬるいお話です。
ざまぁはしません。
この世界が、悪役令嬢が無双した挙げ句、断罪されかかるところを逆ざまぁするという、もはや誰得の恋愛シミュレーションゲームだと私が気付いたのは、まさに悪役令嬢を断罪する舞台の上だった。
「今まではアルドリッジ公爵の令嬢だからと目を瞑って来たが、君のやり口は目に余る。ディアナ・ローズ・ウェストウィック。このままでは残念だけれど、君との婚約を解消しなくてはならない」
「――何をおっしゃっているのかわかりませんわ」
「君はこのニーナに今まで言いがかりを付け、危害を加えようとしていたと聞いている。証拠も挙がっている。言い逃れは出来ないと思ってくれ」
王太子であるセオドア殿下の言葉に、私を守るように取り囲んでいた貴族の子弟たちが前へ出る。
彼らは一斉に、彼女が行ったという悪行を声高に言い立て始めた。
今は卒業パーティーの真っ最中なのだ。栄えある王立学院の長い歴史でも、こんな騒ぎを起こしたことは初めてだろう。
紳士らしい距離感を保ちながらも、私をかばうように肩へ手を乗せたセオドア殿下は本当に美形だった。白を基調にした正装を身にまとい、柔らかな光を帯びた白金の髪。鋭く細められた瞳は透き通る氷のように薄い水色だ。
対照的に鮮やかな真紅のドレスを身にまとった金髪碧眼のアルドリッジ公爵令嬢、美しきディアナ様は、周囲の驚愕に満ちたざわめきを気にした様子もなく、セオドア殿下を険悪な表情でにらみつけている。
私はセオドア殿下から送られたドレスのスカートを握りしめ、現実逃避しそうになるのを必死で耐えていた。
アルドリッジ公爵令嬢ディアナ様。フルネームはディアナ・ローズ・ウェストウィック。
ミドルネームに薔薇をいただくこの悪役令嬢は、まさに大輪の薔薇のごとき美少女である。
才色兼備にして頭のてっぺんから爪の先まで磨き上げられ、貴族としての所作をたたき込まれた、まさに完璧なご令嬢だ。悪役というのもおこがましい。真のヒロインなのだから当たり前である。
豪華な金の髪は一筋の乱れもなく結い上げられ、そのスタイルもまた出るところはしっかりと、くびれるところはきっちりと。手足は長くしなやかだ。他の女子生徒よりも背が高い分、同じ制服姿であっても、きちんと背筋を伸ばした立ち姿には威圧感すらある。
意志の強そうな切れ長の瞳は少しきつめだが、はっきりとして華やかな容貌は、一度目にすれば見た者全てを虜にする。
世の女性が嫉妬と羨望を通り越して崇拝する、まばゆいほどの存在感である。生徒の一部にはファンクラブもある。もちろん構成員は女子のみだ。
そんな女神のごときディアナ様は、本当は心優しく傷付きやすい令嬢なのだが、あまりにも完璧すぎるが故に近寄りがたく、同年代の男子生徒からは誤解を受けていた。そのせいで学院内では悪役令嬢と噂され、本当は両思いである婚約者のセオドア殿下にも、敬遠されてしまうという状態だ。
自らを陥れようとする悪意に傷付きながらも、ディアナ様はそんな策略に気付き、きたるべき断罪に備えて少しずつ味方を増やし、人知れず証拠を集めていく。
そして断罪劇の最中に、その真実は明らかにされるのだ。
改心したヒーローの謝罪を受け入れてハッピーエンドになるもよし、逆ざまぁからヒーローとヒロインもろとも断罪し返すもよし。彼女をずっと守ってきた無口な護衛騎士や、彼女に人知れず思いを寄せ臨時教師となっていた魔術師の王弟(もちろん身分は隠している)、さらには隣国の若き皇帝など、相手も様々。
