第二話 その一歩、踏み出せたならです!
夜陰の中に灯火が一つ。
黒い静寂を、カリカリと筆記用具の走る音が切り裂いていく。
「…………」
衛生兵は兵士である。
そのため、休養もまた義務として発生する。
これは訓練兵でも同じであり、突発的な緊急時対応訓練――つまりは突然の喇叭と先任伍長の怒号――を除けば、夜間睡眠を取らなくてはならない。
たとえ眠れなくても横になる。
戦地でうたた寝できるほどの図太さが、衛生兵たちには求められていた。
しかし、現在パルメは絶賛夜更かしの真っ最中だった。
日中の過酷な訓練――体力増進という名の行軍や座学、目の前に延々と着弾を続ける魔術を匍匐移動で避けながら止血を続ける訓練でとっくに限界だったが、彼女はまだ寝ようとしない。
衛生課の資料室にこもり、無数の書物と向き合っていた。
魔導ランプの灯りは極限まで絞っており、誰かに気が付かれることへの警戒を厳としている。
つまりは、無許可だ。
先任伍長あたりに見つかれば、即刻〝制裁〟が待っているだろうし、連帯責任で仲間達にも迷惑……というよりも、恨みを買うことになるだろう。
特になにかと突っかかってくる女顔のヒト種など、大喜びで皮肉を投げかけてくるに違いない。
それが解っていても、パルメにはどうしてもやらなければならないことがあった。
一つは、研鑽である。
クロフォード侯爵の息子を救えなかったという事実は、彼女のアイデンティティーに深い傷を残していた。
大隠者に師事して学んだ医術知識。
それは、アズラッドとパルメを繋ぐかけがえのない絆だ。
けれども最も必要な場面で、少女はこの活用に失敗した。
それどころか、エイダ・エーデルワイスに発破をかけられてしまった。
だから誓ったのだ。
必ず白き乙女を超えてみせると。
「それが、アタシのやるべきこと」
使命。夢。目標。
そう呼ばれるものが、これまでパルメにはなかった。
ただ、師と同じ時間を過ごせればよかった。
けれども、衛生兵になって。
訓練と日常の狭間で白き乙女を見つめ続けた結果、一つの感情が芽生える。
それにどんな名前をつけるのが正しいか、パルメには解らない。
ただ、あの日から一日たりとも休むことなく、勉学に打ち込んできた。
所蔵されている書物を読み込み、ひたすら実践する。
結果は如実に表れていて、衛生課で彼女より優秀な訓練兵はいない。
――だが及ばない。
いまだに、戦場の天使の背中は遠い。
「大丈夫。焦ってなんかない」
けれど、もし……と考える。
エイダの行く道を自分が阻まなければ。
あの孤高たる才媛は、いつまでも先頭を歩き続けるのだろうか?
衛生兵という、概念の先頭を。
たった独りきりで、どこまでも。
「そんなの許せない」
認められない。許容してはならない。
だから、努力を続ける。
知識を充足し最新のものへと更新し、足りない実戦経験を日々補う。
その上でもうひとつ。
少女には、やるべきことがあった。
それは――
「――んー!」
パルメは胸中にたまっていたものを吐き出し、大きく伸びをする。
この数ヶ月、基礎訓練に打ち込んでいるため体力自体はとても増えていた。
されど人類には、集中力の限界が存在する。
「ちょっと、休憩しよっかな」
夜間だが、お茶の一つぐらい入れても罰は当たるまい。
そう判断した少女は、いったん片付けをして食堂へと向かう。
「……?」
途中、奇妙なものを目撃した。
ある部屋から、灯りが漏れていたのだ。
衛生課長官の執務室だった。
なんとも言えない顔つきになりつつ、パルメは部屋の中をそっと覗き込む。
案の定白い頭の娘が、真夜中だというのに書類整理に勤しんでいた。
悩む。
大いに悩む。
見なかったことにするのは容易だ。
しかし。
「よし」
パルメはひとつの決断をすると、早足にその場から立ち去った。
§§
「――こんな時間に、どうされたのですか、パルメ訓練兵?」
ノックとともに執務室の扉を開けると、部屋の主はきょとんと目を丸くした。
エイダ・エーデルワイス。
戦場の天使、グランド・エイダなどという誇大な異名は、どこまでも似合わないとハーフエルフの少女は感じる。
「アンタこそ、何してるわけ?」
「日課の勉学と、講義の資料作りです。あと、幾つかの問題の対処もですね。私は正当な学術の徒ではありませんが、少しでも命を助けることに繋がるのなら、学びたいことも多くありまして」
日中は衛生課長としての仕事をやらなければいけないのでと、エイダは微笑む。
少女はそっと下唇を噛んだ。
自分が振り絞って行っていた努力は、どうやらこの娘にとっては当たり前のものに過ぎなかったらしい。
……いや。それは想定のうちだ。
でなければ、この若さで師を超えるほどの技を身につけられるはずがない。
「根詰めすぎよ。お茶、煎れるけど……」
「……? ひょっとして、ご相伴に与ってもよろしいのですか? それはパルメ訓練兵の」
「私の、なに? ひとりで飲めってーの?」
妙なところで律儀なのだからとため息を吐き、パルメは部屋の中へと踏み込む。
お湯と茶葉は二人分用意したが、カップは自分のものしか持ってこなかった。
室内を見渡せば、目当てのものはすぐに見つかる。
数少ない調度品である棚に、ティーセットが一式。
見事な絵付けが施されたカップも、そこには置いてあって。
「これって」
「あ、それはですね、アンティオキア様とその補佐官さんから送っていただいた品で」
あの聖女から?
