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桜人

作者: 河合桜

「──何してんだ?そんなとこで」


 四月も始まったばかりの、入学式当日。

 一人の青年は、斜め上を見上げたまま立ち尽くしている一人の少女に、そう声をかけた。

「桜を見てるの」

 少女は青年の方へは振り返らずに、そのままの状態でそう答えた。

「は?桜?……好きなのか?」

 青年のその問いかけに、少女は少し悲しげに目を細めてから、口を開いた。

「……そうだね」

「好きでは、ないかな」


 ──もしも今日、貴方の大事な人が、目の前から消えてしまうとしたら

 貴方は最後の一日を、どう過ごしますか……?






「二週間だけ!私と付き合ってください!!」

 ………突然

 つい今しがた話したばっかりの、名前も知らない一人の少女に、そんなことを言われた。

「………は?」

 いや、何言ってんだこいつ。

 俺は思わず、蔑んだ目で真正面にいるこの女を見た。

 初対面の相手に、普通こんなこと言うか……?

「……あのな、何にも知らねぇ奴と、いきなり付き合えるわけねぇだろうが」

 俺は呆れて、当然のことを口にした。

 しかも二週間『だけ』って……、こいつ失礼とか考えねぇのか……?

 すると、目の前の少女は、「はっ」とした表情になった。

「…はっ……!!すみません、もしかして彼女さんが……!?」

「いやいねぇよ!!言わせんじゃねぇ!!」

 そもそも、気にするところはそこじゃねぇんだよ!!

 はぁ……、ったく、本当に何なんだこいつ。

 俺は一つ、溜息を吐いた。面倒事は御免だ。

 というか俺は、女に興味があるわけじゃねぇんだけどな……。

 ……ん?あぁ、そうそう。

 自己紹介が遅れたが、俺の名前は、桜井春人〈さくらいはると〉。今日からこの桜並木高校の一年生だ。

 それで今から、ここの入学式が始まるわけなんだが……。

 一人でボーっと突っ立っていたこいつに声をかけて、現在、面倒くさい事態に巻き込まれている。

 ……この高校の制服着てるし、今ここにいるってことは、こいつも一年だよな……?制服も靴も真新しいから、間違いないだろう。

「……くだらねぇこと言ってねぇで、お前もさっさと行くぞ。高校入学早々、遅刻したくねぇだろ」

 そう言って、俺が校舎の方へ歩き始めようとすると、こぃつは俺の腕を掴んで引き留めた。

「待って!その前に承諾して!!」

「はぁ……!?しつけぇな、無理だって言ってんだろうが!」

 掴んできた手を振り解こうとするも、こいつは全く諦める素振りを見せず、必死に俺を引き留める。

「──お願いします」

 俺の腕を掴んだまま、しっかりとした口調でそう言う目の前のこいつ。

 っ……、何でそんなに真剣なんだよ……。滅茶苦茶なこと言ってるくせに……。

「……あぁもう……、面倒くせぇな……。分かった!分かったから取り敢えず行くぞ!!」

「……!!はい!!」


 ──この時の俺の判断が、良かったのか悪かったのか、それは今でも分からない。

 ……ただ

 これが俺達の物語の、始まりとなったのは確かだ。




「はぁ……」

 高校入学早々、何故溜息を吐かなければならないのか。

 ……けど、

「……結局あの後、あいつと会わなかったな」

 俺の頭の中に思い浮かぶのは、昨日出会ったばかりの、名前も知らない女。

 同じ教室で見かけることはなかったから、クラスが違ったのだろう。

 ……まぁそれだけ、会う確率も低いはずだ

 いっそこのまま何もかも忘れて、無かったことにならないだろうか。

 勢いで承諾してしまったが、正直に言って面倒なことに首を突っ込みたくはない。

 ……というかもう、会うことはねぇんじゃねぇかな。

 そう思いながら俺は、正門へ足を踏み入れた。


「──あっ!おはようございます!待ってましたよ桜井さん!」

「………」

 ……なんて、上手くいくはずもなく、俺の目の前には今、昨日の女がいるわけなのだが。

「……何で俺の苗字知ってんだよ」

「昨日ネームを拝見いたしましたので!」

 清々しい笑顔でそう言ったこいつに、軽く恐怖を覚える。

 昨日……?拝見……?ネームを配られる前も配られた後からも俺はこいつを見かけなかったというのに、一体何時。

 ……今更だが、初対面の奴のあんな願い事、聞くべきじゃなかったのでは……?

 大体こいつは、何であんなことを言ったんだ。

「あっ、でも今はお付き合いしているんですし、下の名前で呼んでも?お名前教えてください!」

 いや、馴れ馴れしいわ。

 ほとんど会話もしたことが無いというのに、グイグイと言い寄ってくるこいつを見て、逆に感心する。

 ……はぁ……。

 俺は心の中でまた、溜息を吐いた。本当に、面倒くさい。

 ……けど、仮にも承諾しちまったし、二週間だけらしいし、名前くらい良いか……。

「……春人」

「……!桜井春人さん……ですか。良いお名前ですね!それに何か、親近感を覚えます」

「……親近感……?」

 どういう意味だ、と聞こうとしたその時、HRの始まりを告げるチャイムが鳴った。

「あっ……!それでは、私はここで!」

「ちょっ……、おい!」


「またお会いしましょうね、春人さん!」


 綺麗に笑ってその場を後にしたあいつ。

 何もかもが本当に謎だし、正直言って変な奴だが……。

 ……その笑顔は少しだけ、良いなと思った。




「………あっ」

 休み時間。

 廊下で、他の奴と笑いながら歩いているあいつを見かけた。

 友達か……?

 ……何だ。そういう奴、ちゃんと出来てんだな。

 変な奴だし、そういうの興味ねぇんじゃねぇかと思ってたけど……、何か、ちょっと安心。

「……って!俺はあいつの親か!!」

 思わず、廊下の真ん中で、自分自身に突っ込みを入れた。傍から見れば俺の方が変な奴だ。

 ……その時に、少しだけ見えた、あいつの胸元のネーム。

「……枝垂〈しだれ〉……か」

 そういえばまだ、あいつの名前すら知らなかった。

 昨日初めて顔を合わせて、ちょっとした会話をしただけで、俺達はお互いのことを本当に何も知らない。別にそれでもいいんだろうが……。

 承諾した以上、俺にもそれなりの義務……というか、責任がある。

「高校入学早々……、本当、先が思いやられるな……」

 俺は漸く腹を括って、現状を受け止めた。




 ──あれから、数日が経った。

 俺達の関係は相も変わらず、俺は未だに、あいつのことについてほとんど何も知らない。

 ……ただ一つ、知っているとすれば。

(……っあ)

 ……まただ。

 休み時間。

 教室から出てみると、決まってあいつが、廊下で窓の外を眺めてボーっと突っ立っている。

「……また何か見てんのか?……桜……?」

「わっ!?……っあ、は、春人さん……!」

 俺が声をかけると、驚いた様子を見せるこいつ。何を見てんのかと思ったら……、――また、桜か。

 俺の記憶が正しければ、こいつは初めて会ったあの時も、桜を見上げていたはずだ。

 ……そして、桜を「好きではない」と言っていた。

 好きでもないのに、何故毎回眺めているのだろうか

「……なぁ」

「はっ、はい……?」

「お前、何で桜が好きじゃないんだ?」

 俺がそう聞くと、また桜に目を移して、出会った時と同じように、少し悲しげに目を細めた。

「……だって、儚いじゃないですか。せっかく花を咲かせても、その花が生きられる時間は短いんです」

 本当に、本当に僅かながら、声を震わせてそう言ったこいつ。

 その横顔を見て、俺は──何故か、胸が締め付けられるような感じがした。

 それと同時に……、上手くは言えないが、何だか嫌な予感がして、胸がざわついた。

 そして、気まずそうに俺に視線を移して、こいつは力なく笑って言う。

「……春人さんは、桜、好きですか……?」

「………」

 ………俺は………。

「──好きだよ」

「………え?」

 途端に、素っ頓狂な声を出すこいつ。

「確かに花が咲いていられる時間は短い。花弁が散っていく感じは儚いとも思う」

「……けど、儚いからこそ、綺麗なんじゃないか?俺は結構好きだな」

 目の前の桜を見上げながら、俺はそう言った。

 少しだけ、口元が綻んでいたかもしれない。

 俺の発言に、隣にいるこいつは目を丸くしている。……って、あぁ、そうだ。

「お前、名前何て言うんだ?」

 未だに聞けていなかった質問を、やっとこいつに向けることが出来た。

「…っあ、えっと……」

「………枝垂、桜」

「……!ははっ、まんまじゃねぇか」

 俺が思わず笑みを溢すと、少し拗ねたような表情になる。

 つまりこいつは、好きでもないものの名前を付けられたってことか……?

 ……でもまぁ、こう言っちゃ何だけど

「──俺はその名前、お前にピッタリだと思うけどな。たまに儚さを感じる時あるし、綺麗だし」

「………っぇ」

 一言声を発してから、じわじわと頬が赤くなっていくこいつ。

 その後すぐに、視線を下へ落した。

 俺はその行動の意味が分からず、首を傾げる。

「?どうかし………っ!?」

 ……俺はそこで、自分が言った言葉を理解した。

 あれ……、俺今、ストレートに綺麗とか言ってた……!?

「…っち、違う……!!」

「違うんですか……?」

「……いや、違わないけど……」

 何だ。何なんだこの感じ。いや嘘は言ってねぇけど……。俺今まで、女に直接そんなこと言ったことねぇぞ……?