悪役令嬢の汚名を着せられかけたディアナ様が、すかっと相手をやり込めて幸せになるマルチエンディングだ。
ストレスフルな時代のせいか、当時このゲームは大人気だった。当然私もやり込んだ。
そして、お気付きの通り。私は、断罪返しされるヒロインキャラ、ニーナになっていたのだ。
市井育ちのヒロインの父親は実は男爵で、屋敷の使用人だった平民女性との間に生まれた子供を母親の死後、引き取ったという設定だ。
しかし、よく考えて欲しい。自分が浮気した挙げ句、正妻の怒りを買って言われるがまま生まれた子ともども屋敷を追い出しておきながら、政略結婚の駒として素知らぬ顔して引き取りにくるような父親だ。しかも家に置いていたら、また正妻の怒りを買うからと、最低限の礼儀作法だけ学ばせて、さっさとニーナを王立学院の寮に放り込んだ。
何しろ貴族の子女だけが通う王立学院だ。付け焼き刃の知識じゃ太刀打ちできるわけもなく、市井育ちの編入生であるニーナに対する風当たりは強かった。
それでも何も知らない当時の私は頑張った。引き取ってくれた父親のおかげで何不自由なく生活出来ると感謝し、恩返しのためにと勉学に励んでいた。幸いにも勉強の方はついて行けたけれど、問題は貴族としての立ち居振る舞いの方だった。
ディアナ様や女子生徒たちはまっとうに、淑女としての心得を注意してくれた。それなのに嫌われたと勘違いし、落ち込んでいる姿に同情から手を差し伸べてくれた男子生徒と間違った距離感で接していたら。
手当たり次第に男子生徒へ媚びを売ったと言われ、ディアナ様の信奉者を怒らせるという、ヒロインポジションにしっかりと収まっていた。
言い訳させて欲しい。ニーナは単に子供で恋愛の機微にもうとく、男子生徒に対しても近所のお兄ちゃんたちと同じように対応していただけなのだ。
問題は、ざまぁされるヒロインだけに、ニーナ自身の外見も庇護欲をそそるような美少女だったことにある。
ヒロインの代名詞であるピンクブロンドの髪はさらさらで、すみれ色の瞳は常にきらきらと輝き、小柄で華奢な体型も相まって、まるでお人形か妖精のよう。
女手一つで私を育てた母を雇ってくれた宿の女将さん夫婦も含め、幼い頃から、優しい田舎街の人々に男女問わず可愛がられていた。悪意のない平和で小さな世界で、何も知らずに生きていたのだ。
王立学院に入って初めて、自分が嫌われるということを知ったニーナは女子生徒に怯え、優しくしてくれる男子生徒によく懐いた。そんな風にしたら相手がどう思うかなんて、火を見るよりも明らかだったのに。
だから、ぽんこつヒロインのニーナがざまぁ返しされても、それは自業自得だ。男爵から勘当されて市井に戻されるのが一般的なエンディング、正直今の私だったら、むしろ市井に戻れて万々歳だ。
しかし問題は、震えるニーナの肩へ勇気づけるように手を乗せてくれている、セオドア殿下だった。
王太子であるセオドア殿下は、この国でただ一人の王子様だ。スペアはない。この断罪劇でざまぁ返しをされてしまうと国が大変なことになる。なんで第二王子がいないんだ運営。
まるで白馬の王子様を地で行くような繊細な美貌のセオドア殿下は、心優しく穏やかで、人望もある。ディアナ様を心から好きなのに、それを言い出せないだけだと、私は知っている。
ディアナ様があまりにも完璧すぎるから、それに並び立つだけの結果を出さなければと焦っていたのだ。
そんな時、無邪気と言えば聞こえは良いが、ディアナ様より頭の悪いニーナに会って、うっかり気を許しちゃっただけなのだ。だからニーナを本当に好きな訳ではもちろんない。そもそも断罪だって、ニーナのためではないのだ。