「はい。この部屋を拝領したときに頂戴した、思い出の品なのです」
……この娘、こんな顔もするのか。
他人のためにしか笑わないのかと思っていた。
「それにしても夢のようです」
「なにが?」
「少尉達の目を盗んで、パルメ訓練兵とこっそりお茶をご一緒できるなんて思いもしなかったので。ティーカップの思い出がまた増えました!」
少女は閉口した。
なんとも言えない気分になり、薄荷色の髪を弄って、紅潮していた頬を隠す。
「それ、勘違いだから。恥ずかしい勘違いだから」
「私は嬉しいです」
「あー、もう!」
意味の無い言葉でエイダのニコニコ顔をかき消し、パルメはお茶を入れることにした。
カップに琥珀色の液体が満たされ、ゆっくりと湯気を上げる。
何を話すでもなく、二人でその湯気を見詰め、やがて口をつけた。
フルーティーな香りと、心地よい熱が身体の奥深くへとしみこみ。
エイダとパルメは、ほとんど同時にほっと息を吐き出し。
ゆっくりと顔を見合わせる。
何がおかしいのか、白髪の娘は口元を緩めていた。
エイダが問う。
「随分と、無理をされているようですね?」
「アンタにだけは言われたくないんだけど……待って。あー、そういうこと?」
おかしいとは思っていたのだ。
今日までパルメは、誰にも夜の勉強を咎められることがなかった。
いくら灯りの光量を絞っても、どれだけ静かにしていても、見回りが来ればすぐに解ってしまうはずなのに。
「すぐ近くを、誰かが通過していく気配があったのに、無視されたこともあったっけ。あれもアンタの指示?」
「それは知りませんが。ふむ、あとで照会しましょう。しかし……思っていたことが一つあります」
「なに?」
「できるなら、一緒に勉強がしたいなぁと」
パルメは黙った。
答えることなく、お茶を口に運ぶ。
別の話題を、口にする。
「アンタから頼まれた、あの山のような資料、もう少しでまとまるけど」
「助かります。きっとそれが、衛生課と兵站課の問題を解決してくれると確信していますから」
「それにしても多すぎだって」
「でしたら、私の請け負う分を増やしましょう」
「いいえ、それは断じて認められないわ」
少女はさっと髪を掻き上げ。
若草色の瞳で、真っ直ぐに上官を見据える。
綺麗な赤色の視線が、同じように自分を直視していて。
「非効率だもの。まとめてこなすほうが、ずっといい」
「つまり?」
「……明日から、この部屋でやるって言ってるの。仕事も、勉強も――アンタと一緒に!」
「…………!」
意味するところを理解して、ぱぁと表情を輝かせるエイダ。
耳まで真っ赤になるパルメ。
頭からは湯気が出そうだった。
「ほんと勘違いしないで。あと、さっきより嬉しそうな顔をするな!」
「でしたら、今度買い出しに行きませんか?」
「は?」
「パルメさん用のティーカップもあったほうがいいと思うのです。他にも、栄養満点のお茶菓子とか!」
「……あるじゃない」
首をかしげるエイダへと向かって。
パルメはむずがゆい表情で、庵から持参した私物のカップを持ち上げてみせた。
「ここに、アタシのマグカップ」
「……!!」
両目を見開き、煌めかせて、これ以上無い喜びを顕わにするエイダ。
「この部屋に置きましょう! 効率的に!」
「待って」
「そうだ、明日の予定を変更します。カップがある以上、必要なのはやはりお茶菓子です。知っていますか? すごく美味しいアップルパイのお店があって――」
「話を聞けー!」
かくして。
夜のとばりの中に、少女の切々とした叫びが響いていく。
衛生課に異常なし。
しかして、パルメは上官たるザルクの命令を、不本意ながら履行することとなった。
なにせ、この日から彼女は。
エイダの侍従としての役割を、帯びることになったのである。