 謎の空気に、何故か俺まで頬が蒸気してきた。

 ………いや、違う。こいつだ。

 こいつが変な反応をするから、俺まで調子が狂ってるんだ。

「っ……ぁあもう!もうすぐ授業始まるし、さっさと教室戻るぞ!……枝垂!」

 俺はそう言って、こいつ……、枝垂の腕を引っ張った。

「!やっと苗字で呼んでくれた…!!」

 俺に腕を引っ張られながら、目をキラキラと輝かせてそう言う。うるせぇ。俺はお前と違って、名前を聞いてもねぇのにいきなり馴れ馴れしい真似出来ねぇんだよ。

 ……だけど、何だろうな……。

 今のこの状況を、少し、本当に少しだけ楽しんでいる自分がいて。

 ……枝垂と、多少距離が縮まったような気がする……なんて。




 突然だが、枝垂は変な奴だ。

 だがそれに反して、教師達からの評判は良い。

『容姿端麗』・『成績優秀』・『品行方正』、それが、周囲の人間から見たあいつのイメージらしい。

 ……俺からしたら、正直、笑いを溢してしまうような話なわけだが。

 あいつが今まで俺に投げかけてきた言葉を話せば、どんな印象を与えることだろうか。

(……まぁ、悪い奴じゃねぇけどな)

 悪い奴じゃない、むしろ良い奴だ。それは何となく分かる。

 あいつはそういうのではなくて、ただ単に……。

「……あっ」

 ──ちょうどその時、積み上げられた資料を抱えて、廊下を歩いていくあいつの姿が見えた。

 は?あんなに大量に……、教師に仕事でも押し付けられてんのか?

 ……いや、それにしても、あれを一人で運ぶのは危ないだろ。

「しだ……!」

「っ…わぁっ!?」

 ……すると次の瞬間、階段を上っている最中のあいつが、足を踏み外した。

 恐らく、大量の資料で足元が良く見えなかったからだろう。

 ……なんて、そんなことを考える暇もなく、俺の身体は自然と動き出していた。

「枝垂ッ!!!」

 普段の俺からは想像が出来ない程、大きな声が出た。

 階段から落ちてきた枝垂を受け止め、俺はそのまま、背中から床に倒れこんだ。

 その刹那、大量の資料が空中に舞う光景が見られた。

「っ…だ、大丈夫ですか!?春人さん!!」

 勢い良く起き上がって、俺に馬乗り状態になった枝垂が、焦った様子でそう声をかける。

「馬鹿ッ!!こんな大量に資料抱えて階段なんか上ったら危ないだろうが!!少しは考えろ!!」

 俺はついカッとなって、勢いで枝垂に、そんな言葉を投げかけた。

 こいつの事情も知らないのに、一方的に責めてしまった。

 俺は状況を理解して、ハッと我に返る。

「っ……あ……、悪い、お前の事情も考えねぇで……。教師にでも、頼まれたのか……?」

 俺はなるべく、落ち着いた声でそう言った……が、枝垂は全く落ち込んだ様子は見せておらず、逆に驚いた表情をしていた。

「あっ……はい。これを作って持ってきてほしいと言われましたので……」

「………はっ!?これお前が作ったのかよっ!?」

 平然とそんな発言をした枝垂に、俺はただただ驚かされるばかりだ。

 この量を……!?まさか、一人でやったんじゃないだろうな!?

 俺は一つ、溜息を吐いた。

「お前なあ……、そんなの鬼畜すぎんだろ。嫌だったら嫌だって少しくらい反論しろ。それか、誰かに頼れよな。危うく大事になるとこだったぞ」

 俺が呆れてそう言ったが、こいつは全く反省している様子を見せず、逆にニコニコとした笑みを浮かべた。

「いえ!これは私が好きでやっていることなので、何も問題はありません!お気になさらず!」

「いや、気にするわ」

 こいつ、本当に分かってるのか?さっき自分がどんな状況にあったのか。

 しかもこんなことを言うなんて……、教師に洗脳でもされてるんじゃないかと、少しどころではなく心配になる。

 俺が内心冷や冷やしていると、こいつはまた、口を開いた。

「……だって、嬉しいじゃないですか。内容はどうであれ、自分がしたことで誰かが喜んでくれるのって」

 落ち着いた口調で、心底嬉しそうに、そう言葉を紡ぐ。

「だから私は、嫌だなんて全くこれっぽっちも思いません!──誰かを喜ばせることが、笑顔にして、それを見ることが、大好きなんです」

 柔らかく綺麗に笑って、そう言った枝垂。

 ……あぁ、そうだ。

 こいつはすげぇ変わってるけど、悪い奴とかそういうのではなくて、ただ単に……。

 ──馬鹿、なんだ。

「……そうかよ。まぁそれは良いことだと思うが……、次からは、ちゃんと頼れよ。……俺で良いなら、手伝ってやるから」

「!…あっ、ありがとうございます……!!」

「……別に……」


「……ってかいい加減降りろよ!いつまで馬乗り状態になってんだ!!」

「へぁ…!?すっ、すみません…!!」

 先程とは打って変わって、いつものおどけた雰囲気になった枝垂を見て、俺はつい、口元を綻ばせてしまった。




「──おい!春人!」

 教室で自分の席に座り、窓の外をボーっと眺めていると、突然声をかけられた。

「……ん、海人か。どうした?」

 声をかけてきたのは、俺の小学校の頃からの親友、水無月海人。

 高校も一緒、しかもクラスまで同じという、所謂腐れ縁だ。

「お前高校入った時からずっと、あの枝垂さんと一緒にいるよな。何?まさか付き合ってるとか?」

「けほっ…!!」

 海人の発言に、俺は思わず咳込んだ。何なんだよいきなり……。

「………」

 ……言う、べきなのか?いやでも、どう説明すればいいんだこれ。

『二週間だけ付き合ってほしいって言われたから、二週間だけ付き合うことになった』、とか、誰が信じるんだこんなの。

 ……それにまぁ、どうでもいいけど、下手したらあいつのイメージダウンに繋がるかもしれないしな。

 だけど、こいつに嘘を吐くのも嫌だし。

「あぁ、付き合ってるよ」

 俺は、部分的に、正直にそう答えた。

 ……まぁ気付けば、あいつと一緒にいられる時間も、もう残り少ないんだけどな。

「………は?」

 目の前にいる海人は、呆然とした顔をしている。

 ……かと思えば、次の瞬間、カッと目を見開いた。

「はぁぁぁぁあああああああああああああああ!?!?!?!?!?!?!?」

 突然、大声を上げて叫び出す海人。いや、うるせえ。

 そんなに驚くようなことだろうか。

「おまっ…、は!?あの枝垂さんと!?!?」

「何だよ……、釣り合ってねぇとでも言いてぇのか?」

 どうやら海人から見ても、枝垂は高嶺の花的存在らしい。

 確かに綺麗だとは思うが……、中身はすげぇ変わってるのにな。

「っ……いや、相手はこの際どうだっていい!お前が、付き合う!?女子と!?!?そんなの一切興味なかったじゃねぇか!!」

 ……前言撤回。

 ……そうだ。小学校からの腐れ縁のこいつなら、俺のことを良く理解しているはずだ。

 今までの俺の言動を間近で見聞きしてきたのなら、俺が付き合うなんてことは、驚くしかないことだった。

「しかも、最近であったばかりの女子と!?どういう心境の変化だよ、春人!!」

「え。……えっと……」

 ……何で、なんだろうな……、それは俺が聞きたい。

 今になって思うと、別に途中で投げ出したって良かった。他の奴を紹介することだって出来たんだ。

 ……別に、俺じゃなくて良かった。

 ──でも

「……何だかんだで、面白いんだよ。あいつのこと、近くで見てたら」

 俺が少し口角を上げてそう言うと、海人は目を丸くした。

 嘘でも何でもなく、事実だった。そんな言葉が自分の口から出てくるとは、俺自身もびっくりだけれど。

「……お前が女のことで笑うとこ、初めて見たかも」

「えっ。そんなに?」

「おお。というかお前、普段もそんなに笑わねぇし」

 そんなことないだろ……と言おうとしたが、よく考えてみると、海人の言う通りのような気がした。

 ……あれ、でも、そう考えると……。

 俺は、今までのあいつとの出来事を思い返してみる。

 ──俺、あいつと一緒にいる時、結構笑ってる……?

「?どうした?春人」

「……っぁあ、いや、何でもない」

 きっと気のせいだよな。そんなことはない。

 もしそうだったとしても、それはあいつの言動が面白いからってだけだろう。

 ……なんて、誰に向けるわけでもなく、自分自身に言い訳の様なものをしていることに、少しだけ違和感を覚えた。

「いや~、にしても、お前に彼女かぁ……!未だに信じられねぇわ」

「……うるせぇ」

 俺が不貞腐れて小さな声で呟くと、海人はそんな俺を見て、フッと笑った。

「でもまあ、あれか?付き合ってんなら、枝垂さんと少しは恋人らしいことしたのか?」

 海人の発言に、俺は「えっ」と声を漏らす。

 ……恋人、らしいこと……?

 今までを思い返してみるが、果たして俺達に、そのような場面があっただろうか。

 ……いや、そもそも、恋人って何だ……?