完璧な令嬢のはずのディアナ様がニーナに行ったことが信じられなくて、問いただしてしまっただけだ。そしてディアナ様に反撃されて、出した矛を収められなくなってしまう。
正直に言おう。私は前世、ゲームの中でセオドア殿下が一番好きだった。そしてニーナである私もまた、セオドア殿下が大好きなのだ。
他の貴族令息と違い、彼だけはニーナを特別扱いせず、しかし他の生徒と同じように優しく接してくれた。何も知らない編入生のニーナを気にかけ、生徒の一人として模範を示し、時に助けてくれた。
もちろん、セオドア殿下にニーナを好きになって欲しいなどと、大それたことは思っていない。大好きなセオドア殿下と女神のようなディアナ様が誤解を解いて、ちゃんとくっ付いてくれれば良いのだ。
そんな私の思考をよそに、断罪の舞台は佳境に入っていた。
貴族令息たちの糾弾が一段落し、全員が口を閉ざす。
ゲーム上では三択の台詞の内容次第で、ディアナ様からのざまぁ返しルートが確定するのだ。
ここでディアナ様が涙で潤んだ碧の瞳を殿下に向け、「セオドア殿下はお信じになられるのですか?」と悲しげに問いかければ、貴族令息たちの穴だらけの証拠に内心首をかしげていたセオドア殿下も誤解を解き、ディアナ様に謝罪して二人はハッピーエンドだ。
しかし私の期待を裏切り、ディアナ様は溜め息をつくと、ぱらりと扇を広げて口元を隠した。
「皆様のお言葉はよくわかりました。それで、今のお話はどのような証拠をもっておっしゃっているのかしら。わたくしは不勉強にも、我が国では匿名証言と信憑性の薄い状況証拠のみで他人を弾劾することが可能だなどと、寡聞にして知りませんでしたわ」
や ば い。
その台詞に、私は顔だけでなく全身から血の気が引くのが分かった。
これ、よりによって逆ざまぁからヒロインが断罪されて王子もろとも国外追放、ディアナ様は隣国の皇帝に嫁ぎ、この国を滅ぼして属国にするという最悪ルートだ。
固まったままだった私は、その瞬間。自分でも思った以上にひっくり返った声を放っていた。
「お、お待ちください!!」
いきなり声を上げた私を、周囲の貴族令息だけでなく、セオドア殿下とディアナ様まで驚きを隠しきれない表情で振り返る。そりゃそうだ、王侯貴族たるもの、いかなる時も無駄に大声を上げたりなんかしないのだ。
ニーナが以前、セオドア殿下に優しくたしなめられたことを思い出す。こんな場面でさらに私がやらかしたら、余計セオドア殿下が大変なことになってしまう。
私は急いでディアナ様へ膝を折ると、後ろ足を床に付くぎりぎりまで引き下げた。慣れない姿勢に足が悲鳴を上げそうになるのをなんとかこらえながら、上体を曲げ、謝罪を込めて頭を深く下げると、発言の許しを求めた。
水色のドレス姿のまま、恥も外聞もなくひざまずいた私に、ディアナ様を断罪していたみんなは束の間、面食らったように沈黙した。私はその姿勢のまま、必死にディアナ様へと語りかける。
「申し訳ございません、ディアナ様。謝ったところで許されないことはわかっています。でも、今までのことは全て勘違いだったのです。悪いのは私です。間違っていたのは私で、ディアナ様は何も悪くなどありません。それに、誤解されているだけで、本当は殿下とディアナ様は相思相愛なのです。だから殿下もディアナ様も、婚約解消なんておっしゃらないでください!」
殿下とディアナ様は思い合っている。私はそれを知っている。
――横恋慕したのは、ニーナの方なのだ。
