第一話 レイン戦線には天使と悪魔がいるそうです!
「知ってるか? 風の噂だ」
剣林弾雨の大戦場。
黒煙黒雨が満ち満ちて、土砂が滝のように降り注ぎ、連発式火炎魔術が嵐となって吹き荒れるここは最前線。
最重要戦略拠点、レイン戦線ウィローヒルの丘。
その地獄の戦場の。
汎人類連合側の塹壕から飛び出したところで、仰向けに倒れている兵士が、つぶやくように言った。
「レイン戦線には、天使と悪魔がいる……らしいぜ」
「黙ってろ! 死にたかねぇだろ!」
倒れた仲間の側に身をかがめ、魔術を応射をしながらヒト種の兵士――戦友は怒鳴った。
しかし、男は喋るのをやめない。
「悪魔ってのは、愛すべからざる黄金だ。亜人のくせしてそいつは、高射魔術の着弾点、その只中にあっても傷ひとつつかないらしい。それどころか矢を放てばたったの一射で、十数体の魔族の首を飛ばし、弾道は直角に曲がるとか……げほっ、ごほっ」
「黙ってろ……!」
男の咳には血が混じり、腹部からはだらだらと熱が流れ落ちている。
このままでは彼が長くないことは、誰の目にも明らかだった。
しかし、ヒト種の兵士には、どうすれば彼を救えるのかが解らない。
命令がない限り、兵士たちには撤退も許されない。
ただ側にいて、オロオロと時間を無為に浪費することしかできない。
「それで、天使ってのは」
「天使なんているもんか。いるなら俺たちを救ってくれるはずだ!」
「……どうかな。ともかく、その天使ってのは潔いらしい」
「白い?」
「地にまみれてなお純白……血にまみれてなお潔白……そして……そして……」
「おい! しっかりしろよ、おい! 末期のポエムがそれじゃあ浮かばれねぇぞ!」
「ああ、神よ。よき同胞に恵まれました。ブラザー、どうやら俺にはお迎えが来たらしい」
彼はかすむ視界をあらぬ方向へと向けていた。
空ではない。
大空は黒煙に曇り、閉ざされている。
友軍らが叫ぶ方向でもない。
輩は彼を顧みることなく勇ましく敵兵を駆逐している。
では、どこを?
それは、戦場の真っ只中だった。
「『彼は私に手を伸ばし――私は拙速の手当を施す!』」
響くのは鈴の音のようによく通る声。凜とした声音。
戦火飛び交う激戦区のさなかを、歩いてやってくる小柄な影がひとつ。
それは羽根をもたず。
頭部に輪をいだかず。
しかし誰よりも、潔かった。
「大丈夫ですか、意識はありますか? あるのなら痛みに耐えなさい、止血します」
「ぎっ――」
瀕死の彼がなにかを言うよりも早く、白い少女は傷口に強く手のひらを押し当てた。
激痛に舌をかみ切りそうになる彼の口腔に、無遠慮に差し込まれるのは少女の空いている手。
間一髪命を繋いだ彼は、しかし続く施術を受けて激痛で意識を失った。
患部にアルコールを振りかけられ、軟膏で傷口は塗り固められ、強くバンドで固定されたからだ。
「て――天使……?」
「いいえ、回復術士です。もっとも、局地的回復術しか使えませんが」
疑問をいだくヒト種の兵士から、気を失った仲間を譲り受けると、少女は易々と肩に担ぎ上げ、塹壕へと歩き出す。
「お、おい! 俺たちに撤退は」
「知りません。助けます。あなたもです。だから、希望を捨てないで」
「――――」
歩み去って行く小さな背中を呆然と見送って。
やがて兵士は、自分が無意識のうちに、涙を流していたことに気がついた。
その手が自然と祈りの形を作り、塹壕へと向かって頭を垂れる。
レイン戦線には天使と悪魔がいる――風の噂はまことしやかにそうささやく。
エイダ・エーデルワイス。
彼女はこの頃から密やかに、兵士たちの間でこう呼ばれるようになっていた。
小さな奇跡。
戦場の天使――と。