 ……不味い。そういう経験が全くねぇから、恋人らしさってものが分からねぇ。

 別に二週間だけの関係だし、そこまでする必要はないんだろうが……。

 あいつは、そういうことを、望んでいるのだろうか。

 ……いや、そもそも……。

 ──付き合った相手が俺で、良かったのだろうか。




 枝垂と日々を過ごしていくようになり、俺は少しずつだが、あいつのことが分かってきた。

 まず名前。枝垂桜といういかにもそのままな名前だ。

 そして、本人もよく窓越しに、桜を見ている。

 ……ただ、別に桜が好きなわけではないらしい。

 好きではない理由は、『儚いから』、だそうだ。

 確かにその通りかもしれないが、俺からしたら枝垂も似たようなものだ。

 それから、自分のしたことで誰かを喜ばせられるのが、嬉しいということ。

 誰かの笑顔を見ることが、大好きだということ。

 そう言って心底嬉しそうに笑う枝垂を見られたことが、俺にとっては嬉しかった。

 ……そして、何か、深い事情があるということ。

 初めて会った時の、悲しげな表情。

 俺を引き留めた時の、必死な形相。

 ……いきなり付き合えとか言ってきた時は、変な奴だと思ったし、正直今も思ってはいるが。

 ……何の理由もなしにそんなことを言うような奴ではないと、最近思うようになってきていた。

 ──そしてまた、新たな謎が垣間見えてきた。

「……はぁ……」

 いつも通り、窓の外を眺めている枝垂。

 ……だが、その顔は、どこか浮かない表情をしている。

 あいつとこの関係を続けてから、一週間が経ったわけだが、最近は溜息を吐くことが多くなった。

(結局まだまだ、あいつのことよく分かってないんだよなぁ……)

 枝垂が一体、どんな事情を抱えているのか。

 二週間だけの関係とは言え、今は一応付き合っている間柄なわけなのだから、あいつのことを知っておく必要はある。

 ……なんて、これは俺の単なる言い訳なのかもしれない。

 あくまで赤の他人なわけなのだから、そこまでする必要はない。気に掛ける必要もない。

 ……それなのに、俺があいつのことを気にしてしまう理由。

 危なっかしいから。馬鹿だから。それもあながち間違いではないだろうし、正解なのだろう。

 ……だが、薄々気が付いてはいた。

「──おい!枝垂!」

「……ちょっと、話しねぇか?」

 付き合えと言われたから。今は恋人同士だから。……そんなもの関係なしに

 ──俺は自ら、枝垂のことをもっと良く知りたいと思うようになっているんだ。




「……なあ、枝垂」

「何ですか?春人さん!」

 昼休憩。屋上でフェンスに寄りかかりながら俺は、つい先日の海人の発言を思い出していた。

「……いや、やっぱり、何でもねぇ」

 俺は、途中まで出かけていた言葉をグッとのみこんだ。

 ……枝垂は、もっと恋人らしいことをしたいと思うか……?なんて、いきなり聞くようなことではないだろう。

 大体、そんなことを聞けば、もしかするとひかれるかもしれねぇし。

 ……普通の恋人と違う俺達は、そこまでする必要はないんだろうな。当たり前のことだと思うが。

「………」

 ……そもそも、よくよく考えてみると、俺達は傍から見れば、恋人同士にすら思われていないような気がする。

 ただ一緒にいる、というようなイメージなのだろう。

 ……まぁ、無理もないが。

 俺がこいつと釣り合っていないことくらい、俺だって良く分かっている。

 何故こいつが、付き合うことを求めてきたのかは分からないけれど。

 ……周囲の人間に恋人同士として見られていないのなら、今やっていることは、こいつにとって無意味なことではないのだろうか。

「……あの、春人、さん」

「……ん。どうした?」

「……少し、肌寒いですね」

 突然、ぎこちなくそんな言葉を零した枝垂。

 まあ、四月も始まったばかりだからな。春とは言え、まだ風は少しだけ冷たい。

「確かに、そうかもな。悪いな付き合わせて。寒いなら教室戻るか?」

 俺がそう声をかけると、枝垂は「そうじゃない」とでも言うように、勢い良く首を左右に振った。

「っ……ぁ、あの……、えぇっと、その……、だからっ、つまり……っ!」

「うん、落ち着け?」

 途切れ途切れ言葉にならない言葉を発する枝垂を見て、俺は冷静にそう言った。

 すると枝垂は、大きく一つ深呼吸をした後、真っ直ぐに俺を見据える。

「っ……その……、もう少し、傍に来てくださいませんか……?」

 少し声を震わせながら、頬を桜色に染めて、枝垂は俺に向かってそう言った。

「……っえ」

 俺は、突然の予想だにしていない言葉に、一瞬思考が停止した。

 ……だが、言葉の意味を理解して、ハッと我に返る。

 いや、肌寒いから傍に来てほしいってだけの話だろ。別に深い意味なんてないはずだ。

 ……けれど、目の前の枝垂がそんな顔をするから、それが俺にまで移って、何だか調子が狂う。

 俺は一つ溜息を吐いてから、枝垂の傍に寄っていく。

 ……そして、指先が真っ赤になっている彼女の手を取った。

「…!?へっ!?」

「うわ……、冷たっ」

 枝垂の手は、まるで氷のように冷たかった。冷え性なのだろうか。

 元はと言えば今日は、俺の方から枝垂をここに誘った。

 こんなに冷え切らせて、悪いことをしてしまっただろうか。

「枝垂、ごめ……っ!」

 ──ごめんな。そう言おうとしたが、枝垂を真っ直ぐに見据えて、俺は身体が硬直した。

 ……顔が、今までに見たことがないくらい真っ赤だ。

「……えっ、ど、どうした……?」

 俺が思わず動揺して声をかけると、枝垂は俯いて、視線を逸らした。

 ……もしかして……。

「熱でもあんのか!?具合悪い…!?」

「………へっ」

 長らくこんなところにいたせいで、身体が冷えて、熱が出てしまったのかもしれない。

 ……まさか、傍に来てほしいって言ったのもそのせいか……?

 風邪をひくと、人肌が恋しくなるという話を聞いたことがある。

「悪い!俺のせいだよな!?今すぐ保健室に…」

「待って待って!」

 焦って保健室に連れて行こうとする俺を、枝垂は引き留めた。

 ……だが、その後、

「っ……あっははは……!」

 まるで耐え切れないとでも言うように、笑みを溢した。

「……っな、何笑ってんだよ……」

 熱で頭おかしくなったか……?俺が本気で心配していると、笑い終えたこいつは、口を開いた。

「……はぁ……。──春人さんって、意外とおバカなんですね」

 柔らかく笑って、そんなこと言う枝垂。

 ……………は?

(いやお前に言われたくねぇよ……ッ!!)

 俺は心の底から、そう思った。大体、何故そうなったんだ。

 ただ俺は、お前の身体の心配をしているだけだというのに。

「お前が変な言動するからだろ……」

「そっ、それは春人さんだって……!」

「………え?」

 ……俺、何か変なことしたか……?全くもって見当がつかない。

 枝垂は枝垂で、自分の発言にハッとして口を押さえている。

 ……何か、もやもやするな……。

「……何だよ。言いたい頃があんならはっきり言えよ」

「……そっ、そういうわけでは……」

 言いにくそうに、口をもごもごと動かしている枝垂。……まあ、言いたくないことなのなら、別に無理には聞かないが……。

「……取り敢えず聞くが……、……具合が悪いわけでは、ないのか?」

「……!はい、全然大丈夫です!」

「……ホントに?」

「ホントにです!」

「……っそ、そうか」

 どうやら、俺の早とちりだったらしい。だからバカだとか言ったのか……?……まぁ、否定は出来ない。

 いや、だとしたら結局、枝垂があんな顔をした理由は何だったんだ……?

「……あの、春人さん……」

「何だ?枝垂」


「……寒い、ですね」


「ん?……あぁ……」

 ……寒い……、『寒いですね』、か。

「……これでいいか?」

 俺は真正面から、枝垂のことを抱き締めた。

 こいつの身体の細さが直で分かって、折れてしまいそうだな、と少しハラハラした。

「!?っあ、えっ、はっ……、春人さん……!?」

 俺の胸元から、枝垂の焦り声が聞こえてくる。

「抱き締めろってことかと思ったんだが……、違ったか?」

 日本語には、『隠れ言葉』というものが存在する。分かりやすい例で言うと、『月が綺麗ですね』、で『貴方が好きです』、というようなもう一つの意味があるものだ。

 彼女が今言った『寒いですね』にも、実はもう一つ意味がある。


 ──抱き締めてください。


 因みに、その前に言った『少し肌寒いですね』にも、『手をつないでください』、という意味があるのだ。

 ……思わず考えなしに突然こんなことをしてしまったが、これが勘違いだとしたら死ぬほど恥ずかしい。というか死ねる。

 離れようかと思っていた俺の背中に、枝垂はゆっくりと、自身の腕をまわしてきた。

「……違わ、ないです……。──暖かいですね」

 ふり絞るような声を発して、先程よりも腕に力を込めた枝垂を見て、俺は──何故か、安心した。

 ……あぁ、そうか。

 ──この関係は、無意味では、ないんだ。




 朝、いつも通りに登校してくると、あいつがいつも見上げている桜の木が目に入った。

 ……思えば……。

「……この桜も、大分散ってきたな」

 そう呟いてから俺は、枝垂が以前言っていたことを思い出した。

 ……確かに、桜の花の寿命は短い。それは何でもない事実だ。

 だが日本人は、そんな桜をずっと愛し続けてきている。

 枝垂が好きではないと言っていた儚さも、俺は好きだ。

 ……あいつもいつか、桜のこと、好きになってくれるといいけどな。

「……だけどそろそろ、見納めかな」

 ひらひらと、目の前に落ちてくる花弁を見つめながら、俺は思った。

 桜の花の寿命は、長く持って二週間らしい。

 入学式の時点では満開に咲いていた桜も、今はすっかり寂しい姿になってきていた。

 俺の好きな桜の季節も、今年はもう終わりを迎えようとしている。

 俺は手のひらに落ちてきた桜の花弁を握りしめて、朝から騒がしい声が聞こえてくる学校の中へ、入っていった。




「……はぁ……」

 ……またか。

 俺の前方には、本日十回目の溜息を吐いた枝垂。

 前にも増して、溜息を吐くことが多くなってきた。表情もどこか悲しげだ。

 恐らく、俺の気持ちにも気が付いていないだろう。

「おい、枝垂」

「っわぁ!?……あ、春人さん……!」

 やはり気が付いていなかったらしい。横から声をかけると、肩をビクッと震わせて、驚いた顔をした。

 ……けれど

 ──その後、俺の顔を見てまた、悲しげな表情をしたんだ。

(……っえ)