一息で言い切った私の前で、他のみんなはとっさに声も出ない様子だった。何しろ、かばったはずのニーナ本人に、はしごを外されたのだ。
しかし、私は正直それどころではなかった。緊張と不安で足が震える。国の存亡がかかっているのだ。ここでしくじれば、ぽんこつヒロインのニーナのせいで国が滅亡してしまう。
私の頭上にディアナ様の溜め息が落ちてくる。
「――今さら虫の良いことをおっしゃるのね、ニーナさん」
「本当に申し訳ございません。私のことを許して頂こうなどとは思っていません。ただ、セオドア殿下は誤解されているだけなのです。何でもいたしますから、どうか殿下のことだけは……!」
冷たい声で告げるディアナ様に、頭を下げたまま必死で許しを請う。
「本当に、何でもするとおっしゃるの? 仮にも貴族の令嬢として生きるのならば、軽々しいことを言うものではないわ」
「私はもともと市井育ちです。この一件で罰を受け、再び平民に戻されても構いません。ですからお願いします、どうか殿下との婚約だけは解消なさらないでください!」
ディアナ様はふたたび溜め息をついた。
「……ニーナさん。あなたの気持ちはわかりました。けれど、一度失われた信頼は、簡単には戻らないのです」
「そんな……!」
「もう良いんだよ、ニーナ。顔を上げなさい」
静かな口調で告げながら私の肩へもう一度、手を乗せたのは、セオドア殿下だった。
泣きそうな顔で振り仰いだ私を感情の見えない表情で見下ろした殿下は、手を取って私を立たせると、ディアナ様に向き直る。
「どうやら、私たちは一度話し合う必要がありそうだね」
「わたくしもそう思いますわ、殿下」
まっすぐに見返したディアナ様の碧の瞳から視線をそらすと、セオドア殿下は今まで散々ディアナ様をこき下ろしていた周囲の貴族令息たちを、冷たい表情で見据えた。
「君たちがディアナに告げた証拠についても、ずいぶんと杜撰な物が多いようだ。私に上げて来ていた報告とは乖離しているようだね」
「殿下、それは……!」
慌てた様子で言い募ろうとした相手を軽く上げた片手で止めると、殿下は氷のような瞳を細めて、低い声で告げる。
「王族に対して偽証を行うことの罪を、君たちが忘れていたとは思えない。もちろん、わかっていて行ったのだろうね……モラレス伯、後は任せる」
「承知しました、殿下」
いつの間にそこにいたのか、恭しく頭を下げたのはこの国の宰相閣下だった。断罪するつもりがことごとく引っくり返され、呆然とした面々を無視して、殿下はこの舞台を固唾を飲んで見守っていた観衆に向き直った。
「皆も、せっかくの晴れの場を騒がせたことを遺憾に思う。私たちは退席するが、気にせず楽しんで欲しい」
そんなことを言われても、はいそうですかと楽しめるのだろうか。しかし観客たちは反論もせず王子に礼をとる。
むしろいなくなった方が盛り上がりそうだ。控えめだが好奇心に満ちた視線に、自分がうっかり見世物を提供してしまったことに今さら気付く。
立ちすくんだ私の肩を軽く押して、セオドア殿下はディアナ様に告げた。
「――場所を移そう」
◇
背を向けた殿下や近付いてきた衛兵にわめきたてる貴族令息たちを放置して、応接間のような一室へ連れてこられた私は、問答無用で二人と向かい合ったソファに座らされた。
「どうなさるのですか、殿下?」
「参ったなあ。ニーナは思い込みが激しいから上手くこちらの予定通りに誘導できていたはずなのに、どうしてこのタイミングで余計なことをしちゃうかな」
今までとは違いすぎるセオドア殿下の言葉に、私は絶句した。
え、この人、誰?
