魔人・魔人
輪郭が溶け、闇が彼を包み込む。
アガーレスは影の中で沈みながら、裂かれた肉体をゆっくりと再構築していく。
再生するたび、脳裏に浮かぶのはあの“人間”の姿だった。
サギリ――。
「あの剣士……人間のくせに、私を...」
吐き出した声は、影の底に溶ける。
怒りが冷たく心を満たす。
あの剣の輝きが脳裏に焼き付き、誇りを砕く。
「愚か者め。貴様の存在は私が力を証明する糧となる。
だが……まずは...を探さねば」
光の届かぬ影の海を、彼はゆっくりと進む。
やがて一筋の微かな明かりが差した。
その先に“何か”の気配を感じ、アガーレスはそこへ沈んでいった。
――リオル村。
静かな農村。
朝露が落ち、子供たちの声が響く。
小さな剣術道場から、若者たちの掛け声が上がっていた。
「サク、次!」
「はい!」
木刀を構える青年、サク。
短く整えられた黒髪と穏やかな瞳が印象的だ。
人当たりが良く、村の誰からも信頼されている。
対面するのは幼馴染のメリア。
快活で、何事にも真っ直ぐな女性だ。
二人は子供の頃から剣を交えてきた。
競い合い、励まし合い、いつしか村の若者たちの中心となった。
夕刻、訓練を終えて並んで歩く。
「サク、明日の畑、手伝ってくれる?」
「もちろん。お前の家、毎年草取り多いしな。」
「ふふ、じゃあお願いね。」
何気ない会話。
平凡で、しかし確かな幸福がそこにあった。
だが――その静けさは、唐突に破られた。
夜、森の奥から、低い唸りが響いた。
地鳴りのような足音が近づき、家々の窓が震える。
外に出た村人たちが、森の方を見て凍り付いた。
木々を薙ぎ倒し、巨躯の影が姿を現す。
灰緑の皮膚に血のような紋様が走る。
獣のような息を吐きながら、その口が動いた。
「ここの人間を……食い尽くす」
低く響く声。
人語を話すそれを見て、村人の一人が叫んだ。
「ま、魔人だ! オークの魔人が出たぞ!」
村全体が悲鳴に包まれる。
男たちは鍬や斧を握り、サクは剣を取った。
「皆、子供と女を後ろへ! 俺たちが前に出る!」
叫びながら突き進むサク。
メリアも隣に並ぶ。
だが、その“戦い”は、あまりに一方的だった。
剣で斬っても、刃が通らない。
火を放っても、瞬く間に吹き消される。
オークは笑いながら、倒した者をそのまま掴み、口に放り込んだ。
骨が砕け、肉が潰れる音が響く。
血が地を覆い、空気が鉄の匂いで満たされる。
喰らうたび、魔人の体は膨張し、筋肉が膨れ上がる。
サクは剣を握り締め、震える足を押さえ込んだ。
「……行くぞ、メリア。」
「うん……!」
二人は同時に走り出した。
サクが背後を回り、メリアが正面へ。
剣を突き立てようとした瞬間、魔人の腕が振り下ろされる。
地面が裂け、土煙が上がる。
メリアの体が宙を舞い、壁に叩きつけられた。
骨が砕ける音が響く。
それでも彼女は、剣を離さなかった。
血を吐きながら立ち上がり、叫ぶ。
「まだ、終わってない……!」
その声に応えるように、魔人が笑う。
次の瞬間、巨大な腕が彼女を掴み上げた。
悲鳴を上げる暇もなく、牙が閉じる。
――メリアの上半身が、喰われた。
肉片が飛び、血が地面に散る。
残された腕と剣が、サクの足元に転がった。
視界が赤に染まる。
息ができない。
喉の奥で、何かが千切れる音がした。
「……鑑定」
震える声で、スキルを発動。
視界に映る黒い文字。
......
意味が理解できた瞬間、サクの膝が崩れた。
勝てる相手ではない。
それでも、目を逸らせなかった。
オークが血塗れの手を伸ばす。
その刹那――地面に落ちた影が揺らいだ。
木々の影が波打ち、闇が滲み出す。
そこから、ひとりの悪魔が姿を現した。
アガーレス。
その皮膚は闇のように滑らかで、目には冷たい怒りが宿っていた。
狭霧に敗れたときの傷跡はすでにない。
ただ、怒りだけがその身を動かしていた。
「……くだらぬ。こんな獣ごときが私の目の前に立つか」
魔人が咆哮を上げ、アガーレスに突進する。
しかし、彼は微動だにしない。
影が地を走り、魔人の足元から黒い槍が突き上がる。
衝撃と共にオークの体が吹き飛び、家を貫いた。
立ち上がろうとしたその腕を、見えない力が捻じ曲げる。
骨がねじ切れ、悲鳴が夜空に響いた。
「貴様など、虫にも劣る」
アガーレスがゆっくりと振り向く。
その目が、サクを射抜いた。
「あなた、名は」
「……サク」
「そうですか。
私はあなたに“力”を授けます。代わりに私の手伝いを...」
サクは何も言わず、立ち上がる。
足は震えていたが、目は濁っていなかった。
アガーレスが掌を差し出す。
そこには黒い血のような液体が渦を巻く。
「飲みなさい。この力であれを殺しなさい」
サクはその言葉に応じ、ためらいなくそれを掴んだ。
黒い液体が喉を焼き、全身に広がる。
瞬間、角が額から生え、血管が黒く染まった。
契約
オークが再び立ち上がる。
しかし、サクの目にはもう恐怖はなかった。
手を前に出す。
影が地面から立ち上がり、鋭い槍へと変わる。
放たれたそれは、魔人の胸を貫いた。
続けざまに、黒い刃が空間を裂く。
叫びもなく、オークの体が崩れ落ちた。
サクの呼吸だけが響く。
静寂の中、アガーレスの声が低く響いた。
「……とある剣士を探しなさい。彼に辿り着けば、先ほどの女性に会えますよ...」
サクは答えない。
血の臭いが残る風の中、剣を手に歩き出した。
背後には、崩れた村と焼け焦げた家。
影が彼の足跡を飲み込み、やがて夜に溶けた。
次回もよろしくお願いします。