 枝垂が、俺を見てそんな顔をしたのは、これが初めてで。

 俺は動揺を隠せず、目を少し見開いてしまった

 そんな俺の心情を読み取ったのか、枝垂はすぐに笑みを見せた。

 ……いや、笑顔を『作った』という表現の方が、適切かもしれない。

「すみません、気が付かずに驚いてしまって……!どうかなさいましたか?春人さん!」

「……えっ」

 ……いや、ただ、お前を見かけたから声をかけただけなのだが……。こんなことを言うのも、何だか癪だ。

「……別に。ずっと浮かない顔して溜息ばっか吐いてたら、声かけたくもなるだろ」

 俺がそう言うと、枝垂は一瞬目を伏せてから、今度は悲しそうに笑った。

「……春人さんは、本当に心優しい方ですね」

 いや、全然違う。

 本当に違う。

 断じてそういうわけではないのだが、勘違いをさせてしまったみたいで何だか申し訳ない。

「……、知りたい、ですか……?」

 何をとは、言わなかった。

 ただ俺は、先程までの会話からして、最近のこいつの行動についてだろうと、勝手に解釈した。

「ああ。知りたいよ」

 正直、枝垂がずっと浮かない顔をしていると、俺まで気分が沈むのだ。

 だからつい、気にかけてしまう。

 ……何故なのだろうか。

 ──すると突然、枝垂が今までに見たことがないほど、真剣な表情になった。

 俺は思わず、その雰囲気に呑まれそうになり、少しだけ身構える。

 ……枝垂が口を開いた瞬間、俺は、ゴクリと唾を飲み込んだ。


「………。いや……、やっぱり……」


 いつもの調子に戻り、顎に手を添えて言いよどんだ枝垂を見て、俺はその場でズッコケた。現実でも本当になるんだなこういうの。

(いや、言わねぇのかよ…ッ!!)

 俺は勢いで、右手を床に「ガンッ!!」と叩き付けた。

 あれだけの雰囲気を醸し出しておいて言わないというのは、少々お預けの度が過ぎると思うのだが。

「はっ、春人さん……!?大丈夫ですか!?」

「そうだな。少なくとも俺の心情は大丈夫じゃない」

 俺が真顔で冷静にそう言うと、「すみません!!」と勢いよく頭を下げる枝垂。全く……、期待させやがって……。

 俺は呆れて、溜息を吐いた。思えば俺も最近、溜息を吐くことが多くなったような気がする。……主に、こいつが原因だが。

 ──聞けるかと、思ったんだけどなぁ……。俺が疑問に思っていること、こいつが抱えているもの、全部。

 まあ、そう上手くはいかないか……、そう思いながら、無気力に立ち上がった俺を見て、枝垂は何かを思いついたように「あっ……!」と声を発した。

「そうだ……!春人さん!」

「?何だ……?どうした?枝垂」

 やけに顔が生き生きとしている。それは俺としても良いことなのだが……。……今度は一体、何を言うつもりなのだろうか。

 不安気な視線を枝垂に向けると、こいつは満面の笑みでこう言った。


「今度の週末!デートしましょう!!」


 まるで「名案だ」とでも言うように、楽しげな顔をする枝垂。

「………」

 ……………。

 は?

「……デートぉ……!?」

 何を言い出すかと思えば、デート……?一体何故、今ここで。

 いきなりそんないかにもカップルらしいことを言われても、俺の頭が追い付いていくはずはなく。

 ……そんなことを考えている間に、予鈴が鳴り響いた。

「あっ……!それでは、詳しいことはまた後ほど!」

「ちょっ……、おい!待てって!」

 何だか、以前にもこんなことがあったような気がする。

 枝垂は教室に入る直前、俺の方へ振り返った。

「──絶対ですよ!」

 楽しそうに、綺麗に笑ってそう言うと、教室の中へ入っていった。

 ……本当、その笑顔はずるいと思う。




「………」

「おーい、春人ー?」

 ……どうしたものか。

 先程枝垂に呼び出され、詳しい日時などを言い渡されたわけなのだが……。

 ……生憎、俺は『デート』とかそういった類のものとは、無縁の生活を送ってきたのだ。

 そういう場合、どのような行動をとるべきなのかという知識など、心得ているはずもない。

 ……大体何故、デートになんか……。

 ──って、ああ、そうじゃない。いやそれも気になるが、今一番気にするべきことは、それではなくて……。

「はーるーとー!!」

「うわ…っ!?……びっ、びっくりした……。何だよ海人」

「何だよじゃねぇよー!ずっと呼んでんのにさー!さっきから何考え込んでんだよ」

 拗ねたような顔をして、子供みたいに文句を言う海人。え、そうだったか……?周りが見えてないとか、結構不味いな。

「……別に、大したことじゃねぇよ。……ただ……」

 俺は海人に、今週末枝垂と出掛けるということだけを話した。

 ……流石に、あいつの内面をペラペラと話すわけにはいかない。

 俺の話を聞いた海人は、驚いたように目を丸くした。

「へーデート!!あの春人が!女の子と!!」

「うるせぇよ」

 茶化すようにそう言ってくる海人に、俺は呆れて溜息を吐いた。

 こいつはいつも通りだな……、全く、人の気も知らねぇで……。


 ──……、知りたい、ですか……?


「………」

 ……あの時の、今までに見たことがない程、真剣な表情。

 あれは絶対的に、普通の雰囲気ではなかった。

 ……あれが何だったのか、気になるな……。

「……まっ、何にせよ、どうだ?少しは恋人らしいことできてるだろ?」

 いたって他には何もできていないし、今回のことも枝垂から言い出したことだが、俺は海人を少しでも安心させたくて、そう言葉を発した。

 ……ところが、

「あ~……、それなんだけどさ、春人」

「……?何だよ」

 海人は何処までも、俺の想像を超えるような言葉を言うんだ。


「──お前本当は、枝垂さんと正式には付き合ってないだろ」



「……は……?」


 思わず、間抜けな声が出た。

 ……え、今……、何て言ったんだこいつ……?

「だーかーらー!普通のお付き合いとは違うんだろ?って言ってんの!」

「……!?……っな、何で……」

 何故、どうして、そんなことを知っているんだ。

「あー、やっぱり図星?だと思ったんだよな~。お前に限っていきなりそれはない」

 幼馴染というのは、本当に末恐ろしいと思う。

 上手く誤魔化せているようで、本当のところは全部見透かされている。

 やはり海人に隠し通すのは無理か……。それにまあ、普段の俺を見ていれば、有り得ない話だ。

「……けど、恋人って、お互いのことを好きで付き合ってる関係だからさ。お前等もあながち、偽物ではないよ」

 軽く笑いながら、俺の目を見てそう言った海人。

「……………は?」

 ……どういう意味だ……?俺は海人の言った言葉が理解できない。そこまで分かっておきながら、俺達の関係が、あながち間違いではないって……。

 そんなわけがない。どう考えても俺達は、偽物の関係。

 言い方が悪いかもしれないが、俺達が今やっていることは恋人ごっこ、即ち『お遊び』でしかないはずだ。

 ……俺達の関係が間違いではないなどと言ってしまっては、純粋にお互いを好いて付き合っているカップル達に、申し訳ないような気がする。

「だってお前、枝垂さんのこと好きだろ」

 当たり前のことのように、澄ました顔でそう言った海人を見て、俺の思考は停止した。

 何を言われたのか、最初、理解が出来なかった。


 ……俺が……、枝垂のことを、好き……?


「……っ、はぁ……っ!?」

 俺は思わず、自分の席から勢いよく立ち上がった。それと同時に、椅子が「ガタンッ!!」と音を立てて倒れ、クラスの奴等の視線が俺に集中する。

 ……っな……、何を言い出すんだこいつ!?

「おーおー春人、一旦落ち着け!」

 俺の行動に笑みを溢しながら、海人は「取り敢えず座れ」と椅子を差し出す。

 いや、誰のせいだと思ってんだよお前。

「……フゥ……」

 一つ息を吐いてから、俺はまた自分の椅子に腰かけた。


「……それで?どういうことだよ」


 落ち着きを取り戻した俺は、頬杖を突きながら海人をジト…っとした目で見てそう言った。

「どういうことも何も……、そのままの意味だけど?」

 対して海人は、そんな俺を見て意地の悪い笑みを浮かべた。

 さっぱり訳が分からねぇなぁ!

 俺は少しムキになって、そっぽを向いた。気にしたらダメだ俺。どうせ、海人にからかわれているだけなのだろう。

 すると海人は、顎に手を添えて、「ふむ」と言葉を零した。

「じゃあ春人、逆に聞くが──お前、枝垂さんのこと、何とも思ってないのか?」

 その言葉に、俺の身体がピクッと反応した。

 ……何とも思ってないのか……か。

「何とも思ってないわけないだろ、あんな変人」

「………っえ?」

 俺がそう言うと、間抜けな声を発して、目が点になる海人。

 ………あ。

「っあ、ちっ、違う……!そうじゃなくて……!……インパクトが強い奴って言いたかったんだよ!!」

 俺は急いで、先程の自分の発言を取り消した。

 ……危ねぇ……、思わず本音が出てしまっていた。

 だが、あいつの内面に触れてしまえば、誰もがそう思うのではないだろうか。

 ……とは言え、俺もまだ全然、あいつのことを理解できていないのだが。

「……お、おぉ……?でもさあ春人、よーく考えてみ?枝垂さんといる時、今までにないような感情を抱いたりすることなかった?」

 口調はおちゃらけているが、やけに真剣な表情で、そんな質問をしてくる海人。

 ……え、えぇ……?そんなことを言われてもな……。

「………」

 ……全く、関係していないとは思うが……。

「……俺、面倒事とか嫌いだし、必要最低限のことしかしねぇし、ましてや自分から他人の事情に首を突っ込んでいくなんてこと、今までなかった」

「……けど、あいつと出会って、初めて自分から、他人のことを知りたいと思ったんだ」

 知らなくていいとか、俺には関係ないとか──そんなこと、一度も思ったことはなかった。

 それは今でもそうだし、未だに謎なのだが。

 ……ああ、そうそう、それから……。


「──人を『綺麗だ』と思ったのも、初めてだったんだ」


 俺の発言に、海人は驚いていたが、その後で柔らかい笑みを浮かべた。

「……ほら、そういうとこだよ」

 落ち着いた口調で、呟くようにそう言った海人。俺は相変わらず、疑問符を浮かべるばかりだ。

 ……そういうとこって……。

「お前は気が付いていないんだろうけど──枝垂さんの話してる時の春人、何時もいい顔してるんだよ。普段は全然笑わないくせにさ」

 そう言って、海人は朗らかに笑った。どこか嬉しそうな雰囲気を纏っているような気がするのは、気のせいだろうか。

「………っえ」

 対して俺は、その言葉に絶句した。

 ……そうだっただろうか……?

