第三話 聖女さまは憂鬱です!
「はぁ……」
「どうしたの、聖女ベルナ?」
「どう、というわけでもないのだけど……はぁ」
レイン戦線から約半日の距離。
古城を改築して作られたトートリウム野戦病院の執務室で、聖女ベルナは出涸らしのお茶を口にしながら、今日十六度目のため息を吐いた。
青を基調とした第一種戦時聖別礼装の頭巾から、春色の髪がさらりとこぼれ落ち、弱い陽光の中で陰ったように揺れる。
聖女ベルナデッタ・アンティオキア。
翼十字教会から出向してきている彼女は、たぐいまれなる奇跡の代行者であった。
腕の一本や二本など、簡単に再生し。
致命傷を負った人間でも、奇跡の行使が間に合えば一命を取り留める。
ベルナはそれだけの術者であり、だからこそ齢二十五にしてこの病院の責任者、院長を任されていた。
「あー、ひょっとして、その責任が重いってこと? 心痛? お茶のおかわりいる?」
「違うわマリア。これでもあたし、いまの仕事には感謝をしているの。あと、お茶はまだ飲んでる」
戦場への出向は、決して左遷ではない。
むしろ教会としては、実地経験を積むことで神の試練を受け、偉大な聖女へ成長してほしいという思いがあり、ベルナにしてもそのことをよくよく理解している。
将来は聖女を統括する地位に就くことすら、彼女は嘱望されていた。
「回復術士の仲間たちだって献身的だし、兵隊さんには感謝されるし、奇跡を重ねることで出世コースには乗るし……なにより、毎日空いた時間には神様への祈りを捧げられる。神殿にいた頃じゃ味わえない、刺激的で、とても充実した日々よ」
「じゃあ、なにに困っているの?」
「……困ってるように見える?」
「だから訊ねてるのだけど、違った?」
お茶の相手をしていたベルナの補佐官、軍と教会の橋渡し役であるマリア・イザベルは、眼鏡のつるにそっと指を這わしてから首をかしげた。
「はぁ……親友に隠し事はできないわね」
今日十七度目のため息をついて。
ベルナは気心の知れた友達へと、悩みの種を打ち明ける。
「マリアは、知ってる?」
「なにを」
「戦場の天使の噂」
「あー」
その言葉を聞いて、マリアは納得したような、やっぱり解らないような、ひどく微妙な表情になった。
しかし、聖女は構わずに続ける。
「ここのところ、病院にやってくる兵隊さんが増えているでしょう。特に重傷者の数は、いままでの比ではないわ」
「んー、でも」
「そう、死者は減っているの。つまり、助かる状態で辿り着く兵隊さんが増えているわけ」
そして、その原因は〝戦場の天使〟にあるというのが、もっぱらの噂だった。
「実際、多くの兵隊さんはうわごとでこう口にするわ。『白い髪、赤い眼をした天使が、自分を助けてくれた』って」
「……なるほど。そこが聖女の悩みどころなわけか。翼十字教会で、白い髪に赤い眼の天使といえば」
「ええ。導きの天使にして楽園から去った堕天使〝レーセンス〟を指すわ」
この世界ができて、多くの種族が満ちたとき、神はヒト種に霊長としての冠を授けた。
一方で、選ばれなかった亜人たちを憐れんだ導きの天使レーセンスは、自ら神の御許を離れ、彼らを守る守護存在となった。
これらのことから、白髪赤目の人間というのは、歴史的に社会から倦厭される風潮があった。
レーセンス自体が、ヒト種にとってはマイナーな天使であるから迫害にまでは至らないが、白髪赤眼という容姿は、決して好意的には受け取られていない。
仮に、なんとも思わないものがいるとしたら、それはよほど合理的な判断をする人間か、ヒト種以外の亜人である。
「だから困ってるのよ」
「実在するにしても、兵士たちが見る幻覚だとしても、教会側の聖女様には看過しがたいってわけ?」
「そう。でも」
「でも?」
「いいえ、なんでもないわ。……個人的には応援したくなっちゃうとか、言えるわけないじゃない……」
「なにか言った、ベルナ?」
「いいえ! なにも!」
すこし大きな声で反論し、ベルナは十八度目のため息を吐いた。
そうして、すっかり冷えたお茶を飲み干した頃。
慌ただしく執務室のドアがノックされた。
「失礼します!」
飛び込んできたのは、雑務を担当している看護師のひとりだった。
ベルナは首をかしげながら用件を尋ねる。
すると看護士は、困惑を絵に描いたような表情になり、
「じつは、院長に取り次ぎを願うというかたが、訪ねてきておりまして」
「そんな予定、あったかしら?」
なかったはずだとマリアが首を振るので、ベルナは。
「急用かしら?」
「はい。それもなんだかおかしな具合で」
「?」
「えっと……」
ちらちらとマリアの様子をうかがって。
それから看護士は、意を決したように切り出した。
「訪ねてこられたのは、最前線の高等官さま。その方は、訪問の理由を、こう仰っております。『この病院の改善について、どうしても話し合いたいことがある』――と」
「…………」
「聖女ベルナ?」
ベルナは思った、面倒くさいと。
自分は責任者で、相手は無関係のやからだ。
土台からして無意味な話し合いになるだろう。意味不明な要求をつけられるかもしれない。
看護士がマリアの顔色をうかがっていた理由もはっきりした。
マリアは折衝役で、そんな彼女を通していない話など、非公式なものに違いないからだ。
「……はぁ」
それでもベルナが、もはや数えることもやめたため息とともに重たい腰を上げたのは、相手の立場が高等官だったからだ。
高等官とは、軍属に与えられる地位であり、いうなればご同輩だと彼女は考えた。
命の危機から遠いとはいえ、ここは戦場。
そんな場所で、どうしても訴えたいことがあるというのなら、せめて聖女として、話だけでも聞いてやりたいと慈悲の心が芽生えたのである。
……もっとも、それは本人と出会うまでしか継続することのない、刹那的な心持ちではあったのだが。
「初めまして。あなたが聖女ベルナデッタ・アンティオキアさんですね? 私はエイダ・エーデルワイス高等官。突然ですが、この病院には欠陥があります。改善させてください!」
「――――」
赤い瞳に純白の頭髪をした少女は、開口一番そう告げた。
聖女ベルナは、
「ちょ、ベルナ!?」
その場で、白目をむいて卒倒した。
なぜなら彼女、聖女ベルナデッタは。
風の噂に聞く戦場の天使の、心底絶対なる大ファンだったからである。