第五話 治療行為が禁じられたので、病院を徹底的に綺麗にします!
「よし――やりましょう」
夜。
胴長――胸当て、ズボン、靴が一続きになった作業着――を身につけ、両手に手袋、顔にはマスク、頭には頭巾をかぶったエイダは、ひとつ気合いを入れると、目の前の惨状へと取り組むことにした。
トートリウム野戦病院は、古城を改築したものである。
その設備は古い時代のものでとどまっており、とくに下水設備などは致命的であった。
ごみや糞尿、ちぎれた手足、それを貪りに来た虫、ネズミなどの死体が、まとめて垂れ流されている下水路は、とっくの昔にパンクしており。
いまでは悪臭を放ちながら、間歇泉のように汚水をばらまく最悪の環境と化していた。
エイダは、ここの掃除に取り組んだのである。
院長である聖女によって、あらゆる医療行為を禁止された少女だったが、それでも傷病兵たちのためにできることを考えた。
思いついたのが、掃除であった。
ヨシュア中佐に口を利いてもらい――彼はずいぶん渋い表情を浮かべたが、エイダは笑顔で押し切った――彼女は最前線とトートリアウムの二重勤務をはじめた。
無論、辞令とともに病院を訪ねると、聖女も引きつった顔をしたが、エイダにとっては些細なことであった。
重要だったのは、病院の〝不潔さ〟であったからだ。
「第一に、この病院の衛生環境は劣悪です」
もちろん、ほかに気になるところはいくらでもある。
だが、いの一番で改善しなくてはいけないのが、〝衛生〟であった。
「回復術士や聖女には、生まれつきの魔力が強くありますから、基本的にどれだけ汚れた環境下でもなんとなく健康を保てます」
だから、回復術士というのは――高位魔術師の一部もだ――あまり身の回りを気にしない。
清潔さに無頓着だといってもいい。
これが、魔術の使えない一般兵たちになってくると話が違う。
彼らが傷を負えば、そこから雑菌が侵入し感染症を起こす。
ヒールによって治療すれば傷口自体は塞がるが、病毒までもが癒えるわけではない。
「つまり、感染が起きない環境を作るのが最善でしょう」
エイダにしてみれば、その程度の考えである。
しかし――衛生。
この考え方が、諸人にもあるだろうとするのが――すでにエイダの間違いだった。
彼女は、個人図書館という恵まれた環境で勉学に励み、弟の治療という形で知識を実践し技術に昇華してきた。
かの図書館に収蔵められていたのは、いわゆる魔本――禁書焚書の類いであった。
魔術とともにあった文明の中で、魔術に頼らない道を模索した異端者たちの手記。
碩学賢者が、世の中から追放されながらも見いだした、幾つかの真理。
病原菌。
内臓の存在する意味、機能。
自己免疫の存在。
手洗いやうがいが、なぜ効果的なのか。
そんな、魔術とは別系統の、スタンダードとは言いがたい技術、医療の知識を練り合わせ、彼女が独自に生み出したのが――〝応急手当〟という術理だ。
これが一般的に理解されないものであることを、エイダの脳みそはすっぱりと失念している。
彼女にとっては当たり前の知識が、他の者たちには奇跡のように映る原因である。
事実、聖女がエイダに、掃除という活動を例外的に認めたのも――ある種の贔屓がありはしたが――それでなにが変わるとも思えなかったからだ。
だから、エイダが下水を掃除するさまを、病院の運営に携わる医療術士たちは、奇異の眼差しで見つめていた。
そんなことをして、なんになるのだろう。
自分たちは選ばれた人間なのだから、もっと楽をすればいいのにと。
けれど、白い少女は止まらない。
自分の全身がどれだけ汚れようと、構うことなく下水に挑んだ。
夜中は下水の掃除をおこない、昼間は最前線へとって返し負傷者に応急手当を施す。
彼らを病院まで後送し、もういちど戦線へと向かう。
どっぷりと日が暮れたころ、古城へと戻り、また下水に立ち向かう。
その合間に、病院内のトイレや床の掃除もおこなっていく。
これを、彼女は半月ほど繰り返した。
「……あなた、エイダさん、だよね?」
「はい?」
やがて、変化が生じる。
はじめこそ、誰もが胡乱な目つきで彼女を見つめていた。
あるいは気にも留めなかった。
しかし、風向きはだんだんと変わっていく。
ある日、ひとりの女性がエイダへと声をかけてきた。
帽子を目深にかぶり、顔には布を巻いた、いかにも訳ありで、いかにも怪しげな女性だった。