 顎に手を添えて、俺は今までのことを思い返してみる。


 ──儚いからこそ、綺麗なんじゃないか?俺は結構好きだな

 ──……お前が女のことで笑うの、初めて見たかも

 ──……俺、あいつと一緒にいる時、結構笑ってる……?


 ……あ……。

「……マジか」

 俺は口元に手を添えて、呟いた。

 ……確かに、その通りかもしれない。

 徐々に、自分の頬が熱くなっていくのが分かり、俺は目の前にいる海人に悟られないよう、顔を背けた。

「分かったか?」

 その声からして、海人が憎たらしい顔をしていることが、いとも容易く想像できた。

 確かに、確かに俺は、枝垂の話で笑うことが多いかもしれない。

 ……けど……。

「……恋とか……、そんなの、分かんねぇよ……」

 そう言いながら、何故か胸が苦しくなった。

 俺は今まで、そういったものに興味を示したことがなかった。人とあまり、関わろうとしてこなかったからだと思うが。

 そんな俺を見て、海人は腕を頭の後ろで組むと、口を開いた。

「……まっ、別に今は分かんなくてもいいけどさ。後悔だけは、絶対すんなよ。──後から気付いても、もう遅いことだってあるんだからな」

 海人のその言葉に、俺は何も言うことができなかった。

 ……後悔……ね。

 ……そんなもの、するはずがないと思う。

 そもそも、この気持ちが何であれ――俺達の関係は、残り僅かで終了だ。

 ……ああ、そういえば、良く考えてみると……。


 ──あの日から二週間後って、ちょうど今週末だな。




「……はー……」

 帰宅後。

 現在風呂から上がってきた俺は、ベッドに横たわり、今日の海人との会話を思い出していた。

(……恋……か)

 正直俺には、一生無縁な話だと思っていた。

 信じられないかも知れないが、俺達の会話でそんなワードが出てきたのは、今日が初めてのことだった。

 ……けど、今更……。

「……っあ、そうだ」

 俺はベッドから体を起こし、カレンダーに目をやった。

 今週末──入学式から二週間後の位置に、赤い印がつけられている。

 ……デートなんかしたことがないし、考えたことすらもなかったが、あいつが言ってきたことだから仕方がない。

 当日は、枝垂の行きたいところを中心に周るつもりだ。

 ……最後の日、だからな。それぐらいは聞いてやろう。

 この日を境に、俺達の関係は終了だ。最初から、そういう約束だった。

(……変だな)

 俺は、あいつ……、枝垂と初めて会った時のことを思い出す。


 ──……あのな、何にも知らねぇ奴と、いきなり付き合えるわけねぇだろうが

 ──……くだらねぇこと言ってねぇで、お前もさっさと行くぞ

 ──はぁ……!?しつけぇな、無理だって言ってんだろうが!


 ──二週間だけ、付き合ってほしい。初対面でそんなことを言ってきた枝垂に、俺は物凄く反発して、素っ気ない態度を取っていたよな。

 ……いや、まあ、それが普通だとは思うけれど。

 それから、その場の空気に任せて、今の状況に至るまでやってたわけだが……。

 本当に、おかしな話だ。何もかも忘れて、無かったことにできないかと、考えていたはずなのに。

 ……今現在、この関係が終わりを迎えようとしていることに、少し寂しさのようなものを感じている自分がいるなんて。

 自分自身に苦笑するしかない。

 ……だが、そんなことを言ってはいられない。

 約束通り、俺は今週末、あいつと出掛けるのを最後に、枝垂との関係を解消する……。

 ……解消……?

「……あれ」


 ……二週間経って、約束を果たしたら……。──その後は……?


「……いや、そもそも、……何で、二週間……」

 そう声に出してから、嫌な胸騒ぎがした。

 何故かは分からないが、冷や汗が頬を伝っていく。


 ──俺が初めて違和感に気が付いたのは、枝垂と出掛けるその日から数えて、二日前の夜だった。




「………」

 ……結局、何の核心にも触れることができず、無惨にもデート当日の朝を迎えた。

 待ち合わせ場所である駅前に時間通りで到着したが、枝垂の姿はまだ見えない。

 俺の心臓は、嫌な意味の方でドクドクと波打つ。

(……気のせい……、考え過ぎだ。変な風に捉えるな)

 俺は何度も、自分自身に言い聞かせるが、反対に胸の鼓動は速くなっていく一方だ。

 ……あれ。

 何で俺、こんなに不安になってるんだ。

 少しだけ手が震えたが、それは寒さのせいということにしておいた。


「はぁ……っ!すみません、春人さん!遅れてしまって……!」


 するとその時、前方から、あいつの声が聞こえてきた。

 その瞬間、俺は俯いていた顔を勢い良く上げる。

 ……だが、顔を上げた後で今度は、全身が硬直した。

「……?あ、あの……?」

 固まったまま動かなくなった俺を見て、枝垂は心配そうに首を傾げる。

 ……えぇっと……。

(……こいつって、ここまで綺麗だったっけ……?)

 今日の枝垂の容姿を見て、俺はそんなことを思った。

 確かに普段も、綺麗だと感じることはあるのだが……私服だからだろうか。余計に、そう感じた。

 周囲の人間も、枝垂の方を見ては「綺麗」だとか「モデルみたい」と言っている。

 ……本人は、全く気が付いていなさそうだが。

「……早く行くぞ」

「え?っわ……!?」

 周りにジロジロと見られては厄介だ。この空気に耐え続ける気力はない。

 俺は何処に向かうわけでもなく、枝垂の腕を引いて、取り敢えずこの場から立ち去った。

「……っ……あっ、あの、春人さん……!どちらへ……?」

 俺に腕を引かれながら、少し焦ったような声を発した枝垂。

「……っあ、悪い、つい」

 無我夢中になって歩いていたらしい。さっきまでとは大分景色が違っていた。

 俺はハッとして、掴んでいた枝垂の腕を離す。

 ……枝垂が少し名残惜しそうな顔をしたような気がするが、きっと気のせいだろう。

「……それで?まずは何処に行くんだ?」

「……っあ……、最初にお話がしたいので、あそこのカフェに入りましょう!」

 そう言って、今度は枝垂が、俺の腕を引く。

 そして俺達は、目の前にあるお洒落なカフェの中へ入っていった。


 ──話……ね。




 中へ入ると、やはり店内もお洒落な雰囲気だった。

 俺今までこういう店入ったことねぇな……。

「あー……、二人で」

 店員にそう言うと、窓際の席に案内された。ここ料金高くねぇかな……。

「……何頼む?」

「春人さんと同じもので!」

 えぇ……。清々しい笑顔でそう言った枝垂を見て、俺は反応に困る。

 そう言われるとは思わなかったな……。というか、それが一番困る。

 俺が頼むものが、自分の嫌いなものだったらどうするんだよ……。やはり、こいつの言動は読めない。

「コーヒ……、……やっぱり、紅茶、二つで」

 コーヒーを頼もうとしたが、飲めなかったらどうしようかと思い、俺は紅茶を選択した。ちなみに、何故紅茶かと言うとまあ、俺から見たこいつのイメージだ。

 何と言うか、お嬢様みたいな雰囲気するんだよなぁ……。

「……良かったか?」

「はい!ありがとうございます!」

 笑顔でそう言われ、俺は取り敢えず安堵の息を吐く。

 値段を見たが、一般的な店と似たようなものだったから、それも問題はない。

 ……そんなことはいいんだ。

「……それで?──話って、何だよ」

 何故か緊張して、顔が強張る。嫌な予感がするが、気のせいであってほしい。

「……そうですね。……春人さん」

 枝垂は顔を上げると、俺の目を真っ直ぐに見据えた。


「──桜が散っていく様子を見て、何を思いますか?」


 ……………は?

 予想だにしていない言葉に、俺はぽかんと口を開く。

 ……何を思うかって……。

「……前にも言っただろ。儚いなぁって」

「……他には、何を思いますか?」

 何なんだ。

 一体何を聞きたいんだこいつは。

 取り敢えず俺は、桜が散る様子を思い浮かべてみる。

 ……思うこと……。


「──綺麗だな、って」


 俺がそう言うと、驚いたように目を見開く枝垂。え……?変なこと言ってないだろ……?

 俺が不思議に思い首を傾げると、こいつは小さな声で、こう言った。


「……悲しいと、思わないんですか……?」


 その問いに、逆に俺が質問したい。

 ……悲しい……?

