第閑話 ドキドキ、ふたりのデートです!
その日、レーア・レヴトゲンは久方ぶりに戦火とは無縁の朝を迎えた。
密会のためである。
レイン戦線から馬車に揺られて数日。
到着した最寄りの都市こそ、かの大領主ページェント卿が統治する銃後、人類存亡都市リヒハジャであった。
賑わいの絶えない雑踏のなかに立ち尽くし、レーアは頭を抱えてつぶやいた。
「……どうしてこうなった」
戦場に立っているときのレーアを知るものが、いまの彼女を見たら目を剥くことになるだろう。
本質的に兇猛で、冷笑的な態度を崩さず、軍紀どころか服装の乱れも許さないような職業軍人である彼女が、とても簡素であるとはいえドレスに身を包んでいたからである。
相手方から、極めて市井に寄り添った服装を求められた結果だった。
凜として厳格なる普段のレーアの面影はない。
均整のとれた体付きの上に、エルフの印である長い耳を隠すツバ広の帽子と、心底疲れ切った美麗な顔が乗っかっているさまは、彼女の忠実な部下たちにさえ失笑されそうな、一種滑稽な出で立ちだった。
もっとも、その朋友たちを戦地に残して、任務のためとはいえ市井に降り立った彼女は、罪悪感に打ち震えていたのだが。
「どうして、こうなった……!」
絶叫したい衝動に駆られたレーアだったが。
それを寸前で押しとどめたのは、背後からかけられた柔らかい声だった。
「あ、ひょっとしてお待たせしてしまいましたか?」
ゴキリと首を傾け、胡乱な視線をそちらへと向ければ、紅顔の美少年が立っていた。
「ページェントさま」
「もう、エルクでいいですってば。ぼくとレーアさんの仲じゃないですか」
そんな親密な間柄になった覚えはない――などと、言い放つことは許されない。
エルク・ロア・ページェント。
彼こそ、約束された未来においてこの都市を、そして人類が防人としての使命を継承する、辺境伯の実子であるからだ。
重たいため息を吐きながら、レーアは少年へと向き直った。
弓も愛用のスコップもないことが、この心持ちを悪化させている原因だと、レーアはこのとき気がついた。
武器がないのは、落ち着かない。
「どうしましたか?」
「いえ、別段」
応じつつ、それとなく相手を観察する。
少年もまた、普段の貴族らしい服装ではなく、ありきたりな姿をしている。
それはまるで、これから潜入調査でも行うのだとでもいうかのような、街にとけ込んだ姿だった。
もしもフードの一枚でもかぶれば、完全に一般人だと誤認されてしまうだろう。
たとえば、声の高い小男だとか。
「はっはっは。ぼくは姉上と違って凡庸な外見ですからね」
「……失礼を」
「いえいえ。率直な物言いが、むしろ嬉しいです。なかなか皆、胸襟を開いてくれるわけではありませんから」
「…………」
「それに……レーアさんの隣にいては、誰しも一般人と見間違えられることでしょう。これは致し方ありません」
なるほど、これほど険がある女エルフ、他にはいまい。
妥当な審美眼だと、レーアは頷く。
「おっかないという意味ではないのですが……しかし、いつまでも突っ立っているのも芸がありません。時間だって惜しいですし、行動しましょう。レーアさん、リヒハジャは初めてですか?」
「はっ。残念なことに、忙しい身の上ですので」
「国防問題があることは確かに残念ですが……よかった。ぼくとしてはエスコートできそうで一安心です」
少年は「えへへへ」と楽しそうに笑う。
「では、お手をどうぞ」
そうして、姫君にでもするように、エルクはレーアへと手を差し出して見せた。
「…………」
一瞬、キザったらしい仕草に、はねのけてやろうかと本気で考えたエルフだったが。
それで機嫌を損ねられても困ると考えをあらため、ため息とともに彼の手をとった。
こんなゴツゴツした手を握って、なにが楽しいのだろうか、貴族の子息など引く手あまただろうに、童貞なのだろうか。
そんな言葉はとうぜん飲み込む。
思慮深いレーアは、あまり失言をしない。
手を繋ぐと、少年はふんわりと微笑んだ。それがなまじエイダによく似ているので、レーアは微妙な感情を抱くことになる。
エルクの先導で、ふたりは歩き出す。
「ここらあたりではですね、市が開かれているんです。ときにはビックリするようなものも売られていたりもしますよ」
「偉大なページェント辺境伯のお膝元とはいえ、目の届かない部分もありましょう。戦中ですし、是非もないかと」