「おつかれさま、かな? まあ、疲れてはいるよね。毎日大変でしょ?」
「いいえ。これは重要なことですから」
「……すごい頑張ってるけど、そんなことに意味ってあるのかな? 我らが偉大な聖女様を困らせているだけじゃない? 迷惑をかけてしまっているだけじゃない?」
「迷惑をかけているとは思います。しかし、意味はありますよ」
「あるの?」
「はい、あります」
問われるがまま、エイダは衛生の話を語りはじめる。
魔術や呪いと同じように、目に見えぬものが作用してかかる病気があること。
その病気の源は、こういった不潔な場所に集まり増えていくこと。
清潔であることの重要性など。
彼女は知識を秘することなく、惜しみなく説いた。
それは、エイダをして知らぬことではあったが、本来ならば大賢者と呼ばれるような偉人たちに師事して、数十年をかけてようやく学べるような知識の数々だった。
すべてを聞き終えて、怪しい女性は、
「……まあ、頑張ってね」
それだけ告げて、姿を消した。
エイダは彼女を見送り、仕事に戻った。
しかし、翌日。
「……気が変わったわ。あんまりにもあなたは無茶をするようだし……わたくしがすこし、すこーしだけ、手伝ってあげる」
怪しい女性は、そう申し出てくれた。
面食らったのはエイダである。
誰かに手伝ってもらおうと思って知識を口にしたわけでも、助力を想定していたわけでもなかったからだ。
だが、その女性はひとつの契機に過ぎなかった。
翌日には、さらにひとりが。
その翌日にはふたりが。
翌々日にはさらに……どんどんと、彼女へ協力する者たちは増えていった。
それは、医療に理解のある回復術士にとどまらず、非番の看護士や、なかには軽傷の兵士たちも含まれていた。
「どうして」
なぜ手伝ってくれるのかと、少女が唖然と訊ねれば、彼らは照れくさそうに、しかしこぞって答えたのだ。
「だって、きみがあんまりにも必死で頑張っているから」
だから報いたくなったのだと、彼らは言った。
エイダの行いが、本当に健康を守るものか解らなくても。
それでも、彼女の懸命さが、伝わったからと。
はじめてこの病院を訪れたとき、そこに蔓延っていた無理解が、いまこのとき、わずかながら理解へと変わった。
エイダが積み上げた実績こそが、彼らの意識に変革をもたらしたのだ。
「みなさん……ありがとうございます!」
ぺこりと頭を下げる白い少女に、温かな声援が降りかかる。
「……聖女ベルナ。あれ、いいの?」
「いいも悪いも」
そんなエイダたちの様子を、離れた執務室から見おろし、マリアは、自らの主へと訊ねた。
ベルナは紅茶をゆっくりと傾けながら、なんとも微妙な表情で笑った。
心中では、自分もあの場で手伝いたかったなぁと考えながら。
「彼女はなにも、あたしがつけた注文を破っていないもの。してないでしょ、医療行為?」
「ですが……」
「それに、わかってるのよ、マリア。あなたでしょ? いちばん最初に彼女へと近づいて、手伝ってみせたのは?」
「――やっぱり、ばれます?」
「そりゃあ、竹馬の友だもの」
訳知り顔のベルナに、マリアは舌を出してみせる。
そうして、そっと後ろ手に持っていた帽子と、布を取り出して、顔に巻き付けて見せた。
その姿は、エイダの元に初めて現れた協力者、怪しい女性そのものだった。
ベルナのお目付役であり、加えて回復術士の管理も役目であるマリアは。
エイダのことを抜き打ちで調査していたのである。
「もちろん、こんなことになるなんて、わたくしは予想していなかったけどね」
「あなたって、恐いくらいに抜け目がないわね。だからこそ頼りになるのだけど」
「お誉めに与り恐悦至極、なんちゃって」
かしこまってみせるマリアを見て、ベルナは微笑む。
「けれど」
聖女は、すぐに笑みを消して、目を閉じた。
「これ以上は、なにもできないわよ。だって――彼女が唱える理想を叶えるには、圧倒的に、物資が不足しているんだもの」
憂いを持って開かれた紫色の瞳は、病床で苦しむ兵士たちの姿を遠くに見る。
彼らは未だ、使い回しの包帯で治療され、汚れきったシーツの上に寝転ばされていた。
「さあ、次はどうするの、エイダ・エーデルワイス? 戦場の天使、まるで堕天使レーセンスの生まれ変わり。あんたは――どうするの?」
マリアにも届かぬほど小さな声で、彼女は今日も働きづめの少女へと問いを投げる。
その前途が祝福に満ちているように、心の中だけで祈りながら――