「何で、悲しいと思うんだよ」

 心底不思議に思い、俺は枝垂にそう問い質した。

 枝垂は「えっ」と声を発してから、あたふたと慌て始める。……結構レアだ。

「……っだ、だって……、桜が散るということは、それだけ桜の木の姿が寂しくなるということですよ……?……終わりが、近付くということ、なんですよ……?」

 そう言いながら、だんだんと視線を下へ落していく枝垂。

 ……何故こいつが、こんなに悲しそうにしているのだろうか。

 でも、そう考えてみると……。

「……成程。確かに、そうかもしれねぇな」

 俺は顎に手を添えながら、枝垂の言葉に納得した。

 桜の花弁が散る様子は綺麗だが、それを感じた分だけ、終わりが近付くということだ。

 ……確かに、その通りかもしれないが。

「全然思いつかなかったわ。けど、綺麗は綺麗だろ?俺はそっちの感情の方が強いな」

 少し口元を綻ばせながら、思ったことをそのままに言うと、枝垂はまた、目を見開いた。そこまでおかしいことは言っていないはずなんだけどな。

 その後で、少しだけ俯くと、ゆっくりと目を閉じた。

 ……口角が、少し、上がっていたような気がした。


「……良かった」


 小さな、本当に小さな声でそう言ったが、俺の耳には届いた。

 ……良かった……?

 何がだよ。そう聞こうとしたが、俺が声を発するその前にまた、枝垂の声が聞こえる。


「それなら、私がいなくなっても大丈夫ですね」


 ……は……?

 呼吸が、止まった。心臓も一瞬、動くことをやめたような気がした。

 ……何て、言ったんだ……?

 そう思ったが、その答えも、聞きたくはなかった。

「……春人さん。今日は付き合って下さって、ありがとうございます。……話というのは、ここからが本題なんです」


 やめてくれ。


 心の底から、そう思った。

 枝垂の声を聞きたくないと、初めて思った。

 気のせいだと言い聞かせることも、もう限界だった。

 枝垂は顔を上げて、柔らかい笑みを浮かべながら、俺の目を真っ直ぐに見て言う。


「私は本日限りで、この世から存在が抹消します」


 気のせいなんかじゃない。

 確実に、心臓が止まった。

「………は?」

 何でこいつにはこうも、驚かされてばかりなんだ。

 枝垂の言葉が理解出来ず、俺は身体を硬直させることしかできない。

 ……嘘だ。嘘だと、言ってほしかった。

 良くない冗談だ。

 どうせ俺をからかって、反応を見て楽しんでるんだろ。


 ……そうだよな?


「流石に、突然こんなことを言われても、理解出来ませんよね」

 戸惑う俺を見て、枝垂は苦笑いを零しながらそう言った。

 理解なんて、出来るわけがない。

 ……ましてや、したくもない。

「……すみません。もっと早く、言うべきかと思っていたんですけど……、どうにも、言い出しにくくて」

 やめてほしい。

 まだ全く状況を、受け止められていない。

 俺は恐る恐る、唇を震わせながら、口を開いた。

「抹消って……、どういうことだよ……っ」

 やっとのことで、声を発した。

 その声は自分でも驚く程に震えていて、情けないと感じた。

「そのまま、ですよ。……私は今日、この世界から消えるんです」

 笑ってそう言った枝垂だが、その顔は、無理をして笑っているように見えた。

 ……この世界から消えるって……、ますます、意味が分からない。

 それって、つまり……。


「──私は、普通の人間ではないんです」


 その言葉に、俺は絶句した。

 ……枝垂が……、普通の人間じゃ、ない……?

 信じられなかった。そんなことが、本当にあるのか。

「何と言ったらいいか、分からないのですが……、私は簡単に言うと、桜の擬人化なんです。〝桜人〟、なんて呼ばれていますけどね」

「……桜人……」

 ……未だに、理解は出来ない。頭が、追い付いていかない。

 ──ただ、虚しくも、これが嘘でも何でもなく、事実だということだけは分かった。

「……桜の花の寿命は、長く持って二週間。今日が、その期限なんです。本当はもう少し早まるかもと心配していたのですが、そうならずに済んで良かったです」

 朗らかに笑う枝垂。こいつの言葉を聞いていく度に、今までの謎が全部、解けていくような気がした。

 桜が好きではない理由。今までずっと、桜を気にかけてきていた理由。こいつの性格。何もかも。

 ……桜に似ていると思っていたが、本当のところは、そうではなかった。


 ──こいつ自身が、本物の桜だったんだ。


「……枝垂……、……あのさ……」

「ストップです!」

 言いかけた言葉を、枝垂に制御された。

 俺は、「えっ……?」と言葉を零す。

「色々と聞きたいことはあると思いますが……、それはまた、後程お話します。今は取り敢えず、デートを楽しみましょう!」

 笑ってそう言うが、それはかなりの無茶ぶりだ。出来るわけがないだろう。分かって言っているのかこいつは。

 ……せめて、せめて前日くらいにそれを知っていれば、まだ対処は出来ただろう。

 だが、今はもうその当日だ。

 ……そんな余裕、今の俺には全く無かった。

「……、……じゃあ、一つだけ、聞いてもいいか……?」

「何ですか?」

 俺は、ずっと疑問に思っていたことを口にする。


「何で、二週間だけ付き合えなんて言ったんだ……?」


 それは、本当に謎だ。

 こいつが桜人なるものだったとして、それと二週間だけ付き合うというのは、何の関係もないだろう。

 俺の問いに、こいつは優しく笑って答える。

「……私は、二週間だけしか、ここにいることができないから……。だから、特別な記憶が、欲しかったんです。──誰か一人だけでもいい。私のことを、覚えていてほしかったから」

 その答えに、俺は目を丸くする。……特別な、記憶……?

 こいつの言いたいことは分かる。……だが、「覚えていてほしい」というのは、どういうことだろうか。


「──はい!それでは、質問はここまでです!ちょうど注文の品が来たみたいですし、一服しましょう!」


 手を「パンッ」と叩いてから、注文した紅茶に手を伸ばす枝垂。

 まだまだ、謎は残ってるんだけどなぁ……。

 というか、正直、正常でいられる自信がない。

 何で、何で、直前になって言うんだよ。

 焦る気持ちを落ち着けるように、俺も自分の前に置かれた紅茶に手を伸ばした。

 ……あれ、そもそも……。


 ──何で俺、こんなに焦ってるんだ……?




「春人さん!こっちこっち!」

 楽しそうな笑みを浮かべて、俺の腕を引く枝垂。

 遊園地なるところに連れてこられたが、今の俺には、遊ぶ余裕なんて全くなかった。

 何でこいつは、こんなへらへら笑ってられるんだよ。

「これ、凄く面白そうじゃないですか?」

 そう言って笑いながら指さした場所にあったものは、巨大なジェットコースター。

「楽しそう!乗ってみたいです!」

 にこにこ笑いながらそう言うこいつ。普通こういうのって怖がるもんなんじゃねぇの……?

 やっぱお嬢様みたいな感覚してんな……、と思ったが、そうだ。こいつは桜だった。

 ……そこまで考えて、俺は納得した。


 ──あぁ、そうか。桜だから、高いところから落ちるのなんて、慣れてるか。


 未だに信じられない。今俺の腕を引いている手が、普通の人間の手じゃないなんて。

 こんなことが、現実で起こるなんて。

 ……長い夢でも、見ているのではないだろうか。

「……春人さん?」

 不思議そうに、俺の顔を覗き込む枝垂。

 ──この時の俺は、完全にパニックになっていたと思う。


 ……あぁ、そうだ。夢だ。

 これは、悪い夢。

 ──無気力な俺が、初めて他人に興味を持って、裏切られたような、そんな夢。

 やっぱりそうだ。

 面倒事に首を突っ込むと、碌なことがないんだ。


 ……自分が現実逃避のようなことを考えているのは、良く分かっていた。

 そんな俺を見て、枝垂は口を開く。

「……春人さん、ずっと浮かない顔をされてます。私、春人さんには、笑っていてほしいです!」

 はっきりとした口調で、そう言った枝垂。

 無理だ。

 無理だよ。

 今のこの状況で笑うなんて、俺には無理。

 ……だって……。


「……だってお前は……っ、今日で、いなくなっちまうんだろ……?」


 自分でも驚く程に、声が震えていた。枝垂はそんな俺を見て、驚いたように目を丸くする。

 ……どうして。


「どうしてお前は……、今この状況で、笑ってられるんだよ……っ」


 初めてだった。

 他人と関わって、他人のことで、涙が出てきそうになるなんて。

 何だか、胸が痛い。苦しい。こんな感覚、知らない。

 ……俺、選択肢、間違ったかな。

 こんなことになるなら、こんな思いをするくらいなら、

 ──出会わなければ……


「春人さん」


 その時、枝垂のしっかりとした声が聞こえて、俺はハッと我に返る。

 前を向けば、すぐそこに、悲しそうな笑みを浮かべる枝垂がいた。

「……私が、春人さんにそう見えているのなら、良かったです。……ですが、──心の底から笑っているかと問われれば、もちろん、そうではないです」

 でも……、と枝垂は、言葉を続ける。

「私は、桜人です。桜が咲くと同時に現世に存在し、桜が散り終わると同時に消えていく。それが私の運命。……どれだけ願っても、足掻いても、結末は変わらない」


「──だから、今を大事にするべきだと思うんです。どうせ同じエンディングに辿り着くのなら、今を悲しむより、今を楽しんだ方が良いじゃないですか!」


 枝垂はそう言って、俺に清々しい笑顔を見せた。

(……っあ……)

 ──そうだ。こういうところだ。

 俺がこいつを、放っておけない理由。

 自分から、こいつの事に首を突っ込んでいく理由。

 ……他人に言われてもピンとこなかったし、実感がなかった。

 ──だってこんなこと、初めてだったから。

 俺はフッと笑って、目の前のこいつに視線を向けた。

「……そういやぁ、言い忘れてたけど……」


「──お前、綺麗だな」


 今度は、無意識に言った言葉じゃない。

 自分の意思で、その言葉を発した。

「……っぇ、あっ……、……ぇえっ!?」

 すると、頬を一気に桜色に染める枝垂。桜なだけあって、何だか似合ってるな、と呑気にもそんなことを思った。

 俺はそんな枝垂を見て、また少し、口元が綻ぶ。

 ……こいつが、それを望んでいるのなら。


「──ほら!今を楽しむんだろ?思う存分付き合ってやるから、さっさと行くぞ!枝垂!」


「…えっ、あっ……。……はいっ!!」

 戸惑いを見せていた枝垂だったが、俺の顔を見た後、嬉しそうに笑って、元気良く返事をした。

 俺は、そんな枝垂の腕をしっかりと引いた。

 ──あぁ、ホントに、知らなかったな。


 他人を好きになるって、こんなにも、心が躍るものなんだ。




 あれから、俺は枝垂のやりたいことを、やりたいようにやらせた。

 頼まれたことも、望まれたことも、全部叶えてやった。

 ──こいつは桜人。二週間だけしか、この世界に存在できない。

 だからこそ、人間の生活に興味を持ったり、憧れたりすることもあったんだろうな。


 ……え?具体的には、何をしたかって……?