見た目は相変わらず白馬の王子様もかくやという美貌のセオドア殿下は、とても不機嫌そうだった。
「せっかく不満分子のあぶり出しも終わって後は処理するだけだったのに、こんな詰めの甘い結果になるとは。あいつらが打ちひしがれる顔を見そびれた」
「まあ、でも他でもないニーナさんに持論を覆されたところは見物でしたわね。おかげで、これ以上わたくしたちが手を下す必要もなくなりましたわ。――残る問題は、ニーナさんをどう扱うかということですわね」
座っていてもサイズ感の違う二人から見下ろされて、私はぽかんと口を開いた。
聞いてない。ていうかあのゲームにこんな展開はなかったはずだ。
「そもそも、どうして私とディアナが相思相愛だなどという、とんでもない誤解をしているんだい? もともと私とディアナは婚約者ではあるけれど、国のために必要だから結婚するだけの関係だよ」
「そんな、だって殿下はディアナ様に並び立つために、日々努力をしていらっしゃったじゃないですか」
思いも寄らないセオドア殿下の言葉に目をむいて、私は前世の記憶を思い出しつつ反論する。
しかし殿下は、ますます不機嫌そうな表情になった。心底呆れたような視線が、地味に心をえぐる。
「思い込みが激しいことはわかっていたけれど、想像以上だな」
「セオドア殿下がそんな素直な方だとお思いだったのですね、ニーナさんは。――ずいぶんと大きな猫をかぶっていらしたようですこと」
ディアナ様の嫌味を、さくっとセオドア殿下はスルーした。
「まあ、確かに私とディアナの婚約は、本来よほどのことがなければ解消されることもなかったけれどね」
そうして二人が説明してくれたのは、私の知っているゲームとは全く違う内容だった。
二人は恋愛感情はないけれど、国のために結婚することで合意していた。
しかし、二人の婚約は隣国の若き皇帝とディアナ様が出会ったことで、方向転換を余儀なくされる。皇帝陛下はディアナ様に惚れ込んで、そしてディアナ様も皇帝陛下にほだされた。
もともと恋愛感情のない婚約者である二人だから、セオドア殿下も快く、それに応じることとした。
しかし、もちろん何の瑕瑾もない婚約者同士だ。他に好きな人が出来ました、で解消なんて出来る訳もない。
かといって、下手を打って隣国との関係を悪化させるのも論外だ。
幸いにして、隣国の皇帝も自分が横やりを入れてしまったことは自覚している。慰謝料含めてこちらの国に優位な条件を示してくれた。逆に言えば、大国の皇帝陛下にそれだけさせるほど、惚れ込まれてしまったディアナ様がすごすぎる。
かくして、セオドア殿下とディアナ様は国王陛下の許可を得ると、婚約解消に向けて一芝居を打つこととした。
転んでもただでは起きないセオドア殿下は、それを期に国内の綱紀粛正を一気に進めることを思いついたらしい。何しろここのところ戦争や紛争もなく、貴族や官僚も殿下曰く平和ぼけしている。ここで一度手綱を締めて、ついでにちょっと悪さをしていた貴族を何人かすげ替えちゃおうと思ったそうだ。
そして、そこへのこのこと現れたのが、市井育ちで世間知らずの編入生、ニーナである。殿下は何も知らない私を上手く使って、ピンポイントで狙った貴族の令息たちを籠絡させた。最終的に彼らを処分することで、その親である貴族たちの力を削ぐよう、しむけていたのだ。
それは、あと一歩のところまで上手くいっていたのだ。
私が、いきなりおかしなことをしでかすまでは。
「……重ね重ね、申し訳ございませんでした」
私はもはや土下座する勢いで床にひざまずき、頭を下げた。
◇
「とはいえ、あちらの方は片付いたようだね」
応接間に入ってきた侍従――彼は罪人みたいな姿勢になった私を見ると一瞬ぎょっとした様子で動きを止めたが、見なかったことにしたようだ――から受け取ったカードを眺めたセオドア殿下が、そう言った。手渡されたそれに目を通したディアナ様も、にっこり笑ってうなずく。