「……危険物の話ではありませんよ?」
「…………」
合わないな。
少年と自分の相性を、レーアは直感的にそう悟った。
§§
最初に連れて行かれた服飾店は、レーアにとって居心地の悪い――エルク曰く「かわいい」――ものばかりだったが、次に訪れた魔導具を売る露店は、大いに彼女を惹きつけた。
扱っている魔導杖はどれも最新式で、魔術の発動触媒として一級品。
陳列の端に追いやられているが、くすんだミスリル銀のナイフなど、クリシュ准尉が大いに気に入るだろう取り回しの良さが見て取れた。
防御術式が組み込まれたお守りなど、部隊で使っているものより良品であるとレーアは目利きする。
「よろしかったらですが、そのタリスマン、プレゼントしましょうか?」
「自分にですか? ご冗談を」
「いえ、些細な出費ですよ。今後のレーアさんや、その部隊の活躍を考えるなら」
言うなり、エルクは店先の品物を端から買い占めてしまう。
「はい、どうぞ。のこりは使用人に運ばせますね?」
「ドーモ」
レーアはタリスマンを複雑な表情で受け取る。
親の金で奔放に振る舞うロクデナシ――などと、決してレーアは思わない。
ページェント卿の嫡男には、その資格があると、ただ認める。
「次はあちらに行きましょう」
「はっ」
「もう、今日ぐらい堅苦しいのは抜きで!」
「……はぁ」
そんなやりとりをして。
ふたりは、あちこちを見て回る。
火酒を買い込めたのは大戦果だったと、美貌のエルフはほくそ笑んだ。
部下たちを鼓舞するため、有能な指揮官というのは常に報償を隠し持っているものだ。
特にドワーフの伍長など、大喜びするに違いないと彼女は思った。
干し肉を買いだめできたのも素晴らしかった。
「不死身連隊、ですか?」
「はい、自分たちは、どうにもそのような通称で呼ばれているらしく。おかげで、最前線だというのに、どうせ死なないだろうと、ろくでもない物資ばかりが送られてくるものでしてね、腐った肉など御免被るのだが」
過酷な塹壕戦において、食事は数少ない娯楽だ。
それを蔑ろにされては、士気が下がってしまうとレーアは嘆く。
「だから、この通り私財をなげうってでも、すこしばかりの〝よいもの〟を握っておくわけです。塹壕に無神論者はいません。神、天使……そして食事。なんでもいいですが、心の支えを人類は求めるわけでして」
たとえば、あなたの姉のように。
レーアがそう告げれば、エルクは困ったような顔をした。
「姉上は、ヒトですよ」
「……失言をお許しください」
「いえ」
「ともかく、主計課も、軍本体も、私の懐事情――とくに出費に関しては関知しない」
その程度の羞恥心は奴らにもあると、レーアは黒い笑みを浮かべて見せた。
「もっとも……やつらは隊費の上前をはねるよりも、美味い儲け話を見つけているようですがな」
リヒハジャ全体を見回して、レーアは告げた。
どうにも、市場に出回っているものの質がよすぎると。
「兵站課が横流ししているに銅貨五十枚」
「賭け事はしませんよ。勝てるときに堅実に勝ちます」
「なるほど、君主であらせられる」
お互いに口に出せない策謀を巡らせているのだと理解し合い、ふたりは笑った。
そうこうしているうちに、日が暮れ始める。
一日の終わりに、エルクはレーアを、丘の上の飲食店へと誘った。
夕暮れを眺めながら、ふたりは珈琲とアップルパイを口にする。
「極上の甘味ですな。珈琲も本物だ」
「景色も良いでしょう。あの夕暮れなど、レーアさんの瞳に劣らない美しさですよ」
「……夕景を美しいと感じる。戦場にはない感傷ですな」
日が暮れても、前線では攻撃が散発的に続く。
むしろ奇襲を警戒しなければいけないぶん、神経を使う。
エイダ・エーデルワイス。
彼女も、夜には他の職務で席を外す。
223連隊にとって、夜は己以外に寄る辺のない最悪であり、夕焼けは、そのはじまりを告げる不吉な光景に他ならなかった。
「……申し訳ありません」
「謝られることではない」
「では、お詫びの代わりに……こちらをどうぞ」
渡されたのは、大きめの紙袋だった。
「これは?」
「約束の品です」
「……は?」
「付け届けると、言ったではないですか」
中身を検め、レーアは片眉を跳ね上げた。
新品の煙草だった。
なるほど。どうやらこの少年は、義理堅くも口約束を覚えているたちらしい。