 ははっ……、正直、その説明に労働力を使う気はねぇよ。

 俺は今、心身共に疲れてるからな……。ホント、こんな経験は初めてだ。

 辛い。寂しい。気が重い。胸が痛い。……それなのに、楽しい。嬉しい。心から、笑えてる。

 俺が悲しむと、何故かこいつも悲しむから、笑って過ごそうと決めたはずだったのに──いつの間にか、本気で楽しんでいる自分がいた。

 何で今まで、知らなかったんだろうな。

 何で今、気が付いたんだろうな。

「……なぁ、枝垂」

「はい!何ですか?」


「──今、楽しいか……?」


 そんな突然の俺の問いに、枝垂は即答する。


「──勿論ですっ!!」


 満面の笑みを見せる彼女に、つられて俺も口角が上がる。

 お前が浮かない顔をしていると、俺まで気分が沈む。

 お前が生き生きとしていると、俺まで嬉しくなる。

 ……って、あぁ、そうだ。

 俺のこの気持ちは、枝垂と全く同じじゃないか。

 それに気が付いて、俺はフッと笑みを溢す。誰かの感情に左右されるとか……、全くもって、俺らしくない。

 ……でもまぁ……、この感情が知れて、良かったのかもしれないな。


「春人さん」


 ──だが、時間は止まってはくれない。

 何にも代えられない。

 どれだけ金があったとしても、時間は金で買えないんだ。

「……最後に、一緒に行きたいところがあるんです。……行ってくれますか……?」

 真剣な顔で、枝垂はそんな言葉を口にした。

 〝最後〟、その単語が、酷く醜く感じた。

「──いいよ、勿論」


 俺と枝垂の、別れの時は近い。




「……ここか?」

 予想外の場所に、俺は素っ頓狂な声を出した。

 だが枝垂は、大真面目な顔で「はい」と返事をする。

 こいつが最後に行きたかった場所、それは……。


 ──学校でいつも目にする、桜の木の下。


 てっきり何かもっと、特別な場所に行きたいのかと思ってたな。

「……色々と、言いたいことはありますが……、まず最初に、春人さん。──入学式から今日まで、ちょうど二週間、最後まで私と付き合って下さって、ありがとうございました。……今からは、貴方の質問に答えます」

 枝垂がそう言って、その場に張り詰めた空気が流れる。

 ……その言葉に、俺はまた、実感させられる。

 あぁ、本当に、最後なんだって。

 分かってはいた。どの道、この関係は二週間限り。

 それに生きていれば、必ず別れというのはやってくるもので。

 ──けど明日から、こいつはもうここにはいない。そんなの、突然すぎやしないだろうか。

 色々と聞きたいことはあったはずなのに、今が聞けるチャンスなのに、頭の中がゴチャゴチャして、何も出てこない。

 早く。早く何か言わないと。

 そうじゃないと、こいつは、もう──。

「……………っ」

 ……そうして出てきたものは、こいつへの疑問でも質問でも、何かの言葉でも何でもなく、ただ……


 ──涙だった。


「……っえ」

 俺は、自分の頬を伝ってきたものを見て驚く。……俺……、泣いてる……?

 確かに朝も、危うく涙が出てきそうにはなったけど……。

 ──まさか俺が、他人との別れを惜しんで泣くなんて。

「……春人さん……?」

 心配そうな、不安そうな顔をして、俺の顔色を窺う枝垂。……だが俺の目からは、ボロボロと涙が零れ落ちてくるばかりで。

 ……俺、こんなに我が儘だったっけ……?

 ──『いなくならないでくれ」とか……、無理な願いだと分かっているのに、馬鹿なことを口走ってしまいそうになる。

「っ……、あの、枝垂………!」

 俺は、枝垂の顔を見て、言葉を失った。

 ──俺と同じものを、ポロポロと零していたから。


「……っ……、やっぱり私はっ……、私が存在するだけで、人を不幸にしてしまう……っ」


 悲しみに顔を歪ませて、声を震わせながら、そんな発言をした枝垂。

 ……は……?

 ……お前が存在するだけで、人が不幸になる……?

 何で、そうなるんだよ。

 何で、お前も泣くんだよ。

 俺が呆然としていると、枝垂は微かに嗚咽を漏らしながら、口を開いた。

「……私はっ……、人に、喜んでもらうことが好きです。笑顔にして、それを見ることが、大好きです。今までも、私が綺麗に花を咲かせることで、沢山の人が笑ってくれたことが、とても嬉しかった。……でも……っ」

「みんな、私の姿が寂しくなってくると、笑顔が消えるんです。……喜ばせたいのに……、反対に、悲しませてしまうんです……っ」

 苦しそうに、そんな言葉を吐き捨てる枝垂。

 ──それは、〝桜〟としての、こいつの叫びだった。

 ……そしてこいつは、口にしてはならないことを言った。

「……私が存在することで……、誰かを悲しませてしまうくらいなら……、──私なんか、最初からいない方が……っ!」

 その言葉に、俺の中の何かが切れた。

 ……それと同時に、何かが、繋がった。


 ──こんなことになるなら、こんな思いをするくらいなら

 ──出会わなければ……



「んなわけねぇだろッ!!!!」


 俺は、今までで一番というくらいの大声を出した。

 枝垂は、そんな俺を見て目を丸くしている。

  ……これは、こいつと、俺自身に向けたメッセージだ。

 どうやら俺は、まだまだガキのままだったらしい。現状を受け止められずに、嫌なことから目を逸らして、ただ駄々をこねているだけだ。

 ……挙句の果てに、それを言い訳にして、こいつとの出会い自体を否定した。

 ──本当に一番辛くて悲しんでいるのは、こいつだというのに。

「枝垂……、俺は、お前がいなかった方が良かったなんて、思えねぇよ。……お前と出会ってなくても俺は、つまらねぇ人生を送っていただけだろうから」

「……こんな結果になっても、俺は、知ることが出来て良かった。お前といて俺の中で感じること一つ一つ、何もかも初めてのことばかりだったんだ」

 これが、俺の本心。本当に、沢山のものを貰った。

 ……だから……

「だから、そんな寂しいこと言うなよ。お前が、人が悲しんでいるのを見て自分も悲しくなるみたいに、俺もお前が悲しんでると悲しくなる。……俺もいい加減、けじめをつけるよ」

「──俺も笑うから、お前も笑え」

 随分と、横暴な願いであることは、分かっている。自分から泣き出して、こいつを悲しませておいて、一体何を言っているのか。

 ……だが、何時までも悲しんではいるわけにはいかない。

 どうしたって、結末は変わらないのだから。

 俺は、枝垂の言葉を思い出す。


 ──どうせ同じエンディングに辿り着くのなら、今を悲しむより、楽しんだ方がいいじゃないですか!


 ……また、忘れていた。

 自分自身の意外と繊細な心に苦笑しながらも、俺はようやく、覚悟を決めた。

 ──そうして枝垂の顔を見ると、こいつは、泣き止むどころか、更にボロボロと涙を零していた。

「……!?えぇっ!?」

 俺は、そんな枝垂を見て驚く。

「……っあ……、す、すみません……っ!これは、その、違くて……っ!」

 物凄く慌て始めるこいつに、俺は「フッ」と笑みを溢す。

「分かってるよ。……ありがとな」

 こいつが今流しているものが、先程の『悲し涙』ではなく──『嬉し涙』であるということを、俺は分かってる。

 全くいいことなど言えていない気がするが……、こんな俺の言葉で涙を流してくれて、ありがとう。

「っ……あの……、本当に、すみません。春人さんからの質問を、聞くつもりだったのですが……。──私から、お話をさせていただいてもいいですか?」

 涙を拭いて、真剣な顔をしてそう言った枝垂。

 俺は勿論、「いいよ」と返事をした。


 ……こいつがまだここにいることに、少しの安心感を抱いた。


「……私が、二週間だけ付き合ってほしいといった理由は、今朝お話ししましたよね?」

「あぁ」

 確か、特別な記憶が欲しかったとか何とか……。

 ……そういえばあの時、妙なことを言っていたな。

 自分のことを、覚えていてほしかったって……。

「本当は、誰でも良かったんです。誰でも、私と付き合ってさえくれれば、それだけで」

 そう言ってから、枝垂は少し俯いて、口角を上げた。

「……だけど、知らなかった。私の好きじゃなかった桜に、そんな見方や考え方があるなんて。……人に面と向かって綺麗と言われることが、こんなにも照れくさくて、嬉しいものだなんて。人の言葉や笑顔に、ここまで思いを馳せるのだって。怒られたことも、初めてでした」

 嬉しそうに、何かを噛み締めるように、言葉を紡いでいく枝垂。……ところどころ、よく分からないことを言っているが。

 すると枝垂は、顔を上げて、真っ直ぐに俺を見据えた。


「私にとって、とても大切な二週間を、一緒に過ごせた人が──貴方で、良かった」


 その場に、華が咲いた。

 ……それくらいに、枝垂の笑顔は、綺麗だった。

 俺はこの胸の、よく分からない感覚に戸惑う。

 本当に俺も、知らないことばかりだったよな。


「……枝垂。──桜、好きか?」


 こいつもいつか、桜のこと、好きになってくれたらいいけどな。

 そんなことを思っていたけれど、キッカケというのは、案外些細なもので、


「──はいっ!!」


 俺の問いに、笑って返事をしたこいつを見て、心底嬉しくなった。

 ……やっぱりお前は、笑っていた方が良いよ。

「それに春人さん!何だか、一生のお別れみたいな雰囲気出してますけど……、これで最後というわけでは、ないんですからね!?」

 少し怒ったような感じでそう言う枝垂に、俺は「へ……?」と間抜けな声を出す。

 ……どういうことだ……?