「皆様方が上手に踊ってくださったおかげで、陛下の身辺もずいぶんと綺麗になることでしょう」
「そうだね。これで残る懸案事項は一つだけだ」
二人の視線が、またもや私に集中した。
セオドア殿下が流れるような所作で私の前に片膝をつく。手を取られ、のろのろと顔を上げた私を至近距離で見下ろしながら、意地悪そうに唇の端を引き上げた。
「あとの問題は、君だけだよ、ニーナ。どうしようかな」
茫然と見上げている私の前で、きらきらしい美貌の殿下がうっとりするほど優しい微笑みを浮かべた。しかしその目は笑っていない。彼はそのまま私の瞳をのぞき込むと、甘い声音でささやくように言う。
「ニーナ。先ほど、何でもすると言ったね?」
「……言いました」
そんな表情にさえ、うっかり見とれてしまいながら、私は否定も出来ずうなずいた。
だって、どんなことがあってもニーナはセオドア殿下が好きなのだ。
それはもう、殿下がこんな性格だとわかっても変わらないくらい。
誰にでも平等に優しい殿下は、たとえそれが演技だったとしても、ずっとニーナの力になってくれていた。
そんな殿下にころっとやられてしまったニーナは、本当にチョロい。セオドア殿下もニーナを騙すのは、赤子の手をひねるより簡単だっただろう。
でも、他の貴族令息たちと違って、本当に殿下は紳士で、ニーナのことを大切に扱いながら、教え導いてくれた。行き過ぎた時にはその言動を上手に軌道修正して、ぽんこつヒロインのニーナが本当の意味で駄目なヒロインにならないよう、守ってくれていたのだ。
「セオドア殿下のためなら何でもします」
眉を下げてうなだれながら、涙目のままつぶやき断罪を待つ私に、身を起こした殿下はどこか不思議そうな声音で問いかけた。
「ニーナは、こんな私でも好きなのかい? 私は君を騙していたんだよ」
「……はい」
「ニーナさん、同じ女性として言わせて頂ければ、殿下は計算高い上に腹黒く、人を陥れるのに長けた、どうしようもなく性格の悪い方ですわ。あなたの弱みにつけ込んで、生きていくことも辛い目に遭わせるかもしれません。それでも構わないとおっしゃるの?」
ディアナ様の台詞に私は震え上がった。生きていくことも辛いなんて、何をさせるつもりなのだ。
いっそのんびりと、セオドア殿下が言葉だけは心外そうに口を挟む。
「ひどいなあ、ディアナ。いくら私でもそこまではしないよ」
そこまでは。
しかしもう私は開き直った。生きていくことが辛いというなら死ぬ訳ではないのだ。
もう、それだけで十分ではないか。
「……それでも構いません」
「そうまでして私と一緒にいたいの?」
「いえ、先ほど申し上げた通り、私はきっと男爵に勘当されると思うので、平民に戻ります。殿下とディアナ様が今後もつつがなく過ごして頂ければ、それで十分です」
「平民に戻れるかどうかもわからないよ。国外追放されるかもしれないし、修道院に死ぬまで放り込まれるかもしれない。そんな風になったら、一人で生きていけるの? 今までのように周りの人たちは助けてくれるかな?」
国外追放されたら、どうにかして母のように住み込みの仕事を探そう。修道院なら祈るふりをして、ぼんやり妄想してても気付かれまい。
そして、遠い空で二人の幸せを祈ろう。
大好きなセオドア殿下と女神のようなディアナ様が、ざまぁも逆ざまぁもされずに済んだのだ。これだけで一生分の幸運を使い果たしたようなものである。もはや、あとは余生だと言っていい。
確かに辛いこともあるだろう。しかしどんなに辛くても、それでも生きていればなんとかなる。私は心を決めると、こっくりとうなずいた。
「――構いません。これからは自分でなんとかします」
――長い沈黙ののち、不意にセオドア殿下が身じろぎして、口調を変えた。