そう考えると。
どうしてだかレーアの口元は、微かに綻んだ。
「ほかにも、できる限りのことはします」
「タダで袖の下を戴ける、というわけではなさそうですな」
「ええ、ぼくは決して、賭け事はしませんので」
根回しは万全。
これから、223連隊には大きな仕事が舞い込む。
そう約束されたようなものだった。
「ところで――どうですか、この街は?」
少年の問い掛け。
お為ごかしを作るよりも早く、その言葉は、自然とレーアの口を突いて出ていた。
「よい街ですな。王都と比べても、遜色ない」
沈みゆく夕日に照らされるリヒハジャは美しく、夜が近づいてなお活気に満ちていた。
「しかし――亜人の息吹はない」
それが、彼女の本音だった。
浮かれたように散財をしようとも、鷹の目が曇ることは一度もなかったのだ。
一日、歩いてみてレーアにはよくわかった。
人々はしあわせそうで、けれど、リヒハジャに亜人は少ない。
いないわけではないが、みな隠れるようにして生きている。
そして――それですらマシな生き方なのだ。
「強制収容所」
ヒト種が作り出した、亜人の全てを隔離する特別区画。
いつ魔王の手先になるかも解らないという不安が、人々に作らせた種族の垣根、断絶の檻。
レーア最大の目的は、そんなどうしようもない軋轢を破壊することにある。
破壊できなくても、ほんの少しでも緩和できれば。
そのために、彼女は命を捨てるが如く、戦場で戦ってきた。
レインの悪魔と呼ばれるまでに。
しかし。
けれども。
「無論、そのような些事に関係なく、自分は戦います。人類を守る一兵卒。それこそが、仕事でありますから」
「では」
少年が。
逆光のなかに立った彼が。
氷のように冷たく微笑み、言った。
「では――ぼくのことは、どうですか」
「任務とあらば、どのようにも振る舞いましょう。身辺警護からウブな恋人のふりまで、お気の召すままにどうぞ」
今日のこの日のように。
部隊の待遇改善をエサに、密会という名の道楽に付き合わされてなお、レーアの覚悟は変わらない。
この身のすべてを、同胞達を救うため、国に捧げる覚悟はとっくに出来ていた。
「…………」
それでも、レーアはほんの少しの疲れを感じて、空を見上げた。
夕暮れの赤と、夜の藍色が混ざり合う紫色の空を仰いだ。
ゆえに、彼女は見逃した。
少年が、そのときどんな顔をしていたのかを。
「なら、姉上はどうです?」
「なに?」
ハッと視線を転じれば、先ほどまでと変わらないエルクがそこにいる。
しかし、彼は同じように繰り返す。
「姉上を、エイダ・エーデルワイスを、あなたは見捨てないと断言できますか?」
「…………」
疲れや疎ましさからではない。
この問い掛けに、考え無しの答えを返してはならない。
レーアは言葉を探す。
当たり障りのないものを? 違う。
それは。
「……守らなくてはならない」
「…………」
「エーデルワイス高等官には、死んでも死なないような強かさがある。だが、そんなものは幻想だ。だから、絶対に守らなくてはならない。この、命に代えても」
「そう――ですか」
くしゃり、と。
少年は、破顔した。
レーアは初めて、彼が本心から笑ったように感じた。
「かっこいいですね、レーアさんは。まるでいにしえの騎士さまのようです」
「お気遣いは結構。それに愚直な騎士は、もはやイルパーラル戦線にしかおりますまい」
「……今日はとても楽しかったです。ぼくの想い出作りに付き合って頂き、ありがとうございました」
想い出作り。
その言葉が、レーアの眉根を怪訝に歪めさせた。
なんだかそれは、不吉な響きを帯びており、これから死地に赴くものが口にするような台詞だったからだ。
「ねぇ、レーアさん」
少年は。
「ぼくは、レーアさんが好きです。レーアさんは――」
柔らか笑みで、まっすぐに言葉を紡いだ。
「もしもぼくになにかあったら……姉上と同じように、助けてくれますか?」
その問いかけへの答えを、レーア・レヴトゲンは覚えていない。
だが、いずれ返答のタイムリミットがやってくることを、彼女はなぜだか、知っていた。
§§
このひと月後、レーア率いる223独立特務連隊は、地獄のような戦場へと送り込まれ、達成不可能と思われる任務に従事することとなる。
けれどこの日、この瞬間。
レーアはまだ、そのことを知らず。
ただ、エルクと談笑を交わしていたのだった――