「春人さん」

 枝垂は俺の名前を呼んでから、目の前にある桜の木に視線を移して、こう言った。


「──桜が、綺麗ですね」


「……っえ……?」

 俺は、その言葉に呆然とする。それって、どういう意味だ……?

 俺の解釈で正しければ……、そういうこと、だよな……?

「っ……、あぁ、綺麗だな……!」

 期待だけさせんのは、やめろよ?

 もう裏切られたとか、思わねぇから。

 俺はその言葉、信じちまうかんな。

 そう思いながら、目の前にある桜の木を見上げると、残っている花弁はもう数え切れるほどしかなくて。

 ……もうすぐ、枝垂はこの世界から消える。

 思い返すと、長いようですげぇ短かったな。

 この二週間、俺の人生の中で、最も濃い二週間を過ごした。

 この出来事は、忘れようにも忘れられない記憶として、俺の中で残るだろう。

「……そろそろ、時間ですね」

 枝垂が静かにそう言って、俺達は桜の木の下で向き合う。

 最後に、何と言うべきなのか迷った。どんな言葉を、かけるべきなのか。

 別れを惜しむなんてことは、今までなかったから、いざこういう状況になると戸惑う。

『さよなら』は違う。『またな』って言うのも……、何だか違う。

「……春人さん」

 こいつが声を発して、もう、時間がないことを察する。

 俺がこいつに、言っておかなければいけないこと。それは、きっと──。


「──桜ッ!!」

「っ!?」


 ……俺はこの時、初めて、目の前にある木の名前ではなく──〝枝垂桜〟の、名前を口にした。

 こいつはこいつで、物凄く驚いた顔をしている。

「お前はホントに変な奴だったし、俺はいつだってお前に振り回されてばかりだった!いきなり二週間だけ付き合えとか有り得ないこと言われるし、オマケに今度は普通の人間じゃないとか……!俺を混乱させてばっかだ!」

 ここまでの衝撃を受けたことが、俺の人生の中であっただろうか……?……いや、あるわけがない。

 お前の言動一つ一つに、俺は一々心を掻き乱されて。

 ……その度に、認めざるを得なくなるんだから。


「……桜、俺は──お前のことが、好きだ」


 ──言った。これだけは、言っておかなければいけないと思ったから。

 何で、お前なんだろうな。

 何で、俺が初めて恋をした相手が、普通の人間じゃなかったんだろう。

 苦笑することしかできないが、これも運命だ。

 この気持ちを否定したくはないし、ましてや後悔したくもない。

「──ありがとうな、ホントに」

 むしろお前へ贈る言葉は、感謝以外何も残っていないんだ。


「……そんなの、私もですよ」


 俺の言葉を聞いた後で、声を震わせて、そう言った桜。

 顔を上げたこいつは、泣きそうになりながらも、笑顔を見せていて。

「貴方の、おかげなんです。貴方のおかげで私は、好きじゃなかった桜も、自分自身も、好きになることができたから。……私の方が、ありがとうです」

 頬を赤く染めて、振り絞るような声でそう言うから、俺の心臓が持たない。

 ……けど、何だろうな。この気持ちを、何て言い表せばいいのか、よく分からねぇんだけど……。

 ──こんな俺でも、誰かの役に立てたり、感謝されたりするんだな……って考えたら、何だか胸が熱くなった。

 ……俺に沢山の感情を教えてくれてありがとう、桜。

「……それから……」

 一言呟いて、桜は俺のすぐ目の前に立つと、俺の服の襟元をクイッと引っ張った。


「──私も、貴方が好きです、春人さん」


 ……初めてだった。

 そしてそれが、桜の最後の言葉だった。

 彼女の周りが、光で包まれたかのように輝きだして。

 ……少しずつ、光の粒となって、消えていく。

 綺麗に微笑んで、桜は静かに、空に吸い込まれるように、この世界からいなくなった。

 ……俺はただ呆然と、まだ熱を帯びている唇に、手を添えることしかできなかった。

 だが、


 ──そうやって消えていった桜の様子は、やはり、綺麗だった。




 ……あれから、どうやって家に帰ったのか、覚えていない。

 気付けば、朝を迎えていたような感じで。

「……学校、行かねぇと」

 寝起きで上手く回らない頭を押さえながら、俺はダラダラと制服に着替える。時計を見るともう結構な時間で、俺は朝食を食べずにそのまま家を出た。

「行ってきまーす」


 ──全部、夢だったのではないだろうか。


 もしくは、昨日のことは嘘で、学校に行けば普通にあいつがいたりするんじゃないだろうか。

 ……そんなことを思ったけれど、やはり現実はそう上手くはいかない。

 ──そこにはもう、桜はいなかった。

 それどころか、


「……え?枝垂、桜さん?……誰ですかその子?」

「………は?」


 教師も、あいつと一緒にいた奴等もみんな、桜のことを忘れていたんだ。

「……枝垂さん?誰その子?え、何々春人~、ついに好きな子でもできちゃった~?」

 ……それは、海人までもが同じだった。

「ホントに覚えてないのか…!?お前にも話聞いてもらったじゃねぇか!!」

 俺はお前のおかげで気付けたことだって、あったのに。

「何言ってんだよ春人~、疲れてんのか?大丈夫?」

「………」

 ……どういう、ことだ?

 俺以外、桜の存在自体を、覚えていない?

 いや、むしろ──まるで、最初からいなかったみたいな……。

 俺は現状を受け止められずに、ただただ立ち尽くすことしか出来ない。

 ……本当に、夢だったのか……?

 そもそもあいつは、存在しなかった……?

 今までの出来事全部、俺が見た幻だったのか……?


 ──いや、そんなはずがない。


 あいつとの出来事全部、幻だったなんて、夢だなんて、今の俺には到底思えないんだ。

 何回も、あいつに触れたし、色々と痛い思いだってしたし、何回もあいつの言葉に救われた。

 ……俺の身勝手かもしれねぇけど、こんなこと、夢であっていいはずがないんだ。

 となると、おかしいのは俺ではなく、やはり周りということになる。

 何故、俺以外誰一人として、あいつのことを覚えていないのか。

 最初から、いなかったかのような雰囲気が流れているのか。

 こんなことは、明らかにおかしい。普通じゃない。

 何かきっと、変な力が働いて……。

 ……ん?

 その時、俺はふと、桜が言っていたあの言葉を思い出した。


 ──誰か一人だけでもいい。私のことを、覚えていてほしかったから。


 ……妙なことを言っているとは思っていた。どういうことだろうって。

 だけど、やっと、その言葉が何か、繋がったような気がした。

 もしかしたら、あいつは──こうなることを、知っていたのか?

 だから俺に、そんなことを言ったのか……?

 俺はこの現実を上手く受け止められずに、何だか熱いものがこみ上げてくる。

 あいつはもうここにはいない。他の奴等も、あいつのことを覚えていない。

 ……まるで、あいつと出会う前の、退屈でつまらない日常に引き戻された気分だ。

 そんなことを考え、思わず下に落とした視線を慌てて上へ引き上げる。

 変わっていないなんてことはない。

 周囲が変わっていないとしても、俺は確実に、少し前と比べて変化している。

 ……お前との思い出は、ちゃんと、俺の中に残ってるから。

「……っ……、忘れねぇよ……絶対」

 世界中がお前のことを忘れても、桜が望んだように、俺だけはずっと、お前のことを覚えてるから。


 ……昨日交わした、あの言葉も。




「はぁ……」

 あれから、一年の月日が経った。

 時が経つのは早いもので、今日から俺も高校二年生だ。

 先輩か……。後輩と何かどうせ関わらねぇって、前の俺なら思ってたんだろうな。

 何が明確に変わったということはないが、あれからの俺は、少し丸くなったような気がする。前ほど物事を面倒くさがらなくなった。

 ……人と関わりを持つことは、悪いことばかりではないと気が付いたから。

 だから俺も、少しずつ形を変えていくよ。

「!おっ……、桜だ」

 正門を通り過ぎれば、一年ぶりに見る満開の桜の木。

 ……その時、嫌でもあいつのことを思い出した。

 あの日の言葉、お前はちゃんと、覚えているんだろうか。


「……桜が、綺麗ですね」


 それはきっと、言葉通りの意味じゃない。

「──!!」

『またここで逢おう』という、密やかな約束だ。


「……何してんだ?そんなとこで」


 遠目では気付かなかった。──桜の木の下で立ち尽くす、一人の少女に。

「桜を見てるの」

 一年ぶりのこの情景に、思わず涙で視界が歪む。

「は?桜?……好きなのか?」

「……そうだね」


「──大好きだよ」


 笑顔でそう答えると、そいつは俺の目の前に立った。

 何だか、夢みたいだ……と思ったが、これからまたきっと、あの夢のような時間を繰り返すことになるのだろう。


「──二週間だけ!私と付き合って下さい!!」


 一年前の今日。

 あの時の俺の判断が、良かったのか悪かったのか、それは今でも、分からないままだ。



                                    <END.>









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