「決めた。ディアナ、今後の方針を少し修正しよう」
「わたくしも同じ意見でございます、殿下」
「助かるよ――思ったより根性がありそうだからね、ニーナは」
音もなく立ち上がったディアナ様が、まっすぐに背を伸ばした美しい所作で出入口へと向かう。扉の前まで来ると、彼女は優雅に振り返った。
「それでは、周囲に説明をして参りますわ。殿下も、ニーナさんが落ち着いたらすぐに合流してくださいませ」
「落ち着くまでは結構かかると思うけど」
「――殿下、ニーナさんのためにも、ほどほどでお願いいたします」
苦笑したディアナ様が部屋を出て行く。意味もわからずぼんやりとしていた私の前に、ふたたび殿下がかがみこんだ。
ひょいと身体を持ち上げられる。床に座り込んだままだった私は、気付けばソファに座るセオドア殿下の膝の上に設置されていた。
あわあわと慌てる私がずり落ちないようにしっかりと抱え込んで、セオドア殿下が額を合わせる。至近距離に迫った美貌に、私はたやすく言葉を失った。
回された両腕も、ゆるめられる気配がない。こんな距離感でくっ付いたことなんて初めてで、顔が赤くなるのを止められなかった。
「可愛いニーナ。確かに君を騙したことは事実だけれど、私が君を側に置きたいと思ったのも本当だ。君は私が知っているどんな令嬢とも違う。世の中に悪意があることなんて何も知らず、赤子のように無知で幸せで平和に生きてきた。君を見ていると、君がこんな風に過ごせたこの国も悪くないと思えた。――その純真な心ごと、守ってあげたいと思ったよ」
いつものような、優しい声が歌うように告げる。思わぬ告白に、私は息をつめた。
「ただ、君は私を理想の王子様だと思い込んでいたし、私の隣に立つには知識も経験も不足している。幻想の王子様に恋い焦がれている夢見がちなニーナが、乗り越えるのは難しいだろうと思ってね。君が本当の私を知って、逃げ出すのならそのままにしようと思っていたんだ。君が無理をしなくて済む相手と結婚して、平穏な人生を送らせてあげることも出来た」
ゆるく伏せられた水色の瞳に、長いまつげが影を落とす。あまりの近さとその美しさに、私はまるで夢を見ているような気分で、セオドア殿下の言葉を聞いていた。
不意に殿下が、顔を上げて私をまっすぐに見据えた。
「でも、やめた」
見たこともないような強い光が、その瞳にひらめく。息を飲んだ私を視線だけで絡め取ると、それからふとセオドア殿下はその美貌をやわらかくゆるめた。
「君が好きだよ、ニーナ」
それは、今まで私が聞いた殿下のどの言葉よりも優しくて、うっとりするほど甘い響きを伴っていた。
私は信じられない気持ちでセオドア殿下を見返した。涙でぼやけた視界いっぱいに広がった綺麗な水色の瞳が細められる。声も出せず見入っていた私は、気が付けば唇を塞がれていた。
「もう、手放せないから、覚悟して」
散々むさぼりつくされて息も出来ず、セオドア殿下の腕の中で酸欠になった私のぼんやりした頭に、そんな言葉が届いた。
◇
何がどうしてこうなったのか。まさかの王太子妃候補として一から妃教育をたたきこまれることになった私は、その後アルドリッジ公爵の養女となり、将来の王妃としてセオドア殿下の隣に立つことが確定した。
隣国の皇帝との婚姻を延期までして、私の義理の姉兼、教師の一人となってくれたディアナ様の指導は苛烈を極めた。半泣きの私にディアナ様は、こうのたまった。
「生きていくことも辛いような目に遭っても構わないとおっしゃいましたわよね。これくらいのこと、それに比べたら大した問題ではありませんわ。――セオドア殿下のためなら、何でもするのでしょう?」
市井育ちの男爵令嬢が王太子に見初められるという物語が国内で流行し、私はとんでもない玉の輿に乗った物語のような王妃として後世に伝えられることとなる。




